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1話 生贄と竜 3

 坂を上り巣に戻ると、ぎょっとしてそれを見上げた。

 一度見たにもかかわらず、思わずぽかんと大口を開いて、聖良はただただそれを見上げ、喉から声を絞り出す。

「でか……」

 赤黒い皮膚の竜は、アディスとは比べものにならないほどの巨体であった。さすがに歩いてビルを破壊しまくる大怪獣規模ではないが、家と比べられるような生物である。キリンもけっこう背は高いが、あれは細い縦長だ。しかしこの生物、背はもっと高くその上どっしりとした重量級。

「坊や、また好き嫌いをして残したのかい」

 その竜は聖良を見て呆れたように言う。

 アディスの顔がその言葉で引きつった。今は聖良の事だが、またと言うなら以前にも食事を残しているのだ。どんな餌を持ってこられたのか、考えるだけでアディスが可哀相になる。

「お母さんお帰りなさい」

 アディスの言葉に母竜は目を見開いた。

「どうしたんだい坊や。さっきまでは何を言っているか分からなかったのに!」

「この人間に協力してもらったんですよ。この人間に魔術を掛けてもらったんです」

「魔術」

 そう言って、興味深げに聖良を見る母竜。

「私はこの人が気に入り、血を与えました。死にかけていたので」

「血を与え……お前はそんなチビのくせに、もう血を与えてしまったのか! なんておませな子なんだろうね!」

 これはませた行為なのだと、半ば感心しながら竜を見上げる。広いと思っていたこの空間も、彼女のサイズだと狭く感じられた。彼女自身もそう思ったのか、身体を小さくした。そのままの意味で、一階建ての建物ぐらいのサイズまで縮まった。身体のサイズが本当に変化したのだ。それでも彼女が大きいことに変わりない。

「だから彼女は私の大切な人なんです。彼女がいればもっと色々なことが出来ます。だから食べないでください」

「そうかそうかい。お前は向上心があるねぇ」

 よく見ても、彼女とアディスはあまり似ていない気がした。彼女は赤っぽいが、アディスの身体は真っ白だ。目つきもアディスの方が優しく、顔つきもすっきりしている。アディスはきっと父親に似たのだ。

「お母さん。彼女はセーラです。魔術的な発音が素晴らしいんです。普通は詰まる部分でも、まるで何事もないようにさらりと口にするんですよ。発音が難解で滅多に使える者がいない術を見事に唱えるんです」

「え……」

 べた褒めしている中に、変なほめ方をされなかっただろうかと首を傾げた。発音が魔術的だと、聞こえた気がしたのだ。

「日常会話も魔術的な発音になるほどすごいんですよ」

 日常会話が魔術的。

 聖良は考え、はたと気付く。

「ジャパニーズイングリッシュが魔術的?」

 よく聞けば、アディスも彼の母も、難解極まりない、日本語とはかけ離れた発音の言語を口にしている。これでは日本語英語的な発音は難しいはずだ。長く日本に住んでいる外国人も、完全な発音をしている者はほとんどいない。日常的にそれが溢れていても、癖がついていると難しいのだから、呪文だけでしか発音しなければ習得は困難を極めるだろう。

