1話 生贄と竜 4
夜が明けた頃だ。
長い長い呪文を覚え、ようやく一言もつっかえずに呪文が終わろうとしていた。
聖良の発音に問題ないとはいえ、聞いたこともないカタカナの羅列が相手である。言いにくい単語も多く、間違えずに唱えるのが大変だった。アディスの口にした言葉を聖良風に『正しい』発音にするのも骨が折れた。必要なのは意味ではなく、音なのだ。
アディス曰く、何の道具もないから長いだけで、道具さえ揃えればあっという間に終わるし発音もそこまで重要ではないらしい。何もないから長く正確な発音の呪文が必要なのだ。
アディスはわくわくとした様子で頭蓋骨を頭に乗せてちょこんと座っている。頭蓋骨は下手に持つと壊れそうなので頭の上に載せて欲しいと言ってきたためにそうしたのだ。異様だが、そんな姿も可愛いので、頭蓋骨に触れるのを耐えた。他の色々なことに耐えて、ここまで来た。あとワンフレーズで終わる。
「ラド ラクトス」
最後の最後の言葉を無事口にすると、安堵の息をつく間もなく、アディスの身体が光に包まれる。頭の上に乗っていた頭蓋骨が、アディスと一体化していく。
少し気色悪いと思いながら、光に包まれる彼を見つめた。
光っていてよく見えないが、アディスの姿が不気味にぼこぼこ盛り上がり、小さくなったりと怪物が変身でもするかのような変化があった。
失敗したのだろうかと少し緊張しながら目を凝らして見ていると、突然光が強くなり、聖良の目が眩む。目を伏せて手をかざした時、
「ああっ!」
喜びの声が聞こえて目を開けると、目の前に大人の男の人が立っていた。銀髪の美男子が──全裸で。
「ひいっ」
聖良はあんまりな光景に、布を投げつけ背を向けた。
いくら何でもあんな物を見せるなど、ひどいではないかと憤慨する。
何よりも、なぜあんな変態が、あれほどの美男子に化けているのか。
「ああ、失礼。そういえば裸でした。裸の生活に慣れていたので、すっかり失念していましたよ。ここには布がいっぱいあって助かりましたね。針もあったらよかったんですけどね。ああ、もういいですよ。隠しました」
安心して振り向くと、確かに下半身は隠していたが、上半身は裸だった。聖良は恥ずかしくて視線を下げると、割れた腹筋が目に入り、さらに下に行こうとして横にそらした。バスタオルを巻き付けるように、布を巻いているだけで、いつ落ちてしまうか分からない。それは聖良にも言えるが、お互い様だからといって、見るのは恥ずかしい。
「おや、ウブな反応ですね。安心しました」
「…………は?」
気色の悪い事を言われて、聖良の声に棘が混じる。
「その見た目で、男の裸には動じませんってのは、さすがに落ち込みますよ」
「子供っぽくて悪かったですね」
「何を言うんですか。それは美点じゃないですか」
変態に常識を求めたのが間違いであった。
アディスは適度なサイズの布を切り裂いて二枚にし、端を結びつけて頭から被る。即席の貫頭衣だ。腰にも紐を結びつけ、それで彼は手を広げて見せた。
「これで平気ですか?」
「はい」
アディスは聖良の前に座り込んで、甘いマスクで、蕩けそうなほど甘い笑みを浮かべた。
一見、心優しそうな男性だ。ハンサムで、子供も安心して懐きそうだ。
「……犯罪には向いた姿をしていたんですね」
「失礼なことを言いますね。私は子供には優しいですよ。嫌われたくありませんから」
つまり少女を物陰から見つめるだけなのだろうか。それなら害はないので幾分マシだ。人様に迷惑をかけなければ、聖良はどんなマイノリティにも一定の理解をするように努めている。自分がチビと言われ続けたのだ。なぜ他人に迷惑をかけていない少数派を責められようか。
「しかし、セーラは本当に小さいですね。てっきり自分の身体が人間じゃないからだと思っていましたが、戻っても小さい」
「ち、小さくないっ」
「そちらの世界では皆セーラのように小さいのですか? いい世界ですね」
「み……みんなってわけじゃ。私より小さな人だっていますし……近所のおばあちゃんとか」
「…………つまり、腰の曲がったおばあちゃん並みに特別小さいんですね」
聖良は否定できずに押し黙る。
いつもクラスで一番小さかった。治療を受けるほどではないが、小さいというのは否定できない。
「で、でも、アディスさんは私の国の男の人よりもずっと大きいです」
「私は平均より少し高い程度ですよ」
