紹介文
真帆がいなくなってから、僕は彼女の紹介文を二十三件、紙に印刷した。
家族に会った。友人にも会った。一年近く付き合って、結婚の約束までした。
それなのに、警察で彼女がどういう人なのかを説明しようとすると、僕が口にできるのは、誰かから聞いたことばかりだった。
大阪の商社に勤めている。
京都に実家がある。
父親は公務員で、母親は料理が上手。弟は高校で野球をしている。
勤務先も、実家も、弟の学校も、調べてみれば違っていた。
だから僕は、彼女を知っている人を探した。
探し方を間違えたのは、たぶん、そこからだ。
*
二〇〇八年の秋、僕は都内の小さな印刷会社で働いていた。
昼は注文を取り、夜は名刺や案内状の文字を直した。繁忙期には土曜も出勤だった。ワンルームへ帰ってコンビニの袋を開けると、箸が入っていない。それくらいのことで、誰とも口を利きたくなくなる時期だった。
真帆とは、mixiの古い喫茶店が好きな人のコミュニティで知り合った。
僕が日記に載せた店の写真へ、彼女がコメントをくれた。テーブルの端に少しだけ写った灰皿で、店がわかったらしい。
〈そこの卵サンド、からしが多いですよね〉
ちょうど、そのことを書こうとしていた。
それから日記にコメントをつけ合い、メッセージをやりとりするようになった。僕は三十歳で、彼女は二十六歳だった。
当時の僕は、知らない人とネットで会うことに抵抗があった。初めて会う約束をした晩、念のため彼女のページをパソコンへ保存し、「紹介文」を読み返した。
〈関係:大学の友人〉
〈昔から人の世話ばかり焼いている子。自分のことも大切にしてね〉
〈関係:職場の同僚〉
〈仕事ができて気配りもできる、うちの部署の癒やしです〉
〈関係:幼なじみ〉
〈この子の作る卵焼きが世界一です!〉
書いている人たちのページも見た。
旅行の日記があり、子どもの写真があり、上司への愚痴があった。一人は海外に住んでいて、ベランダの鉢植えが枯れたことを、三日も続けて書いていた。
嘘をつくために、こんなことまではしないだろう。
そう思った。
初めて会った真帆は、待ち合わせの改札で僕を見つけると、胸の前で小さく手を振った。緊張して早口になる僕の話を、言葉を挟まずに聞いてくれた。
喫茶店で卵サンドを注文すると、皿を僕のほうへ寄せた。
「からし、多いほう好きでしょ」
「そんなこと書いたっけ」
「顔に出てる」
そういう冗談が、うれしかった。
三度目に会った日に付き合うことになり、それから彼女は、ほとんど毎週東京へ来た。
金曜の夜、僕の部屋の流しには洗ったコップが伏せてあって、鍋から湯気が上がっていた。冷蔵庫には、僕が買わない野菜が入っていた。
味噌汁を飲みながら、「人参、平気になったんだね」と言われたことがある。
僕は子どもの頃から人参が好きだった。
「誰と間違えてるんだよ」
「あ、ごめん。弟」
それで話は終わった。
真帆は、写真を撮られるのが好きだった。
僕は苦手だった。笑おうとすると、口元だけが不自然に上がる。
「証明写真みたい」
彼女は僕のデジカメをのぞき込み、笑った。
「人に紹介するとき、困るじゃない」
「そんなに紹介しなくていいよ」
「だめ。知ってもらわなきゃ」
付き合って半年ほどたった頃、真帆は、僕のページにも紹介文を書いた。
〈関係:大切な人〉
〈口数は少ないけれど、とても優しい人です。初めて会っても、ずっと前から知っていたような気持ちになります〉
僕にも書いてほしい、と頼まれた。
「何て書けばいい?」
「ほんとのこと」
僕は、料理が上手なこと、よく笑うこと、いつも僕の話を聞いてくれることを書いた。会社の同僚に見られるのが照れくさくて、関係の欄は「友人」にした。
次の週末、彼女はそのことに触れなかった。
ただ、買い物へ行ったスーパーで、僕の腕を抱きながら、何度か訊いた。
「誰か知ってる人、いない?」
*
僕の両親に真帆を会わせたのは、翌年の六月だった。
母はすぐ彼女を気に入った。父はいつもより酒を飲み、同じ話を二度した。真帆は二度目にも笑った。
帰り際、母が僕を台所へ呼んだ。
「あんた、あの子、大事にしなさいよ」
