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紹介文

掲載日:2026/09/06

 真帆がいなくなってから、僕は彼女の紹介文を二十三件、紙に印刷した。


 家族に会った。友人にも会った。一年近く付き合って、結婚の約束までした。

 それなのに、警察で彼女がどういう人なのかを説明しようとすると、僕が口にできるのは、誰かから聞いたことばかりだった。


 大阪の商社に勤めている。

 京都に実家がある。

 父親は公務員で、母親は料理が上手。弟は高校で野球をしている。


 勤務先も、実家も、弟の学校も、調べてみれば違っていた。


 だから僕は、彼女を知っている人を探した。


 探し方を間違えたのは、たぶん、そこからだ。


     *


 二〇〇八年の秋、僕は都内の小さな印刷会社で働いていた。


 昼は注文を取り、夜は名刺や案内状の文字を直した。繁忙期には土曜も出勤だった。ワンルームへ帰ってコンビニの袋を開けると、箸が入っていない。それくらいのことで、誰とも口を利きたくなくなる時期だった。


 真帆とは、mixiの古い喫茶店が好きな人のコミュニティで知り合った。


 僕が日記に載せた店の写真へ、彼女がコメントをくれた。テーブルの端に少しだけ写った灰皿で、店がわかったらしい。


〈そこの卵サンド、からしが多いですよね〉


 ちょうど、そのことを書こうとしていた。


 それから日記にコメントをつけ合い、メッセージをやりとりするようになった。僕は三十歳で、彼女は二十六歳だった。


 当時の僕は、知らない人とネットで会うことに抵抗があった。初めて会う約束をした晩、念のため彼女のページをパソコンへ保存し、「紹介文」を読み返した。


〈関係:大学の友人〉

〈昔から人の世話ばかり焼いている子。自分のことも大切にしてね〉


〈関係:職場の同僚〉

〈仕事ができて気配りもできる、うちの部署の癒やしです〉


〈関係:幼なじみ〉

〈この子の作る卵焼きが世界一です!〉


 書いている人たちのページも見た。

 旅行の日記があり、子どもの写真があり、上司への愚痴があった。一人は海外に住んでいて、ベランダの鉢植えが枯れたことを、三日も続けて書いていた。


 嘘をつくために、こんなことまではしないだろう。


 そう思った。


 初めて会った真帆は、待ち合わせの改札で僕を見つけると、胸の前で小さく手を振った。緊張して早口になる僕の話を、言葉を挟まずに聞いてくれた。


 喫茶店で卵サンドを注文すると、皿を僕のほうへ寄せた。


「からし、多いほう好きでしょ」


「そんなこと書いたっけ」


「顔に出てる」


 そういう冗談が、うれしかった。


 三度目に会った日に付き合うことになり、それから彼女は、ほとんど毎週東京へ来た。


 金曜の夜、僕の部屋の流しには洗ったコップが伏せてあって、鍋から湯気が上がっていた。冷蔵庫には、僕が買わない野菜が入っていた。


 味噌汁を飲みながら、「人参、平気になったんだね」と言われたことがある。


 僕は子どもの頃から人参が好きだった。


「誰と間違えてるんだよ」


「あ、ごめん。弟」


 それで話は終わった。


 真帆は、写真を撮られるのが好きだった。

 僕は苦手だった。笑おうとすると、口元だけが不自然に上がる。


「証明写真みたい」


 彼女は僕のデジカメをのぞき込み、笑った。


「人に紹介するとき、困るじゃない」


「そんなに紹介しなくていいよ」


「だめ。知ってもらわなきゃ」


 付き合って半年ほどたった頃、真帆は、僕のページにも紹介文を書いた。


〈関係:大切な人〉

〈口数は少ないけれど、とても優しい人です。初めて会っても、ずっと前から知っていたような気持ちになります〉


 僕にも書いてほしい、と頼まれた。


「何て書けばいい?」


「ほんとのこと」


 僕は、料理が上手なこと、よく笑うこと、いつも僕の話を聞いてくれることを書いた。会社の同僚に見られるのが照れくさくて、関係の欄は「友人」にした。


 次の週末、彼女はそのことに触れなかった。


 ただ、買い物へ行ったスーパーで、僕の腕を抱きながら、何度か訊いた。


「誰か知ってる人、いない?」


     *


 僕の両親に真帆を会わせたのは、翌年の六月だった。


 母はすぐ彼女を気に入った。父はいつもより酒を飲み、同じ話を二度した。真帆は二度目にも笑った。


 帰り際、母が僕を台所へ呼んだ。


「あんた、あの子、大事にしなさいよ」