男の人の身長など、背の高い知り合いがいないのでよく分からないが、彼は背が高い。肌色も髪も、聖良では生まれ変わらないと真似できないほど色素が薄い。
人種の壁は、どこの世界に行っても高い。
「異世界に興味の尽きることはありませんが、少し寝ておきましょうか。もしも私が寝ている間にお母さんが騒いだら、魔法を試してみたと言ってください。起きるつもりではありますが、私は朝が弱いんです」
アディスはくあっとあくびをする。身体が子供だから、余計につらいだろう。
「分かりました」
ネルフィアと一人で向き合うのは恐ろしいが、子供に起きていろとは言えない。
アディスは布を丸めて枕を作り、厚めの布を被って目を伏せる。聖良は光る石を布に包んでから、アディスを真似て横になり、眠い目をこすった。
なんて無茶苦茶な一日だったのかと、思い出すと目が回った。今まで不運だと思っていたが、まさかここまで不運とは思ってもいなかった。
それとも、聖良のような奇異な運命を持つ人間はこの世に何人もいるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、聖良は眠りの世界に沈み込んだ。
物音がして目を開くと、高い巣の壁の上に、黒い物が見えた。しばらくぼーっと眺めて、それが覆面をかぶった人の顔であることに気付く。誰かが覗いているのだ。
慣れぬ光景に一瞬夢かとも思ったが、昨日のことを思い出して身が強張る。後ずさり、巻いていた布が取れかけて、毛布にしていた布を引っ張り身体を隠す。こちらは暗いので向こうからはあまり見えないだろうが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
動いている内に光を向けられ、聖良はまぶしさに目をつぶった。
「餌の……」
「なぜ生きている」
人間達は囁き合い、聖良と背を向けて眠りこけているアディスを見比べた。
「なぜ人間が二人も……」
「竜のガキがいないぞ」
二人は少し殺気立っている。当たり前だ。彼らは命がけで仕込んだ仕掛けを確認しに来たのだから。
「お、起きてください!」
隣で暢気に眠るアディスを揺り起こし、必死にぺしぺし叩く。それに気付いた人間達は、巣の壁を少し苦労してよじ登り、侵入してくる。
「うう……なんですか」
「何ですかじゃなくて、来ましたよ!」
「ああ、女の子」
「って、寝ぼけて抱きつかないでください! ちょ、何するんですかっ! やめてくださいっ!」
こんな時にのしかかられて、聖良は必死で抵抗する。寝ぼけているからタチが悪い。朝に弱いどころでは無い。仕方がないので、頭突きをして身を守った。
「……って、ああ、セーラですか」
彼は落胆した様子で肩を落とし、それから様子をうかがっていた男達を振り返った。岩肌にとけ込みそうな色の迷彩服を着た男達は二人とも長身で、アディスが言っていたことが嘘でないことを実感した。皆、背が高い。
男達を確認すると、アディスは問答無用で呪文を唱えた。
「アグス・ドゥーヌ」
今までと違いはっきりとした発音で呪文を唱え、アディスは手を前に出した。
男は飛び退き、先ほどいた場所を光が貫き巣の壁に穴を開けていた。アディスはそれを見ると矢継ぎ早に魔法を放つ。それらをことごとく避ける二人の脅威の身体能力に、聖良は驚き目を丸くした。
二人は覆面を外して慌てた様子の顔を見せる。
「お、長!? ちょ、私です、ジェロンです! 寝ぼけないでくださいっ!」
「なんでアディス様が何でこんな所に!?」
聖良はしまったとばかりに顔を顰めたアディスを見た。見てしまった。
彼はその視線に気付き、はっとして引きつった笑みを浮かべた。
「知り合いなんですか?」
「きゅ……救出部隊でしょうか?」
雰囲気からして絶対に違う。大きな生物を捕らえるための、縄や投網を持っている時点で、絶対に違う。何よりも、今のは絶対に始末しようとしていた。
「アディス様、最近見かけないと思ったら、童女目当てにこんな所に!?」
「それは餌ですよ! 確かに長のいないところで始めたのは悪かったですが、何も邪魔をすることはないじゃないですか! いなかったんだから仕方がないですよ!」
彼らの言葉から、普段のアディスが窺い知れる。
アディスからじりじりと離れ、距離を置いて問う。
「長……って。アディスさん……やけに事情に詳しいと思ったら、まさか私を召喚した組織の……ボスみたいな感じの何かなんですか?」