「わかってるよ」
「ああいう子は、そういないんだから」
居間へ戻ると、真帆が父に何か訊いていた。
「じゃあ、昔から?」
「そう。小さい頃から、あいつは人の頼みを断れないんだよ」
父が笑うと、真帆も笑った。
その翌月、京都にあるという彼女の実家へ行った。
駅からバスに乗り、最後は十分ほど歩いた。大きな家だった。門から玄関までの敷石に苔が生え、庭の隅には、蓋の割れた陶器の鉢があった。
玄関を上がると、お父さんが廊下の奥から現れた。
細い金縁眼鏡をかけ、左の眉の上に白い傷があった。差し出した菓子折りを受け取ると、紙袋を丁寧に畳んだ。
「娘がお世話になっています」
深く頭を下げられて、僕も慌てて下げた。
お母さんは、お盆に湯呑みを四つ載せてきた。持ち手のないお盆を、体へ引き寄せるようにして運ぶ人だった。
話は驚くほど弾んだ。
僕の仕事のことも、収入のことも、二人は嫌な顔をせずに聞いた。
「この子は昔から、自分で決めたことは曲げませんから」
お父さんにそう言われて、真帆は「そんなことないよ」と笑った。
昔のアルバムも見せてもらった。
小学校の入学式。海。制服姿の女の子が三人で立つ駅前。
今の真帆と似ている気がした。ただ、子どもの顔というのは、そう言われれば誰にでも似て見える。
野球部の集合写真が出てきたところで、玄関の開く音がした。
「弟です」
真帆に紹介された少年は、制服のシャツの袖を肘までまくっていた。肩から提げたスポーツバッグに、僕でも知っている学校名が刺繍されていた。
「一年生なのに、試合に出してもらってるの」
「すごいね」
僕が言うと、弟は小さく会釈をした。
そのとき、変な感じがした。
少年、というより、疲れた会社員が高校生の格好をしているように見えた。目の下の皮膚が薄く、頬に剃り残したひげのようなものがあった。
強豪校の練習は、きついんだろう。
僕はそれ以上、考えなかった。
「ちょうどいい。写真を撮りましょう」
お母さんがデジカメを持ってきた。
古い家なのに、カメラだけが新しかった。僕のものと同じメーカーの、一つ上の機種だった。
ソファの前に集まり、お母さんがタイマーをセットした。
真帆の弟は、最後まで座らなかった。
「この人の分も、作るの」
カメラを見て、そう言った。
「もちろん」
お母さんが答えた。
「家族になるんですもの」
僕は写真の焼き増しの話だと思った。
お父さんが左へ詰めて、僕の座る場所を空けた。
そのとき、膝の上に置いた手が見えた。親指を中へ折り込んで、固く握っていた。
シャッターが切れる直前まで、あの手は開かなかった。
*
八月最後の日曜日だった。
目が覚めると、台所から換気扇の音がした。
真帆が朝食を作っているのだと思った。
しばらくして、焦げたようなにおいがした。
彼女はコンロの前に立っていた。
フライパンが火にかかっているのに、まな板も皿も出ていなかった。
「何してるの」
返事がなかった。
「焦げてるよ」
真帆が振り返った。
知らない表情だった。
怒っているようにも、眠いのを我慢しているようにも見えた。
「私が誰だか、言ってみて」
「何?」
「誰だと思ってるの」
僕は、昨日、何か怒らせたかと考えた。夕飯のとき、テレビを見ながら適当に相槌を打った。そのことだろうか。
「真帆だろ」
「そうじゃなくて」
「僕の、彼女」
真帆は目を閉じた。
小さく息を吐き、フライパンの柄を握った。
「まだ、それなんだ」
次の瞬間、左のこめかみに硬いものが当たった。
大きな音がした。痛みより先に、自分の髪の焦げるにおいがした。
床へ手をついた。頭を押さえた指が濡れた。
玄関の鍵が開く音がした。
顔を上げると、真帆がバッグを肩にかけていた。
靴を履きながら僕を見て、口を開きかけた。
何も言わずに、ドアを閉めた。
病院で処置を受け、警察にも話した。
事情を聞いた人はみな、まず金や通帳がなくなっていないかと訊いた。
何もなくなっていなかった。
彼女の歯ブラシも、部屋着も、冷蔵庫のヨーグルトも残っていた。
僕の合鍵は、食卓に置いてあった。
なくなったのは、彼女と連絡を取る方法だけだった。