「へぇ、魔術師かい。それは坊やにとっても益になるね」

「あ……アディス。わ、私はそんな……」

 セーラは話を進めるアディスへと声を掛けた。

 何かしてみろと言われると困るのだが、そのことは考えているのだろうか。

「アディス?」

 母竜が首をかしげて言う。

「私の名前です。私が食べた人間の名前ですが、知識をもらったのでこれが一番しっくり来るので彼女にそう名乗りました」

「自分でもう名前を決めてしまったのかい。ませた子だねぇ。まあ、長老の所に行く手間が省けていいけどね」

 彼にはまだ名前がなかったようだ。普通は勝手に人間の名前などもらったら怒りそうなものなのに、彼女はあっさりと納得してしまった。

 アディスの言う通り、操りやすいほど素直な竜だ。見た目も力も恐ろしいが、そればかりではないようである。

「じゃあ、セーラをここに置いてもいいですか?」

「血を与えてしまったんならしょうがない。人間は坊やが賢くなるにはちょうどいいペットだ。じゃあ、明日からは人間が食べる物も持ってこないとね」

 食べ物と言われ、不安に思う。この巨体で運んでくる食べ物。ろくでもないに違いない。

「私も人間の食べるような物を食べたいです」

「どうしてだい? オオトカゲは口に合わなかったかい?」

 聖良は乾いた声で笑った。

 この母竜の中でどんな物を人間が食べていることになっているのか、無性に気になった。

「あのお母さん」

「お母さん?」

 聖良は睨まれて、びくりと震えた。

「あ、いや、アディスのお母さん? えと、何とお呼びすればいいでしょうか?」

 突然なんだこの女はというような雰囲気で睨まれ、恐くなり腰を引いて恐る恐る尋ねた。

「あたしはネルフィアだ。まあ、ペットも家族と言うからお母さんでもいいけどね」

 ああ、ペットなんだと思いながら、体格差を思うと仕方がないと納得する。彼女からしたら、聖良など犬や猫のようなサイズだろう。

「あのお母さん」

「なんだい」

「お母さんの人間の食料のイメージってどんなものですか?」

 聖良は野菜が好きだった。長年ダイエットをしてもまったく痩せないが、野菜好きだ。

「柵の中で飼っている家畜だろう」

 やはり肉だ。肉なのだ。しかも、おそらく生きたまま。

「お母さん、今度は牛とかを一匹持ってくるつもりだったんですね」

「そうだよ」

 言葉も出なかった。

 言葉を出そうにも、無理である。彼女に野菜を持ってくる繊細さなどなさそうだし、愚鈍な家畜を空から引っさらう事が数少ないまともな食料確保になるだろう。

「それでもまぁ……オオトカゲよりは食べられますよ」

「ああ……そうですね」

 アディスの言葉に同意して頷くしかない聖良。

「そうかい。じゃああたしは疲れたから寝るよ」

「はい、お休みなさい」

「お休みなさい」

 ネルフィアはのしのしと歩いて、アディスの寝床とは違いベッドという雰囲気の強い固まりの上に身を丸め、あっという間に寝息を立てた。寝ている姿は少しだけ乙女チック。

「……寝ていると女性らしいんですけどねぇ」

 意外なほど可愛らしい寝息を立てる彼女を見て、アディスは肩をすくめた。彼を見ていると、確かにませている感じがする。それを希望したのはネルフィア自身なのだから、彼女にとってはこれがいいのだろう。

「私がもう少し飛行が上達したら、下の森に行きましょう。果物もあると思いますよ」

「だと嬉しいです。ダイエット中だから」

「肉ばかりだと健康によくないですからね。でも、セーラはとても健康的で素敵ですよ」

 アディスという人間の男は、きっとフェミニストだったのだろう。

 この人間の知識を手に入れた竜のアディスは、どこまで人間らしさを持っているのか、まだ分からない。本能的には獣なのかも知れないし、どこまでも人間っぽいのかも知れない。聖良にとっては、どちらでも構わない。

 アディスは聖良を抱えて巣の中へと飛んだ。このように空を飛ぶというのは、痛くなければ悪くないかも知れない。






「セーラ、実は一つ解決しなければならない事があります」

 巣に戻って別な布を羽織り身体を温める聖良へと、アディスは改まって切り出した。

 ここには布が山のようにある。木や藁や草を敷いてその周りを高く囲み固めて大量の布を敷き詰めるという、かなり風変わりの巣である。

「どうしたんですか?」

 アディスは身動ぎ、尻尾を布に叩き付けるように下ろした。力は入れていないが、身体が大きいのでばすんと音を立てた。人間で言うなら姿勢を変えただけなのだろうが、竜だけありかなり強烈である。彼が紳士的な竜で良かったと思った。少しでも乱暴だったら、再び流血だっただろう。

「何から話していいのやら……」

「何が問題なんですか?」

「お気を悪くしないで下さいね。私も被害者なので」

 アディスは尻尾の先を振りながら、首を下げて顔を覗き込み、上目づかいで見てくる。慣れてくるとますます可愛く見えた。

「この世界を理解しない生贄を出すには、意味があるんですよ」

 聖良から顔を離すと、困ったように腕を組んだ。よく動く人だと思いながら、それをじっと見上げる。

「獲物を食べさせた後は、母親が一番油断するんですよ。食べさせたモノの意味に気付かなければ知能が低かったと勘違いしてまた獲物を捕りに行きますし、気付けば怒り狂って人里に乗り込みます。そして子供は知識が無く無防備です」

