1話 生贄と竜 5
巣の中で、腰を据えて話をした。彼らが納得しなくとも、理解するのに時間は掛からなかった。さらわれて食べられそうになったから身体を乗っ取った、だけで終わるのだから時間など必要ない。それでもアディスは話をあちこちに飛ばすので、簡単な話なのに時間がかかった。
どちらにしても、彼らが呆然としていた時間の方が長かった。
なにせ目の前で竜になって、竜のまま話しているのだ。有無を言わさぬ威力がある。
「……そう言えば、アンに薬を使って悪さをした挙げ句に消えたとか、クレア様がお怒りでしたよ」
「薬など使っていません! 子供にそんな事するはずがないでしょう! ああ、可哀想なアン。現実に見たことを幻覚呼ばわりされたのですね。きっと深く傷ついているはずです」
彼は胸に手を当ててため息をついた。
「へぇ、幼女といっしょだったんだ……」
聖良の呟きが聞こえたのか、アディスは人間の時のように首をぶんぶん横に振って手を握ってきた。
「ただ、湖が見たいという子供の我が儘を聞いていただけで、何もしていませんよ!」
「所詮は未遂ってだけでどうでもいいです。そんな事より、血が出てるんですけど」
「ああ、すみません。爪が当たってしまいましたね」
アディスがぺろりと聖良の手の甲を舐める。血がなくなると、その下にはつるりとした肌が見えた。かなり深く切ったはずなのに、傷跡すらない。
「血を……分けたんですか」
「当たり前でしょう。こんな可愛らしい顔で苦しまれて、見捨てるなんて人間じゃ……ああ、ないですねぇ。慣れませんね」
彼は自分で人間を捨ててしまった。
慣れてもらわないと人間側が困る。手加減無しで触れられれば、人間など簡単に死んでしまうのだ。いくらすぐに治るといっても、痛みは以前と同じようにある。こんな事ばかりされていては、血がいくらあっても足りない。
「俺達なら、迷わず見捨ててるんでしょうねぇ」
「当たり前じゃないですか。男は自分で何とかするしかないんですよ。私も何とかしました」
「女でも大人なら見捨てるくせに」
「当たり前です。いい年していつも他人に助けてもらえると思ってはいけません」
聖良は小さくため息をついた。
その通りだ。まったくもって、その通りだ。子供であっても自分の力でどうにかしなければならなかった。
子供のようだからと手を貸してくれる人はほとんどいなかったし、大きくなっても子供のようだと侮られた。
「なんでこんなことになったんだろう……。
もう少しで財産を取り戻して、大学に進学できそうなときだったのに……」
「財産を取られていたんですか?」
「はい。アルバイト先のご夫婦に、弁護士さんの知り合いがいて、相談していたんです」
アディスはふむと頷いた。
「そういう解釈もあるのですね」
「解釈?」
「遺産問題で殺されそうになっていたとか」
聖良は頭を抱えた。階段から突き落とすなど、方法はいくらでもある。
こめかみを押さえて、めまいに耐えた。
彼らは身寄りのない人間を想像していたのだろうが、解釈は無限にあるようだ。
「あのまま帰ってたら、私は殺されていたかも知れないと言いたいんですか?」
「だとしたら、私達は命の恩人ですね。感謝して下さい」
「開き直らないで下さい」
いい人達ではなかったが、殺されそうだった可能性があるというのは、少しショックだった。
彼等は自分達が一番可愛くて、姪に残されていた遺産で全て奪い取り、車を買ったりと使い込み、それが発覚することを恐れ、そして周囲の視線を恐れていた。
「弁護士さんにも相談していたし、もし私が死んだら疑われてそこに住めなくなるから、そんな事にはならなかったと思います」
話が大きくなれば仕事はクビ、家は元々聖良の遺産。もし聖良が死んだら、遺産の事で他の親戚も食いついてくる。警察にも疑われる。
メリットは無い。
「そう思われても仕方がない状況という見方もありますか……興味深い」