「わかってるよ」


「ああいう子は、そういないんだから」


 居間へ戻ると、真帆が父に何か訊いていた。


「じゃあ、昔から?」


「そう。小さい頃から、あいつは人の頼みを断れないんだよ」


 父が笑うと、真帆も笑った。


 その翌月、京都にあるという彼女の実家へ行った。


 駅からバスに乗り、最後は十分ほど歩いた。大きな家だった。門から玄関までの敷石に苔が生え、庭の隅には、蓋の割れた陶器の鉢があった。


 玄関を上がると、お父さんが廊下の奥から現れた。

 細い金縁眼鏡をかけ、左の眉の上に白い傷があった。差し出した菓子折りを受け取ると、紙袋を丁寧に畳んだ。


「娘がお世話になっています」


 深く頭を下げられて、僕も慌てて下げた。


 お母さんは、お盆に湯呑みを四つ載せてきた。持ち手のないお盆を、体へ引き寄せるようにして運ぶ人だった。


 話は驚くほど弾んだ。

 僕の仕事のことも、収入のことも、二人は嫌な顔をせずに聞いた。


「この子は昔から、自分で決めたことは曲げませんから」


 お父さんにそう言われて、真帆は「そんなことないよ」と笑った。


 昔のアルバムも見せてもらった。

 小学校の入学式。海。制服姿の女の子が三人で立つ駅前。

 今の真帆と似ている気がした。ただ、子どもの顔というのは、そう言われれば誰にでも似て見える。


 野球部の集合写真が出てきたところで、玄関の開く音がした。


「弟です」


 真帆に紹介された少年は、制服のシャツの袖を肘までまくっていた。肩から提げたスポーツバッグに、僕でも知っている学校名が刺繍されていた。


「一年生なのに、試合に出してもらってるの」


「すごいね」


 僕が言うと、弟は小さく会釈をした。


 そのとき、変な感じがした。


 少年、というより、疲れた会社員が高校生の格好をしているように見えた。目の下の皮膚が薄く、頬に剃り残したひげのようなものがあった。


 強豪校の練習は、きついんだろう。


 僕はそれ以上、考えなかった。


「ちょうどいい。写真を撮りましょう」


 お母さんがデジカメを持ってきた。

 古い家なのに、カメラだけが新しかった。僕のものと同じメーカーの、一つ上の機種だった。


 ソファの前に集まり、お母さんがタイマーをセットした。

 真帆の弟は、最後まで座らなかった。


「この人の分も、作るの」


 カメラを見て、そう言った。


「もちろん」


 お母さんが答えた。


「家族になるんですもの」


 僕は写真の焼き増しの話だと思った。


 お父さんが左へ詰めて、僕の座る場所を空けた。

 そのとき、膝の上に置いた手が見えた。親指を中へ折り込んで、固く握っていた。


 シャッターが切れる直前まで、あの手は開かなかった。


     *


 八月最後の日曜日だった。


 目が覚めると、台所から換気扇の音がした。

 真帆が朝食を作っているのだと思った。


 しばらくして、焦げたようなにおいがした。


 彼女はコンロの前に立っていた。

 フライパンが火にかかっているのに、まな板も皿も出ていなかった。


「何してるの」


 返事がなかった。


「焦げてるよ」


 真帆が振り返った。


 知らない表情だった。

 怒っているようにも、眠いのを我慢しているようにも見えた。


「私が誰だか、言ってみて」


「何?」


「誰だと思ってるの」


 僕は、昨日、何か怒らせたかと考えた。夕飯のとき、テレビを見ながら適当に相槌を打った。そのことだろうか。


「真帆だろ」


「そうじゃなくて」


「僕の、彼女」


 真帆は目を閉じた。


 小さく息を吐き、フライパンの柄を握った。


「まだ、それなんだ」


 次の瞬間、左のこめかみに硬いものが当たった。


 大きな音がした。痛みより先に、自分の髪の焦げるにおいがした。

 床へ手をついた。頭を押さえた指が濡れた。


 玄関の鍵が開く音がした。


 顔を上げると、真帆がバッグを肩にかけていた。

 靴を履きながら僕を見て、口を開きかけた。


 何も言わずに、ドアを閉めた。


 病院で処置を受け、警察にも話した。

 事情を聞いた人はみな、まず金や通帳がなくなっていないかと訊いた。


 何もなくなっていなかった。


 彼女の歯ブラシも、部屋着も、冷蔵庫のヨーグルトも残っていた。

 僕の合鍵は、食卓に置いてあった。


 なくなったのは、彼女と連絡を取る方法だけだった。


     *


 携帯電話はつながらなかった。