「子供が目当てなんですか?」

 目の前の自分よりも大きな、しかし小さな竜が目当てなど、信じられない。しかし先ほど彼女が体験した事を考えれば、理屈は分かる。

「血、ですか?」

「そうですね。でも、もう無駄なんですよね」

「無駄?」

「はい。竜という生き物は初めて食べた知能の高い生物の知識の一部を取り込む事が出来ます。逆に初めて食べられてしまった相手に、竜のような再生能力と寿命を与えるんですよ。竜は傷がすぐに再生して、数千年生きるんです。変な生き物でしょう。なぜそのような現象が起こるのかはまだ解明されていないので、説明できませんが」

 聖良は考えた。考えに考え……。

「……あの」

「ええ、私はもうセーラに食べられたので、いくら私を食べても人間が長命を手に入れることは不可能です」

 聖良は頭を抱えて床に転がった。

 当事者だった。聖良はどう聞いても餌やペットどころではないほど当事者の一人だった。今の発言を信じるなら、聖良の傷が癒えたのは、血で癒えたのではなく、血を飲んで超人的な再生能力を手に入れたから癒えたのだ。

「竜というのは、自発的に血肉を与えた相手を一生大切にしますから、安心してくださいね。お母さんも簡単に納得してくれたので、噂は間違いないのでしょう」

 アディスは聖良を置いて、話し続けた。

「かなり長く生きてしまうので、寿命が違う種族相手でも家族として迎えるそうです。本当は同族で血を交換して、永遠の愛や友情を誓うらしいですが、人間相手にするのも少ないですが、例はあるそうです」

 彼の気遣いは違う方向に向いていた。

「そ……そんな大切なこと」

「ああ……成長が遅くなってしまいますからね。でもセーラは今でも十分可愛らしくて魅力的ですよ。見た目よりも実年齢は上なんでしょうね」

 ひくりと聖良の頬が引きつる。

「いくつぐらいに見えますか?」

「十二歳ぐらいかな?」

「……」

「あ、十三……十四歳でしたか?」

「…………正直に、見た目はいくつぐらいに見えるんですか?」

 彼はこくと首をかしげ、

「小さいから十歳ぐらいかなと思ったけど、体つきが大人びているから、もう少し上かなと」

 聖良は打ちのめされて敷き布を握りしめた。今まで小学生に間違えられたことは多々あるが、そこまで下に見られると、さすがに強烈だった。

「十八」

「は?」

「私は十八歳です」

「…………そんなに年増なんですか!?」

 子供扱いから年増とは、極端な言語センスの男である。態度が異様に優しいと思ったら、子供扱いしていたのだ。

 なぜか彼まで打ちひしがれた。

「そんな……永遠の幼女が手に入ったと思ったのに! 道理で無駄に胸があると思ったら!」

 息を呑み、硬直が溶けると、聖良は細く短い息を吐いた。

 人の印象というのは、こうも一瞬で様変わりしてしまう物だと、聖良は初めて知った。

「…………ロリコンだったんですね」

「ロリコンとは失礼な。ただ子供が大好きなだけです」

「いやさっきの台詞の後でそんなこと言われても……」

 明らかにその本性はロリコンの変態である。

「私は別に、年端もいかない幼女を見て興奮するような事や、襲いかかるような事はありませんよ」

「その言い訳をしている時点でヤバいです。っていうか、お母さん選んじゃいけない人選んだんじゃ……」

「失礼な。私は大賢者ハーネスの生まれ変わりと言われたほどの魔力と頭脳の持ち主ですよ」

「何ですか、その人」

 なんだか突然態度が変わってふんぞり返るアディスに、冷たく言い返す。

「ハーネスといえば、かつてこの国を数世紀に渡り支配していた大魔術師です。

 悪魔すら手を出さない、絶対なる影の支配者。英雄であると同時に、死と恐怖と絶望を生む魔術師」

「いや……それ……」

 どう聞いても悪役であり、自慢できる事ではない。悪人の生まれ変わりと言われるぐらいだと考えると、聖良の顔が自然と引きつる。

「現にこうして、死にかけているところをしっかり肉体を乗っ取り生きています。天才たる私だからこそです」

「…………」

 きっと、これほどまでに影響が出てしまうほど、強烈な人格だったのだろう。なんて可哀想な竜だろうと、幼くしてこのようになってしまった竜に同情した。初めて食べた人間の個性が強烈すぎて、ろくでもない竜になってしまうとは、ネルフィアも考えてすらいなかったはずだ。