彼は尻尾を振って、楽しげに言った。今の彼は、好奇心に支配されている。それが聖良の癪にさわった。
「自立しようと思ってたのに、アディスがろくでもない計画を立てたから、痛くて恐い思いして、こんな格好をしてるんですよ!」
「お前達、何を見てるんですか。レディに着ている物を差し出そうという気持ちはないのですか」
アディスに迫られ、彼らは少し脅えながら、迷彩柄の上着を差し出した。
「下も」
アディスは当然とばかりに要求する。
「いや、それは無理です。帰れません」
「まあ、仕方がありませんね。じゃあ、今週中に食料と調味料と衣服を持ってきなさい。服がないとさすがに外には出られませんからね」
聖良もこくこくと頷いた。こんな格好で人里に行くなんど無理だ。ジャージには穴が空いているし、変な目で見られるだろう。
聖良はぶかぶかの上着を着込んで、生臭さに顔を顰めた。汗と泥と草を潰したような匂いがする。
「セーラ、着ていた上着が乾くまでの我慢ですよ。それにとっても可愛いですから」
「は?」
「子供が大人の服を着ているようでとても愛らしいです」
「そーですか」
彼の特殊な趣味は聖良には理解できない。理解を示そうとするだけ無駄なのだ。
聖良は上着をかき寄せ、冷えた手足をさする。洞窟は布の一枚巻き付けただけでは寒く、寝ていても風邪をひきそうだった。
「毛布も欲しいです」
「ああ、そうですね。日用品もいりますし──まあ、運ぶのはこの二人ですから、少しずつになると思いますが」
「そうですね。大勢で来ても、見つかったら食べられちゃいますね」
もちろんネルフィアにだ。
「今も下には人はたくさんいますよ」
ディロンが地面を指さして言う。
捕縛だけならともかく、運ぶのには人数がいる。親が探しに来るに前に遠くへ逃げなければならない。
アディスは聖良に向けていた笑みのまま、二人に顔を向けた。
「というわけで、竜のことは適当にうやむやにしておきなさい。
竜の中でも、彼女──母はかなり特殊です。人が手を出していい相手ではありません。彼女を敵に回せば、都が一夜で火の海に変わるでしょう。彼女の力は高位の悪魔に匹敵するものです」
それがどんなレベルなのか分からないが、魔王クラスのすごいドラゴンなのだと仮定し、ゲームのラスボスが似合いそうな外見思い出して身震いした。
「では、ずっとここにいるつもりなんですか?」
「致し方ありません。
家出などしたら心配して母が探しに来ますよ。
いいんですか? 傷を付けても見る見る間に回復する鋼の肉体を持つ竜が、あの巨体のまま息子を捜して火を吐きながら飛び回り、腹が減ってはそこらの人間をつまんで食う、という事態になっても」
そこまでいくと、一種の災害である。
「どうぞ好きなだけいてください」
「ようやく私の自己犠牲の心を理解しましたか。ならばお前達は、こっそりとセーラに似合う服を見繕って持ってきなさい。もう少ししたら、母を説得して少しは戻れるようにします。それまで、くれぐれもクレアには私のことを話さず誤魔化してください」
「誤魔化すんですか」
「素直に言ったら怒るじゃないですか。あの術を私が完成させていたなんて知ったら」
アディスのようなタイプが恐れるなら、厳しく常識的な大人の女性のような気がした。アディスが怒られるような事をしているから悪いのだ。
「じゃあ、いつものように口では説明しにくい不幸な目に合っています、って言っておきましょう。クレア様はそれで納得してくださるでしょうから」
聖良は耳に飛び込んできた言葉を噛みしめて、眉間を押さえてうつむいた。
彼も、普段から不運なのだ。それで納得されるほど不運なのだ。
聖良は呆れながらも哀れみの目を向けた。不運だからマイノリティに走ったのか、変態だから不運になったのか、考えるのは馬鹿らしい。
そんな事を考えたら、聖良はなぜここまで運に見放されているかを考えなければならない。