 勤め先として教えられていた会社には、そんな社員はいなかった。


 大阪のマンションは空室になっていた。僕は二度、泊まったことがあった。向かいの部屋の前には、そのときと同じ子ども用の自転車が置かれていた。


 京都の家には表札がなかった。


 呼び鈴を何度押しても、返事がなかった。門の隙間から見ると、庭の陶器の鉢は、蓋が割れたまま残っていた。


 お父さんからもらった名刺を、勤務先だという役所の窓口で見せた。

 職員の人は奥へ引っ込み、別の人を連れて戻ってきた。


 その名前の職員はいない。

 名刺に書かれた課の名前も違う。


「いつ、お受け取りになりましたか」


 そう訊かれて、七月ですと答えるのが、ひどく恥ずかしかった。

 印刷屋なのに、ということではなかった。あの家で僕は名刺の文字をろくに見ず、財布へしまっていたのだ。


 弟の学校には電話をした。生徒の個人情報には答えられない、と言われた。当然だった。


 学校のホームページを見た。


 制服が違った。


 野球部の写真を見た。胸の文字も、帽子の印も、アルバムで見たものとは違った。

 僕が覚えている学校名だけが同じだった。


 制服には、その学校だとわかるような印はついていなかった。

 弟のものだと教えられた集合写真についても、僕は顔をよく見ていなかった。真帆が「これ」と指で押さえたところを、のぞき込んだだけだった。


 何も確かめていなかった。


 ただ、確かめるようなことだとも思っていなかった。


 mixiでは、真帆だけでなく、彼女の大学の友人だった二人も退会していた。


 僕はパソコンに残っていたページと、交際を始める頃に保存した画面を集めた。

 彼女の紹介文は二十三件あった。


 書いた人に、一人ずつ連絡した。


 返事の大半はなかった。

 返ってきたのは、「最近連絡を取っていない」「詳しいことはわからない」「ご家族に訊いてください」というものだった。


 幼なじみだという人にも訊いた。


〈すみません。昔のことなので〉


 どこの小学校ですか、と送ると、返事はなくなった。


 その人のページは残っていた。

 翌日には、職場でもらった土産のお菓子の写真が載った。


 自分の恋人が消えたことより、そちらのほうが理解できなかった。


     *


 十一月になって、一通の返事が来た。


 真帆の紹介文に「職場の先輩」と書いていた男性だった。

 ハンドルネームは「しば」。メッセージには、短くこうあった。


〈一度、お話ししたいです。紹介文は消さずに持ってきてください〉


 指定されたのは、新大阪駅近くの喫茶店だった。


 土曜日に有休を取り、僕は大阪へ向かった。せめて一人でも、本当に彼女を知っている人に会いたかった。


 店に着くと、奥のテーブルに、女の人と年配の男が座っていた。


 男が僕を見た。


 真帆のお父さんだった。


 金縁眼鏡も、左の眉の白い傷も同じだった。

 僕が立ち止まると、女の人が椅子から腰を浮かせた。


「関さんですか」


「はい」


「しばです。変な名前ですみません。旧姓が柴田なので」


 女の人は、男を振り返った。


「夫です。私、こういう話、一人だと怖くて」


 男は、僕に頭を下げた。


「妻がお世話になっています」


 僕は座らなかった。


「お父さん」


 男のまぶたが動いた。


「真帆の、お父さんですよね」


 女の人が、男の顔を見た。


「知ってるの?」


 男は僕を見たまま答えた。


「存じ上げません」


 声は同じだった。七月に、僕の仕事を褒めてくれた声だった。


 男の手が膝の上にあった。

 親指を中へ折り込み、拳を握っていた。


「京都のお宅に伺いました。お母さんがいて、弟さんが帰ってきて、みんなで写真を」


「おかけになったらどうですか」


 男が言った。


 椅子を引くことも、こちらへ手を差し出すこともしなかった。


 僕が座らずにいると、しばという女の人が、困ったように笑った。


「何か、行き違いがあるんですね。真帆ちゃんはいい子ですから。きっと事情があるんだと思います」


「どういう、お知り合いですか」


「同じ職場で」


「会社の名前は?」


 女の人は、ハンドバッグの留め金を触った。


「もうずいぶん前なので」


「会社の名前も、覚えてないんですか」


 周りの客がこちらを見た。

 男の拳が、さらに固くなった。


 僕は写真を持ってきていなかった。あの家で撮った写真は、あとで送ると言われたままだった。