「信じてませんね。私は本当に乗っ取ったんですよ。

 これはハーネスが作り出した術なのですが、肉体を乗っ取り己の物とする魔術があるんです。禁呪とされ書物にすらない術ですが、私は自分で理論だけは完成させていたんですよ。

 本来は肉体が老いたときに若い肉体を得るための術だったんですが、私もまさか若くしてこの術を使うことになるとは」

 聖良は聞いてはいけない事を聞いたのではないかと、頭を抱えた。

 どう聞いても犯罪を行うための魔法を使って生き延びたように聞こえた。相手が幼い竜だったから問題にならないが、人間だったら大変な事になっている。

「……将来、若い人の身体を乗っ取る予定があったんですか」

 それは人殺しだ。

「それはありません。この術を封じ、唯一正しい構造式を知る女性がいるんですが、やったら彼女に殺されそうなので。老いてからでは若い精神に負けてしまう可能性もありますし」

「そーですか」

「あ、彼女は恋人ではないですよ。並んでいると間違えられますが、あんな子持ちの鬼ババアは私の趣味ではありません。きっと老化を緩やかにする術を使っているんですよ。四十過ぎのくせにまだ若いふりをしたがるんです。私がいなくなっても、きっと心配もしていませんよ。身内以外には薄情な女なんです」

「そーなんですか」

「そうなんですよ。きっと死んだなって諦めて終わりなんです。ああ憎らしいあのクソババア。今度会ったら新しく得た竜の魔力でぎゃふんと言わせてみせましょう」

 くつくつ笑う彼は、何かが吹っ切れたようで実に自然な邪悪さがにじみ出ていた。今までは本性を押さえていたのだなと、可愛らしい姿に惑わされて信じていた己を恥じた。本当に人間だと知っていれば信じなかったのに、竜だと思っていたからすべて信じてしまった。聖良はため息をついて、相づちをうつ。