「あの、し、下着も持ってきてください」
恥ずかしながら勇気を出して言ったのだが、二人の青年は聖良をじっと見つめて、嫌な感じの笑みを浮かべた。
「誰の許可なくセーラを見ているんですか。子供扱いをしておいて、乳にだけは見入って恥ずかしい男達ですね」
アディスの言葉を聞いて、聖良は上着のボタンを首元までかけた。
年増扱いして見た目だけは好みだという男と、胸元だけ見てくる男はどっちもどっちである。
「セーラもそんな格好で前屈みになってはいけません。私は紳士だからいいものの、世間の下卑た男などに一瞬でも気を抜いてはいけません。私にとって貴方は大切なパートナーですから」
「………」
竜に戻ると自力で人間になれない彼にとって、それはそれは大切なパートナーだろう。かと言ってずっと人間の姿というわけにはいかない。彼はもう、人間ではないのだから。
「アディス様、人間の姿になっていたのは、どうやって? よく聞けば、翻訳術かかっているみたいですが」
「もちろんセーラですよ。彼女は魔道の女神の申し子の様な女性ですからね」
あまりにもの不幸ぶりに、小公女とまで言われた聖良が女神の申し子とは滑稽だ。青年達は聖良に疑いの目を向けた。それらしいのは発音だけで、教えられた言葉を口にしただけだとは言う必要はない。聖良も嗜虐趣味の人間に売られたくはないから、無力を自ら訴えるようなまねはできない。なにせ相手はアディスの部下である。平然と裏切りそうだ。
「しかし、術に失敗は……」
「失敗ではありませんよ。彼女がそれを特殊だとは認識していなかっただけですから」
日本人が完璧な発音の日本語を話すことに、特殊性を見出す日本人はいない。英語の発音まで日本語の発音なのは情けないことだが、学校では常識だ。外国人教師を見ればつい逃げてしまうのも普通だ。
「彼女の世界では、恐ろしい事にあれが普通なんですよ。やはり廃れたには理由があったようですね。ちゃんと記録しておかねば、その内誰かがうっかり無自覚の化け物を呼び出しますよ。セーラは少し年増ですが純情で可愛いからよかったものの」
「計画を立てたのは自分じゃないですか。俺ら従っただけですよ。
あと、その女神様はいくつなんですか。伝説の時を操る力なんて当たり前に持ってる世界があるんですか?」
その言葉に、聖良は頭を殴られたような衝撃を受けた。
そんな大層な魔法を使ってまで子供の姿を保ていると、この男は言いたいのだ。
「ひどいっ。
私は普通に背が低いだけなのに、そこまで言うなんて……」
「あ、いや、別にそんなつもりは」
そんなつもりがなかったら、どんなつもりで言ったのかと、聖良の目尻はますます吊り上がる。
「いいんですよ。私なんて当たり前のように小学生と間違えられて止められるんですから。成長なんて期待できる年齢も過ぎたし、私より小さなおばあさんとお話しするのが心の支えだったチビですから」
それに、少ないとはいえ、聖良よりも小さな人はいるのだ。もっと大きな問題が家庭にあって、外見の事など考えている時間もなかったのだ。生きるのに必死だった。小さいことで虐められもしたが、それ以上に生きるのに必死だった。
「うっ……」
今までたまっていた物があふれ出すように、涙が落ちた。
嫌な目に遭うのは慣れているのに、涙が出て止まらなくなっていた。
こんな恐い世界で、高い崖の上で、大きな巣の中で、知らない人達の前で、聖良はぼろぼろと泣いている。夢であれば良いが、夢ではないと分かっていた。
「ああ、泣かないでください。その顔で泣かれるとどうしていいか……」
アディスが手を伸ばし、しかし竜の手ではうかつに触れられないと引っ込める。
「いいじゃないか。小さい代わりに胸が成長してんだし」
「そうだよ。ほら、縦にでかくて色気のない女よりはいいよ」
「バランス悪くて悪かったですね!」