 証拠がない。

 そう思い、頭に血が上った。


「ちょっと、顔を撮らせてもらえますか」


 デジカメを出すと、男は椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった。


 それからすぐ、腰をかがめて椅子を直した。


「すみません」


 誰にともなく言った。


 女の人が男の腕を取り、僕に頭を下げた。


「今日は、ちょっと」


 二人は出ていった。


 男は女の人のバッグを持たされ、半歩後ろを歩いていた。

 出口の手前で、僕を振り返った。


 声は出さなかった。


 唇だけが、一度、動いた。


 ごめん。


 そう言ったように見えた。


     *


 東京へ戻り、僕は母に電話をした。


「真帆のこと、どう思った?」


「どうしたの、急に」


「会ったとき」


「感じのいい子だったじゃない」


「例えば?」


「例えばって」


「何か話しただろ。二人だけで台所にいたりしたじゃないか」


 電話の向こうで、テレビの音が小さくなった。


「あんたのことを話したのよ。小さい頃のこととか」


「真帆の話は?」


「聞き上手な子だったからねえ」


 僕は礼を言って、電話を切った。


 会社でも同じことをした。

 真帆は何度か差し入れを持ってきたので、社長も、営業の佐伯も、彼女を知っていた。


「美人だったな」


「感じよかったですよ」


 何を話したか訊くと、社長は自分の釣りの話をしたと言った。佐伯は、得意先で失敗した話を聞いてもらったと言った。


 誰も、真帆の話を覚えていなかった。


 彼女は人の話をよく聞く人だった。

 僕が、紹介文にそう書いたとおりに。


 その晩、僕は二十三枚の紙を床に並べた。


 世話好き。優しい。仕事ができる。気配り上手。


 何年の、どこで、何をした。

 そういう文章が、ほとんどなかった。


 あったのは、世界一の卵焼きだけだった。


 僕は二十三枚を重ね、自分が書いた紹介文を、その上に置いた。


 僕の文章も、同じだった。


 しばのページを、もう一度開いた。


 メッセージをもらった直後、念のため、自己紹介も日記も保存していた。

 保存した画面には、四十二歳の男と書いてあった。横浜の物流会社で働いていて、離婚して二年、休日は釣りをしている。


 そのとき開いたページでは、三十八歳の女になっていた。


 日記は残っていた。

 日記の日付も、コメントも、そのままだった。


 ただ、「会社の連中と行った」と書かれていた釣りの写真に、「夫に付き合って行った」と書いてあった。


 写っていた男たちのうち、一人が、あの金縁眼鏡の男になっていた。


 僕は保存した画像を並べた。


 違う顔だった。


 保存したほうには、知らない、日焼けした男が立っていた。


 画面の端から、釣り上げた魚の尾がはみ出していた。そこは同じだった。


 僕は初めて、パソコンの電源を切るのが怖くなった。


 切ってしまったあとも、向こうでは何かが続いている気がした。


     *


 それからしばのページは見なくなった。

 真帆を探すのもやめた。


 警察には大阪でのことも話した。メッセージと印刷した画面は渡した。ただ、見つけた男が誰かということは、僕の説明だけでは確かめられなかった。


 仕事は休まなかった。

 帰っても、することがなかったからだ。


 左のこめかみには、髪の生えない部分が残った。

 そこを指で触ると、まだ少し痛かった。


 十二月、会社に年賀状の注文が増えた。


 佐伯が、休憩中の僕の机へ、茶封筒を置いた。


「関さん、これ、急ぎで百枚お願いできます?」


「原稿は」


「中です。写真、スキャンしてください。データもあるはずなんですけど、先方、そういうの苦手らしくて」


 封筒の中には、注文用紙と写真が一枚入っていた。


 僕は、写真を裏返したまま注文用紙を見た。

 個人の依頼だった。京都の住所と、知らない名字が書かれていた。


「知り合い?」


「彼女の実家です」


 佐伯は声を落とした。


「あ、僕、結婚することになりまして。まだ社長には言ってないんですけど」


 僕は顔を上げた。


「早いな。いつから?」


「十月です。笑いますよね。でも、なんか、昔から知ってる感じがするんですよ」


 佐伯は照れくさそうに笑った。


 僕は、写真を表へ返した。


 あの家の居間だった。


 ソファの端に、知らない白髪の男が座っていた。