*
携帯電話はつながらなかった。
勤め先として教えられていた会社には、そんな社員はいなかった。
大阪のマンションは空室になっていた。僕は二度、泊まったことがあった。向かいの部屋の前には、そのときと同じ子ども用の自転車が置かれていた。
京都の家には表札がなかった。
呼び鈴を何度押しても、返事がなかった。門の隙間から見ると、庭の陶器の鉢は、蓋が割れたまま残っていた。
お父さんからもらった名刺を、勤務先だという役所の窓口で見せた。
職員の人は奥へ引っ込み、別の人を連れて戻ってきた。
その名前の職員はいない。
名刺に書かれた課の名前も違う。
「いつ、お受け取りになりましたか」
そう訊かれて、七月ですと答えるのが、ひどく恥ずかしかった。
印刷屋なのに、ということではなかった。あの家で僕は名刺の文字をろくに見ず、財布へしまっていたのだ。
弟の学校には電話をした。生徒の個人情報には答えられない、と言われた。当然だった。
学校のホームページを見た。
制服が違った。
野球部の写真を見た。胸の文字も、帽子の印も、アルバムで見たものとは違った。
僕が覚えている学校名だけが同じだった。
制服には、その学校だとわかるような印はついていなかった。
弟のものだと教えられた集合写真についても、僕は顔をよく見ていなかった。真帆が「これ」と指で押さえたところを、のぞき込んだだけだった。
何も確かめていなかった。
ただ、確かめるようなことだとも思っていなかった。
mixiでは、真帆だけでなく、彼女の大学の友人だった二人も退会していた。
僕はパソコンに残っていたページと、交際を始める頃に保存した画面を集めた。
彼女の紹介文は二十三件あった。
書いた人に、一人ずつ連絡した。
返事の大半はなかった。
返ってきたのは、「最近連絡を取っていない」「詳しいことはわからない」「ご家族に訊いてください」というものだった。
幼なじみだという人にも訊いた。
〈すみません。昔のことなので〉
どこの小学校ですか、と送ると、返事はなくなった。
その人のページは残っていた。
翌日には、職場でもらった土産のお菓子の写真が載った。
自分の恋人が消えたことより、そちらのほうが理解できなかった。
*
十一月になって、一通の返事が来た。
真帆の紹介文に「職場の先輩」と書いていた男性だった。
ハンドルネームは「しば」。メッセージには、短くこうあった。
〈一度、お話ししたいです。紹介文は消さずに持ってきてください〉
指定されたのは、新大阪駅近くの喫茶店だった。
土曜日に有休を取り、僕は大阪へ向かった。せめて一人でも、本当に彼女を知っている人に会いたかった。
店に着くと、奥のテーブルに、女の人と年配の男が座っていた。
男が僕を見た。
真帆のお父さんだった。
金縁眼鏡も、左の眉の白い傷も同じだった。
僕が立ち止まると、女の人が椅子から腰を浮かせた。
「関さんですか」
「はい」
「しばです。変な名前ですみません。旧姓が柴田なので」
女の人は、男を振り返った。
「夫です。私、こういう話、一人だと怖くて」
男は、僕に頭を下げた。
「妻がお世話になっています」
僕は座らなかった。
「お父さん」
男のまぶたが動いた。
「真帆の、お父さんですよね」
女の人が、男の顔を見た。
「知ってるの?」
男は僕を見たまま答えた。
「存じ上げません」
声は同じだった。七月に、僕の仕事を褒めてくれた声だった。
男の手が膝の上にあった。
親指を中へ折り込み、拳を握っていた。
「京都のお宅に伺いました。お母さんがいて、弟さんが帰ってきて、みんなで写真を」
「おかけになったらどうですか」
男が言った。
椅子を引くことも、こちらへ手を差し出すこともしなかった。
僕が座らずにいると、しばという女の人が、困ったように笑った。
「何か、行き違いがあるんですね。真帆ちゃんはいい子ですから。きっと事情があるんだと思います」
「どういう、お知り合いですか」
「同じ職場で」
「会社の名前は?」
女の人は、ハンドバッグの留め金を触った。
「もうずいぶん前なので」
「会社の名前も、覚えてないんですか」
周りの客がこちらを見た。