フォローにもならない人間二人の言葉に、聖良は叫んで布を頭から被った。
「もうやだ」
帰りたい、とは思わない。帰ってもいいことなどない。殺されそうになっていたのかもしれないのだ。どうでもいい、いなくなっても当たり障りのない人間なのだ。だったら、どこにいても同じだ。
そう思うと涙が出てきた。
小さな頃──両親がいて幸せだった頃や、優しい祖父母に引き取られた頃ばかりが頭に浮かんだ。
「なぁ、わるかっ…………うわっ」
男の一人が変な声を出した。
「ひっ」
もう一人は小さな悲鳴を上げた。
聖良はゆっくり頭を上げて、彼らの視線を追うように上を見る。
「あ、おはようお母さん」
アディスが媚びを売るように母の近くに駆け寄った。ずいぶんと母親を慕う子供の振りが上手い。ネルフィアはそんなアディスにキスをした。
「ただいまアディス。これから餌を捕りに行く予定だったけど、自分で餌をとってきたのかい」
二人が巨大なネルフィアを顔面蒼白になって見上げていた。
恐いのだろう。
それにここまで連れられた聖良の気持ちを少しは知るといい。
「セーラ、どうして泣いてるんだい。餌に苛められたのかい?」
聖良は素直に頷いた。
「なんて餌だろうね。小さいからって、うちのペットを苛めるなんて!」
火でも吐きそうな雰囲気で二人を睨み付けるネルフィア。恐いが、ペットとして認識されている聖良に対する害はない。
彼女ほど規格の違う大きい生物に言われると、小さいというのも腹は立たない。
「ちょ、なんてことを!」
「訂正しろよ!」
聖良はぷいと横を向き無視する。
「お母さん。この人達は餌じゃありませんよ。セーラを迎えに来た人達です」
「セーラを? 何で?」
「人間の女の子は、色々とあるんですよ。嫁入り道具とか」
おい、とは口には出さなかった。
「セーラを嫁にするつもりなのかお前。なんて気の早い」
「ははは……」
このままでは、彼女の娘にされてしまう。
「冗談ですよ。冗談」
聖良は自分の保身のために否定した。嫁よりはペットの方がマシだ。
「心配して来てくれたんです」
「じゃあ、なんで苛められてたんだい?」
「意地悪を言うんです」
意地悪だ。言わなくていいことばかり言う。身体的特徴は本人ではどうしようもないし、中途半端に小さな人間が背を伸ばすには、とにかくお金がかかるのだ。
「セーラを連れ戻しに来たんですが、帰らないと言うから意地悪を言ったんですよ。セーラはもう私の血を飲んでいるから人間とは相容れませんけど、見た目は変わりませんからね」
アディスは聖良の後頭部に頬をすりつけて言う。
「で、帰れない代わりに、聖良に必要な日常品を持ってきてもらうことになったんですよ。人間の女の子には、いろいろと準備が必要ですから」
立場は逆で、しかも別に連れ戻しに来たわけではないが、そう言っておくのが一番自然な流れだ。ネルフィアは大きな目を瞬きさせて、すっと顔を近づけた。
「そうかい。いい子だねセーラ」
ネルフィアの顎が聖良の頭部に激突する。
痛みを覚えて頭をさするが、衝撃に比べるとそれほど痛みは後に引かなかった。
ネルフィアはアディスにもまた同じ事をして、聖良はあれがキスなのだとようやく悟った。見ているだけなら動物同士で可愛いが、実際にはは印象よりも激しいものだった。
「じゃあ、狩りに行ってくるよ。人間ども、今度うちの子を苛めたら丸焼きにしてくれるから覚悟おし」
のっしのっしときびすを返し、光へと向かい飛び立つのが、アディスが魔法で開けた穴から見えた。
その後ろ姿は、とても綺麗で一瞬にして心が溶けるように軽くなる。見ているだけなら、竜というのは荘厳である。
「すっかり家族として認められましたね、セーラ」
「……そうみたいですね」
人ではないしとても乱暴だ。昨日も痛かったし恐かった。
しかし、家族という響きは、少しだけ胸をくすぐった。現金な物だと、聖良は自嘲した。