 その隣に、真帆のお母さんがいた。お盆を体へ引き寄せるようにして持っていた人だ。


 真ん中に女がいた。


 髪を短くして、眼鏡をかけた真帆だった。


 その右に、僕が座っていた。


 七月に着ていった、水色のシャツだった。

 写真が苦手な僕は、口元だけを上げていた。


 左のこめかみに、まだあるはずのない傷が見えた。


「いいご家族でしょ」


 佐伯が言った。


 僕は写真に指を置いた。


「この人」


「ああ、お兄さんです」


 僕は、佐伯の顔を見た。


「会ったのか」


「まだです。仕事が忙しくて、週末も帰れないらしくて」


 佐伯は写真を見下ろした。


「ちょっと関さんに似てますよね。彼女も言ってました。関さんの話をすると、お兄ちゃんみたい、って」


 電話が鳴り、佐伯は事務所へ戻った。


 僕は写真を机に置いた。


 年賀状の注文用紙には、家族の名前が連名で書かれていた。


 知らない名字の下に、僕の名前があった。


 航平。


 漢字も同じだった。


     *


 その日の仕事が終わるまで待って、僕は佐伯を会議室へ呼んだ。


 どこから話せばいいかわからなかった。

 だから、手元にあったものを全部出した。


 警察に提出した資料の控え。偽物の名刺。保存したページの印刷。病院でもらった領収書。


 佐伯は、最初は立ったまま聞いていた。

 写真と、真帆の昔のプロフィールを並べたところで、椅子に座った。


「名前が、違います」


「僕も、今の名前は知らない」


「麻美です」


 初めて聞く名前だった。


「関さんと付き合ってたんですか」


「そうだよ」


 佐伯は写真を見た。


「じゃあ、どうして、お兄さんって」


「わからない」


「この家に、行ったんですよね」


「行った」


「僕も行きました」


 しばらく、どちらも黙った。


「親父さん、手品するんです。百円玉がなくなるやつ。何度も失敗して」


 僕の会った父親は、手品をしなかった。


「料理、おいしくて。お母さんが、帰りに余ったのを持たせてくれて。タッパー、まだうちにあります」


 僕は頷いた。


 佐伯は、膝の上で両手を組んだ。


「あれ、全部、何だったんですか」


 それは、僕がずっと聞きたかったことだった。


 佐伯が携帯電話を取り出した。


「電話、してみます」


「今?」


「だって、本人に聞かないと」


 止める言葉を考えているうちに、呼び出し音が鳴った。


 携帯のスピーカーから、真帆の声がした。


「お疲れさま」


 僕は机の縁をつかんだ。


「今、会社?」


「うん」


「年賀状、お願いできた?」


 佐伯が僕を見た。


「写真のこと、聞きたいんだけど」


「うん」


「お兄さんの名前、何だっけ」


 少し間があった。


「航平」


 彼女は言った。


「関さんのこと?」


「そう」


 佐伯が、息を吸った。


「どうして言ってくれなかったの」


「お兄ちゃんが、まだ内緒にしてって」


「違う」


 僕は言った。


 電話の向こうで、真帆が黙った。


「そこにいるの?」


 僕は答えなかった。


「いるんだね」


 椅子を引く音がした。

 彼女のいる場所にも、ほかに人がいるらしかった。誰かが小さく咳をした。


「よかった。ちゃんと紹介できる」


 真帆の声が、明るくなった。


「佐伯さん。その人、私の兄です。航平っていいます。口数は少ないけれど、とても優しい人なの」


 僕は首を振った。


 佐伯は僕を見ていた。

 目が赤くなっていた。


「関さん」


 僕は、今度こそ言おうとした。


 妹じゃない。

 僕には妹なんかいない。


 佐伯が立ち上がった。


「冗談なら、そう言ってくださいよ」


 泣き出しそうな目のまま、口元だけで笑い、頭を下げた。


「妹さんには、いつもお世話になっています」


 机の上に、自分の手が見えた。


 親指を中へ折り込んでいた。

 いつの間に握ったのか、爪が食い込んでいた。


 僕は息を吸った。


 佐伯は頭を下げたまま待っていた。


「こちらこそ」


 僕は言った。


「妹を、よろしくお願いします」


 携帯電話の向こうで、真帆が笑った。


「うん。そうだよ」


 褒めるような、優しい声だった。


 僕の拳は、まだ開かなかった。

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