「そーなんですか」

「話をちゃんと聞いてますか? さっきからそればかりじゃないですか」

 面倒臭い男だと思いながら、聖良は聞いていた話の中の疑問点を口にする。

「でも、ぎゃふんと言わせるのはいいけど、あなたは今、舌っ足らずな子供ですよ?」

 何を言っているかははっきり分かるが、彼が口にしているのは舌っ足らずな言葉である。

 現実を突きつけたら、アディスは意気消沈して、ぱたりと腹ばいに寝そべった。

「そうなんですよ。このままじゃどうにもならないんですよね。子供だから竜独自の力はろくに使えないし、舌は回らないからセーラの口を借りないと術も使えない」

 尻尾が弧を書いて右から左へと移動する。その仕草は相変わらず可愛い。

 聖良はうつむくと、視界に赤い布の切れ端が飛び込んできた。ひも状のそれを見て、また動いた尻尾の先端を見る。

「……どうしたんですか。人の尻尾を凝視して……って、なんですかその布は」

「え……可愛いなって」

「そんなものつけないでくださいよ。尻尾はけっこう敏感なんですから」

「切り捨てられないの?」

「トカゲじゃないんですよ。切り捨てられますか。いや、ひょっとしたら生えてくるかもしれませんが。噂では腕も生えてくるという話ですし……」

「すごいんですねぇ」

「セーラの腕も生えてくるかもしれませんよ」

「うっ」

 そんな身体は嫌だった。それ以前に、腕が取れるような生活は嫌だ。

「って、そんなことよりも、話を戻しましょう」

「ああ、アディスをさらいに来る人がいるって話ですか」

「そうです」

 こんな大きな生物、どうやってここから運ぶのか、不思議に思ったが、聖良は黙って続きを待つ。

「竜を生け捕りにするつもりですから、それなりの手練れが来るんですよ。で、私が用無しだと知れば、狙われるのはセーラです」

 セーラは突然身に降りかかってきた驚愕の事実に思わず立ち上がった。

「な、なんで!?」

「私は竜ですから、危険を冒して連れ帰るにはリスクが高いんです。それに比べて女性で子供のように小さいあなたなら連れ帰りやすいでしょう」

「でも、私なんて連れ帰ってどうするんですか? 私なんてどーせ見た目ガキの年増ですよ」

「何を言うんです。見た目が幼いというのは最重要ですよ! 可愛いじゃないですか!」

「そんな事を考えるのはアディスだけです」

 聖良には、世の中にそれほど変態が多いとは思えなかった。いてもごく一部である。

「それに女で傷が付いてもすぐに回復するなんて、使い道はいくらでもありますよ」

「……じ、人体実験ですか?」

「そんなの生きた人間いくらでも使えばいいんですよ」

「いいんですか!?」

「当然です。そんなものは、粗悪な安物で十分です」

 やはりこの男は非道である。人を人とも思っておらず、幼女以外は死んでもいいと思っているのだ。

 聖良は怯えて少し後ろにさがった。

「まあ、それはいいとして、奴隷人形とかにされたくなければ、今から練習です」

「ど……」

 彼の中で、聖良はどんな扱いを受けることになっているのかは、知りたくもないので続く言葉を飲む。

「練習って?」

「術のですよ。正確に言えば、呪文の」

「どうするの?」

「もちろん、私をもう少し使えるようにするんですよ。あ、隅の方に私が着ていた服があるんですけど、包んである物を取ってください」

 聖良は周囲を見回し、黒ずんだ布の固まりを見つけて恐る恐る近づいた。どう見ても血で汚れたそれを嫌々ながら指先でつまんで持ち上げて、なにかが包まれている事を確認すると、中身を確認せずにアディスの元へと運んだ。

「洗濯ぐらいすればいいのに」

「この爪でどうやったら洗濯が出来るんですか。しゃばしゃばと揺するだけで落ちるならともかく、こびりついているから雑巾以下の代物になって終わりです」

「それもそうですね」

 かといって、捨てられない気持ちも分かる。穴が開こうが、色気がなかろうが、濡れたジャージを捨てる気にはならない。それが人間というものだ。とくに人間をやめてしまった彼には、すがるべき数少ない物品である。

「中の物を私の前に置いてください」

「中ですか……って、うわっ、骨っ!?」

 服の中から、骨、頭蓋骨が転がり出た。聖良は驚きと恐怖のあまり腰を抜かして後ずさる。

「私のです」

 アディスの声には哀愁が込められており、変態といえどもさすがに哀れで慰めの言葉も見つからなくなった。助かった聖良は、変態に幼女と間違えられようが、運がよかったのだ。彼より先に食べられていれば、身体も心も死んでいたのだから。

「これを使うんですよ。儀式魔法ですが、特殊な儀式も今の私の魔力なら、全て省いても行えます。呪文さえ正確に発音できれば」

「ああ、発音できないんでしたね」

 だから『お母さん』との会話もろくに成立せず、聖良がここにいるのだ。

「じゃあ、先ほどのような調子で続けてください。少し長いですが、明日の朝、お母さんが狩りに出かけたら奴らは来ます」

「そんなまどろっこしいことしないで、お母さんに言えばいいんじゃないですか?」

「そんなことをしたら、説明しなくちゃいけなくなります。そうなると、あの人のことだから人里に行って破壊活動を行うでしょう」

 目を伏せれば、破壊の限りを尽くすあの竜の姿が易々と浮かんでくる。

 自分の息子を、可愛い息子を、賢く育てたいと本人は一生懸命餌を運んでやっている。その可愛い息子を狙っている人間がいるのだ。同じ立場なら、聖良も息子を守るために行動していた。

「さすがにそんな事になれば、多く死ぬのは罪も無い子供達です。幼子が無駄に死に行くなど、私には耐えられませんっ!」

「とても立派な台詞なのに、言う人によってはこんなにも不純に聞こえるんですね……」

 世の中には、王様になるために異世界に招かれた女子高生の話もあるのに、自分は変態と一緒に、彼の母親の暴走を止めるべく努力しなくてはならない。

 多少の苦労があっても、救われるのならいい。しかし救われないのなら、どうしようもない。白馬の王子様など夢見るほど、容姿に優れていない自覚があった。近所の子供にプロポーズされたことはあるが、同世代以上では、この手の変態にしか声を掛けられたことはない。

 それでも他に道はない。

「…………練習、しましょうか」

 真剣に考えると悲しくなるので、今は子供達を救うつもりで、練習に精を出す方が前向きだと、聖良は自分に言い聞かせた。

 


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