男の拳が、さらに固くなった。
僕は写真を持ってきていなかった。あの家で撮った写真は、あとで送ると言われたままだった。
証拠がない。
そう思い、頭に血が上った。
「ちょっと、顔を撮らせてもらえますか」
デジカメを出すと、男は椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった。
それからすぐ、腰をかがめて椅子を直した。
「すみません」
誰にともなく言った。
女の人が男の腕を取り、僕に頭を下げた。
「今日は、ちょっと」
二人は出ていった。
男は女の人のバッグを持たされ、半歩後ろを歩いていた。
出口の手前で、僕を振り返った。
声は出さなかった。
唇だけが、一度、動いた。
ごめん。
そう言ったように見えた。
*
東京へ戻り、僕は母に電話をした。
「真帆のこと、どう思った?」
「どうしたの、急に」
「会ったとき」
「感じのいい子だったじゃない」
「例えば?」
「例えばって」
「何か話しただろ。二人だけで台所にいたりしたじゃないか」
電話の向こうで、テレビの音が小さくなった。
「あんたのことを話したのよ。小さい頃のこととか」
「真帆の話は?」
「聞き上手な子だったからねえ」
僕は礼を言って、電話を切った。
会社でも同じことをした。
真帆は何度か差し入れを持ってきたので、社長も、営業の佐伯も、彼女を知っていた。
「美人だったな」
「感じよかったですよ」
何を話したか訊くと、社長は自分の釣りの話をしたと言った。佐伯は、得意先で失敗した話を聞いてもらったと言った。
誰も、真帆の話を覚えていなかった。
彼女は人の話をよく聞く人だった。
僕が、紹介文にそう書いたとおりに。
その晩、僕は二十三枚の紙を床に並べた。
世話好き。優しい。仕事ができる。気配り上手。
何年の、どこで、何をした。
そういう文章が、ほとんどなかった。
あったのは、世界一の卵焼きだけだった。
僕は二十三枚を重ね、自分が書いた紹介文を、その上に置いた。
僕の文章も、同じだった。
しばのページを、もう一度開いた。
メッセージをもらった直後、念のため、自己紹介も日記も保存していた。
保存した画面には、四十二歳の男と書いてあった。横浜の物流会社で働いていて、離婚して二年、休日は釣りをしている。
そのとき開いたページでは、三十八歳の女になっていた。
日記は残っていた。
日記の日付も、コメントも、そのままだった。
ただ、「会社の連中と行った」と書かれていた釣りの写真に、「夫に付き合って行った」と書いてあった。
写っていた男たちのうち、一人が、あの金縁眼鏡の男になっていた。
僕は保存した画像を並べた。
違う顔だった。
保存したほうには、知らない、日焼けした男が立っていた。
画面の端から、釣り上げた魚の尾がはみ出していた。そこは同じだった。
僕は初めて、パソコンの電源を切るのが怖くなった。
切ってしまったあとも、向こうでは何かが続いている気がした。
*
それからしばのページは見なくなった。
真帆を探すのもやめた。
警察には大阪でのことも話した。メッセージと印刷した画面は渡した。ただ、見つけた男が誰かということは、僕の説明だけでは確かめられなかった。
仕事は休まなかった。
帰っても、することがなかったからだ。
左のこめかみには、髪の生えない部分が残った。
そこを指で触ると、まだ少し痛かった。
十二月、会社に年賀状の注文が増えた。
佐伯が、休憩中の僕の机へ、茶封筒を置いた。
「関さん、これ、急ぎで百枚お願いできます?」
「原稿は」
「中です。写真、スキャンしてください。データもあるはずなんですけど、先方、そういうの苦手らしくて」
封筒の中には、注文用紙と写真が一枚入っていた。
僕は、写真を裏返したまま注文用紙を見た。
個人の依頼だった。京都の住所と、知らない名字が書かれていた。
「知り合い?」
「彼女の実家です」
佐伯は声を落とした。
「あ、僕、結婚することになりまして。まだ社長には言ってないんですけど」
僕は顔を上げた。
「早いな。いつから?」
「十月です。笑いますよね。でも、なんか、昔から知ってる感じがするんですよ」