捕獲部隊の二人は、口を押さえて顔を背けた。
「う……まあ、確かに一つの組織を作ったりはしました」
「私が今ここでこうしているのは、全部アディスさんのせいなんですか?」
「ほら、こういうのは男のロマンというか、せっかく星の並びも良かったので、魔術師なら一度は古の竜狩りを試してみたいと思うのは当然の事です!」
聖良はくだらない言い訳をする男を見て、目を細めた。
「つまり、本当はいらないけどチャンスだからやってみたかったと?」
「…………皆がやってみたいと言うものですから」
「で、なぜか自分が誘拐されてしまったと……」
どこまで皮肉な運命のイタズラなのだろうか。聖良は息を吸い、思い切り怒鳴った。
「もう、自業自得じゃないですか! ここまで見事な因果応報を見たのは初めてです!」
聖良はきっと前世で何か悪いことをしていたから運に見放されているのだと諦めていたら、この男は現世で悪事を働いていた。法では裁けないのかもしれないが、天は見ているのだ。
今は彼も不幸のまっただ中であり報いは受けている以上、責める意味はあまりないが、後できっちり嫌みを言い倒してやると心に決めた。
アディスは不機嫌を丸出しにして、部下二人に目を向けた。
「お前達のせいでバレちゃったじゃないですか。どう責任を取ってくれるんですか?」
それを防ぐために相手を殺そうというのも、恐ろしいボスである。
「いや、だって、その……結局、なんでここに?」
八つ当たりを受けながらも、彼らは冷静に問う。
「竜にさらわれてきたんですよ。天才といえども、空から巨大生物が来たらどうしようもないですからねぇ」
「……私はてっきり、クレア様に地下牢にでも閉じこめられているのかと思っていました」
「前々から思ってましたけど、運が悪い割にいつも変なところで運がいいですねぇ。ぴんぴんしてる上に童女までゲットしちゃってまあ……」
童女と聖良を見る二人の目に浮かぶのは、生贄に対する哀れみ。自分達で差し出しておいて、実に身勝手な感情だ。
「彼女は童女じゃあありませんよ。立派な成人女性です」
「はぁっ!?」
ジェロンは聖良を信じられないとばかりに凝視する。成人女性はいい響きだと、聖良は満足した。この世界では、十八歳は成人女性なのだ。
「冗談でしょう?」
「本人がそう言ってるんですよ」
「一年が半分とか」
彼らにしてみれば、東洋人の小柄な女性など、子供に見えてしまうのだろう。
しかし半分とまで言われるなどとは思いもしなかった。
「一年は三百六十五日。一日は二十四時間。一時間は六十分。一分は六十秒です」
「同じだな……」
同じなのだと、聖良自身も驚いた。世界が違っても時間は同じということは、違う星ではなく、パラレルワールドのようなものなのだろうか。どちらにしても、異世界にいるという現実には変わりない。命があるだけ幸運なのだ。
「ま、魔女なのですか?」
「でも、召還条件は無力な社会的にいなくなってもおかしくない人間だぞ。何のために馬鹿高い材料そろえて、ややこしい準備をしたと思ってるんだ。魔女なんて出てきたら失敗もいい所じゃないか」
好奇心のためなら、金も労力も惜しまない人達のようだ。聖良には理解できない人種である。
「資金を稼いだのは私でしょう。しかし、すべて無駄でしたね」
こんな無駄遣いも珍しいほどの、見事な無駄遣いだ。
「アディス様、ところで肝心の竜は?」
「いますよ、目の前に」
「どこにですか。小さくても、こんなところに隠れられるサイズじゃないでしょう」
アディスは頭をかいて小さくうなる。それから自分で呪文を唱えて竜の姿に戻った。あれだけ苦労したのに、母に披露することなく戻るとは、何を考えているのだろう。
当たり前だが、アディスの変わり果てた姿を見て、二人の人間はあんぐりと大口を開き、呆然と彼を見つめた。
「まさかお前たちが先行して出向いてくるとは思っていなかったから化けていましたけど、実は竜の体を乗っ取りました」
あっけらかんと笑うボスを、二人はしばし無言で見つめていた。やはり彼のしたことは、同じ世界の人間から見ても異常なのだと少し安心した。これが基準の世界など、生きていく自信がない。
彼らが正気を取り戻したのは、しばらくたってから。アディスが巣の中からほじくり出した木の枝で二人をつついて、ようやく二人は我に返り、アディスを質問攻めにした。