白鳥姫
白鳥姫 (茶庭)
睡蓮宮に寄せる波は白鳥のはばたきが作り、朝靄は鷺の吐息から生まれるのだという。
星から星へと、列車を乗り継いで旅する吟遊詩人が初めて宮を訪れ、琵琶の調べとともに物悲しく語ってくれた。
「白鳥は生者の魂が遊びに出たもの、鷺は死者の魂が化して成るものにございます」
姫君はいつも、御簾の内から霞んだ世界を見ている。外界のすべてはどこか現実感がなく、ふわふわと頼りない。
色も音もにおいも真新しさがなく、毎日は同じように何も変わらずに過ぎていく。
睡蓮宮は閉じている。
その暮らしに突如まじった異音。
琵琶の音は、姫君の好むものではないはずだった。時に荒々しく、時に幽かで、耳に慣れぬざらざらとした音。
それなのに、吟遊詩人の口から紡がれる物語にぴたりと合い、姫君の心をかき乱すのも、この音なのだ。
姫君はたったいま詩人から贈られた琵琶を取り出して、弦をはじいた。
音は出ない。
「わたしには…語ることなど何もない。だから琵琶も語らぬのじゃな」
聞く人もいないのに、ぽつりとつぶやき、たまらなくなって姫君は御簾の内から滑り出た。
あれ、と侍従が声を上げる。その手をすり抜けて逃げる。きっとすぐに捕まってしまう。
それでも、姫君は琵琶を抱いて外へ出た。宮を囲む湖の岸辺へ一目散に駈けていく。
この湖を渡ることができるのは、今まさに詩人が漕ぎ出した小舟と、水鳥くらいのものだろう。
今も、鷺が一羽、体を青白く光らせて水面へ舞い降りる。姫君は鳥と船とを追って湖へ入っていった。
白い砂利が姫君の柔らかい足の裏を傷つけ、にじみ出した血が純白の衣をほのかに染める。
鷺の火は宵闇の輝き、陽の下で燃えるものにあらず、と詩人は歌った。
その光が、狂おしいほどにほしいと姫君は思った。
「そなたはずるい!そなたは自由だ。琵琶はそなたのためにしか語らぬ!」
鷺に言うように、詩人を責めるように、姫君は叫ぶ。だんだんと湖は深くなり、底に足がつかなくなってしまう。
わたしはいつも何かをうらやみ、何かに嫉妬している、姫君はそう心で思った。
けれど、そのような思いを抱くのは罪だろうか。
こうして白い衣を着せられ、色あせた世界で名も知らぬ者達にかしずかれて閉じ込もっていなければならないほどに、
わたしは邪なのだろうか。
そうして言い訳をし、何かを呪って過ごすうち、姫君は自らの心がもはや無垢ではないことに気づいた。白い衣が何よりの皮肉に感じられる。
だから、魂を飛ばしてここから逃がれることすらできないのなら、せめてこの身を鷺に変えてしまいたい。
鷺は、この湖を渡っていける。睡蓮の宮に朝靄を残して、向こうへ飛んでいける。
ベン、ベン、ベヨォン。
水底が近づき、遠くなっていく姫君の意識を、奇妙にゆがんだ音が引き戻す。
水面の青白い炎がそれに呼応するように揺れ、大きな影が姫君の方へ近づいてくる。
「わたし、もうすこしで自由になれたのに」
「自らを縛っている人は、どこにいようと何になろうと、自由になどなれません」
いつのまにか、姫が抱いていた琵琶は吟遊詩人の手にあった。切ない響きが水面を滑っていく。
「姫君、あなたは背負うことを拒否した」
「何を」
「自らを」
「…おまえは残酷だ」
「でも私は、あなたの望む自由そのものです。自由とは残酷で、必ず代償を求める」
小舟は湖の真ん中へ浮かんでいたが、波に運ばれて徐々に睡蓮宮へ引き寄せられていった。
「おまえの言っていた白鳥のはばたきが、わたしの邪魔をするようじゃな」
ばちを握りながら、あなたこそが白鳥ではありませんか、と吟遊詩人は悲しげに言った。
ベベンと琵琶が鳴る。
「絶えず何かに憧れ、でもこわがりで、さびしい湖で寄せては返してどこへも行けぬ生き魂」
すぅと鷺が船べりへとまり、心配そうに姫君の顔を覗きこむ。
「あなたは鷺の青い火に惹きつけられ、鷺もあなたの白い輝きに惹きつけられる。けれどふたつはひとつにはなれないのです」
小舟は睡蓮宮へ着いた。姫君を抱き上げて岸へ下ろし、吟遊詩人も船を下りる。たちまち侍従たちが集まって騒ぎ立てた。
鷺をのせた小舟が、滑るように動き出す。
姫君は吟遊詩人のことを心配した。ここから出られなくなってしまうではないか。
しかし詩人は大したことではないという風で鷺に手を振り、傍らの姫君へ語りかける。
「白鳥姫よ、己の弱さに流されそうな時は琵琶をお弾きなさい」
「い、いやじゃ、わたしは外へ行きたい」
吟遊詩人は履物を脱ぎながら、だだをこねる姫君を見つめた。
「本当はこわがっているでしょう」
答えられぬ姫君の傷ついた足に、吟遊詩人は靴を履かせ、彼女の手に一枚の赤い切符を握らせた。それは星間列車の特別切符だった。
「いつかこの白い靴を履いて、あなたの足で私を探しにおいでなさい。鳥にならず、あなたのまま、ひとりきりで自由を追っていらっしゃい」
あなたがそれを望むなら、と吟遊詩人は笑った。
「でも、誰かと共に船に乗るか、鳥になるかしなければ湖は渡れぬ」
「どうでしょうね」
吟遊詩人はいたずらっぽくほほえみ、まるで陸上で段差を上ろうとするかのように水面へ右足を載せた。ついで左足も同じようにする。
「そも白鳥は闇をも裂く輝きなり。昼の陽をおそれることなし」
姫君はとまどい、詩人を見つめた。
「睡蓮はいずれ開き、白鳥は銀河へ飛びさる」
言葉に促され、姫君は指を動かす。
ベベン。
はじめて琵琶が姫君に応える。荒々しくて幽玄で心かき乱す音。
吟遊詩人は満足気にうなずくと、風のように素早く湖の上を駈けていった。水しぶきひとつ上げず、跡を濁さず。
侍従たちが口をあんぐりと開けてかの人の背中を見送る。
その中心で、姫君は無心に琵琶を弾いた。
涙をこぼし、眉間にしわを寄せ、衣の裾を赤く汚していたけれど、その瞬間の姫君は白鳥のように優雅で、白い炎のごとく美しかった。
遠くのほうから響く星間列車の警笛が、このときの姫君の耳には大きく聞こえていたであろう。
いつかの旅立ちを、予感させる音として。
(おしまい)
あとがき
前話に比べると和風の作品となりました。モチーフは「はくちょう座」です。 ギリシャ神話のレダやヘラ、オルフェウスのイメージを練り込んでいます。
今話に登場した吟遊詩人と、前話に登場したグレンツェンは重要なキャラクターとなっていきます。イメージイラストをpixivで公開していますのでそちらも合わせてごらんください!ユーザーネームは茶庭です。
閲覧ほんとうにありがとうございました。サークル花浅葱の情報はこちら↓
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