佐伯は照れくさそうに笑った。
僕は、写真を表へ返した。
あの家の居間だった。
ソファの端に、知らない白髪の男が座っていた。
その隣に、真帆のお母さんがいた。お盆を体へ引き寄せるようにして持っていた人だ。
真ん中に女がいた。
髪を短くして、眼鏡をかけた真帆だった。
その右に、僕が座っていた。
七月に着ていった、水色のシャツだった。
写真が苦手な僕は、口元だけを上げていた。
左のこめかみに、まだあるはずのない傷が見えた。
「いいご家族でしょ」
佐伯が言った。
僕は写真に指を置いた。
「この人」
「ああ、お兄さんです」
僕は、佐伯の顔を見た。
「会ったのか」
「まだです。仕事が忙しくて、週末も帰れないらしくて」
佐伯は写真を見下ろした。
「ちょっと関さんに似てますよね。彼女も言ってました。関さんの話をすると、お兄ちゃんみたい、って」
電話が鳴り、佐伯は事務所へ戻った。
僕は写真を机に置いた。
年賀状の注文用紙には、家族の名前が連名で書かれていた。
知らない名字の下に、僕の名前があった。
航平。
漢字も同じだった。
*
その日の仕事が終わるまで待って、僕は佐伯を会議室へ呼んだ。
どこから話せばいいかわからなかった。
だから、手元にあったものを全部出した。
警察に提出した資料の控え。偽物の名刺。保存したページの印刷。病院でもらった領収書。
佐伯は、最初は立ったまま聞いていた。
写真と、真帆の昔のプロフィールを並べたところで、椅子に座った。
「名前が、違います」
「僕も、今の名前は知らない」
「麻美です」
初めて聞く名前だった。
「関さんと付き合ってたんですか」
「そうだよ」
佐伯は写真を見た。
「じゃあ、どうして、お兄さんって」
「わからない」
「この家に、行ったんですよね」
「行った」
「僕も行きました」
しばらく、どちらも黙った。
「親父さん、手品するんです。百円玉がなくなるやつ。何度も失敗して」
僕の会った父親は、手品をしなかった。
「料理、おいしくて。お母さんが、帰りに余ったのを持たせてくれて。タッパー、まだうちにあります」
僕は頷いた。
佐伯は、膝の上で両手を組んだ。
「あれ、全部、何だったんですか」
それは、僕がずっと聞きたかったことだった。
佐伯が携帯電話を取り出した。
「電話、してみます」
「今?」
「だって、本人に聞かないと」
止める言葉を考えているうちに、呼び出し音が鳴った。
携帯のスピーカーから、真帆の声がした。
「お疲れさま」
僕は机の縁をつかんだ。
「今、会社?」
「うん」
「年賀状、お願いできた?」
佐伯が僕を見た。
「写真のこと、聞きたいんだけど」
「うん」
「お兄さんの名前、何だっけ」
少し間があった。
「航平」
彼女は言った。
「関さんのこと?」
「そう」
佐伯が、息を吸った。
「どうして言ってくれなかったの」
「お兄ちゃんが、まだ内緒にしてって」
「違う」
僕は言った。
電話の向こうで、真帆が黙った。
「そこにいるの?」
僕は答えなかった。
「いるんだね」
椅子を引く音がした。
彼女のいる場所にも、ほかに人がいるらしかった。誰かが小さく咳をした。
「よかった。ちゃんと紹介できる」
真帆の声が、明るくなった。
「佐伯さん。その人、私の兄です。航平っていいます。口数は少ないけれど、とても優しい人なの」
僕は首を振った。
佐伯は僕を見ていた。
目が赤くなっていた。
「関さん」
僕は、今度こそ言おうとした。
妹じゃない。
僕には妹なんかいない。
佐伯が立ち上がった。
「冗談なら、そう言ってくださいよ」
泣き出しそうな目のまま、口元だけで笑い、頭を下げた。
「妹さんには、いつもお世話になっています」
机の上に、自分の手が見えた。
親指を中へ折り込んでいた。
いつの間に握ったのか、爪が食い込んでいた。
僕は息を吸った。
佐伯は頭を下げたまま待っていた。
「こちらこそ」
僕は言った。
「妹を、よろしくお願いします」
携帯電話の向こうで、真帆が笑った。
「うん。そうだよ」
褒めるような、優しい声だった。
僕の拳は、まだ開かなかった。




