なんでもない、日常の先に
なんでもない、日常。
今日も変わらない。
一日が始まる。
「雪、オープンしてきてー」
先輩が声をかける。
「はい」
返事だけして俺は、看板を出しに行く。
書店の看板を表に出し、自動ドアをオンにする。
「オープンしました」
店内に声をかけ、俺はカウンターに戻る。
カウンター内では、先輩が作業をしている。
にこやかな笑顔で、来店した客への挨拶をしている。
「いらっしゃいませー」
笑顔が、眩しい。
ふっとこちらを見た先輩は、太陽みたいに無防備に笑った。
「何見てんの?俺、男前すぎる?」
冗談めかして言う先輩に、ほんの少しだけ胸が高鳴る。
俺は曖昧に笑って返す。
「何言ってんですか?」
そうして、作業に取り掛かる。
今日は、朝から忙しかった。
目まぐるしく動く、お店。
その中でも、俺の目は常に先輩を追っていた。
ひとつ年上の静玖先輩。仕事での、先輩。
最初は、丁寧に仕事を教えてくれる人だなぁって思ってた。
それから、仕事中も休憩中も本の話してて、この人も本好きなんだなぁって嬉しくなって。
――気づけば、好きだなぁって思ってた。
でも、この想いは、不毛だ。
伝えられるはずもない。
伝えていいはずもない。
そうして、俺は初めての恋心を無理矢理、自分の奥底に沈めた。
「なぁ、雪、今日の飲み会来る?」
就業後、帰り支度をしながら、先輩が近づいてくる。
「いや、俺は帰って本読も……」
「また欠席?今日は行こうよ!」
被せるように先輩は行った。
「えっ」
そうして俺は半ば無理矢理職場の飲み会に連れて行かれる。
がやがやする居酒屋。
盛り上がる先輩たち。
新人の歓迎会という口実のただのストレス発散場。
別に飲み会が嫌いなわけじゃない。
ただ、人と何話していいかわからなくなるだけで。
俺は手元のグラスを一気に飲み干す。
甘い。
少しだけ、酔いが回る。
「なぁ、雪、ちゃんと飲んでる?」
そう言って、グラス片手に隣に座ってきたのは先輩だった。
「飲んでますよ」
自然と笑みが零れる。
アルコールのせいか、少し自制が甘くなってるかも知れない。
先輩はだいぶ酔いが回っているようだ。
ばんばんっと先輩が俺の背中を叩く。
「お前、いっつも来ないからさぁ、寂しいじゃん」
「えっ」
不意打ちな言葉。
心臓がドキドキしているのは、お酒のせいなのか……。
「……先輩はなんで俺のこと気にかけてくれるんですか?」
思わず、口をついて出た。
言ってしまってから、手が震える。
一瞬、きょとんとした先輩はすぐに顔を綻ばせて、俺を見た。
「なんでだろうなぁ?俺もよくわかんないけど」
その笑顔が、また眩しい……。
「お前、いつも寂しそうだから」
ドキッなのか、ズキッなのか、よくわからなかった。
ただ、胸の中に衝撃が落ちたことだけはわかった。
複雑な気持ちで俺は、曖昧に微笑んだ。
「そうなんですね、ありがとうございます」
先輩はなんとも言えない、微妙な顔で俺を見た。
「……そういうとこ……」
ぼそっと先輩が何か言ったが、その時、俺には聞こえていなかった。
宴会がお開きになる頃には、先輩はしっかり酔い潰れていた。
「静玖、いっつも潰れんだよ」
別の先輩が呆れたように静玖先輩をつつく。
……起きない。
「ってことで、雪、こいつ家まで送ってやって?」
「えっ、なんで俺がっ!?」
動揺する。
しかし、先輩は手を合わせて頭を下げる。
「悪いっ。でもいっつも、皆で順番で面倒見てるからさ、今日は普段来ないお前に頼む」
そう言われると、弱い。
「わかりました」
溜め息をついて俺は静玖先輩に声をかける。
「……静玖先輩!帰りますよ!」
少し大きめな声で呼びかけると、先輩の体がビクッと震えた。
「あ……雪……?」
視点の合わない目が俺を見る。
こんな先輩、見たことない……。
「……ん」
先輩は手を前に差し出す。
起こせ、ってことか?
仕方なく俺は先輩の手を引っ張る。
勢い良く起き上がった先輩は、そのまま俺の体により掛かる。
距離が近い。
ふわっと香る先輩の匂いが、心臓を踊らせる。
「ほら、先輩、立って!」
平然を装って俺は、先輩を抱える。
ホントは、先輩を抱える腕も、胸も熱くてたまらない。
先輩の体の重みが、なんか幸せだ。
なんとか先輩を抱えて家まで連れて行く。
部屋の前で俺は先輩に声をかける。
「先輩、ここでいいですか?」
「う?ゔーん……部屋、開けて……」
そう言ってポケットから鍵を取り出して渡す。
仕方なく受け取って、俺は鍵をあける。
リビングのソファに先輩を座らせる。
「……水、飲みたい」
俺は溜め息をつきながら、冷蔵庫を開ける。
ペットボトルの水を一本取り出して、先輩に渡す。
「俺、帰りますよ?」
そう言うと、先輩は水を飲みながら俺を見上げた。
いつもより少しだけとろんとして目が俺を見る。
手が、思わずピクっと反応する。
……俺、今、何しようとした?
自分でも信じられない。
先輩に、触ろうとした……?
「だめ」
ペットボトルから口を離した先輩は、それだけを言った。
そして、ばんばんっと自分の座ってるソファの隣をたたく。
座れってことだろう。
一瞬、躊躇はしたが、俺は大人しく隣に座る。
「先輩、明日も仕事ですよね?早く寝たほうがよくないですか?」
そう言うと、先輩は顔を逸らして、
「あぁ」
とだけ、答えた。
沈黙が落ちる。
カチっカチっと鳴る、時計の音がやけに時間を長く感じさせる。
先輩が、こんなに何も喋らないのは、珍しい。
不意に、先輩の顔がこちらを向いた。
……かと思うと、一気に近づく。
先輩の腕が俺を包み込み、背中に回る。
体が、強張る。
驚き過ぎて、声も出ない。
ただ、心臓だけがうるさい。
そして、同時に近づいてきた先輩の顔が、俺の顔に重なり、唇同士が……触れた。
「っっ!!」
反射的に体が後ろに引く。
が、ソファの背もたれに邪魔されて、それ以上逃げられない。
ただ、触れるだけのキス。
それでも、俺の思考が停止するには十分だった。
唇が離れる。
呆然として、先輩を見る。
「俺、男ですよ?」
最初に口をついて出た言葉がそれだった。
「知ってる」
ふっと表情を崩して先輩は答える。
「酔っ払ってます?」
「……少し」
その様子じゃ少しじゃないだろ、と俺は思ったが、口にはしなかった。
酔っ払っての行動だとしても、動揺が隠せない。
「俺、帰りますね」
それだけを言い残し、俺はそのまま部屋を出た。
外に出て、夜道を一人歩いている時になってやっと、俺の顔が熱くなる。
先輩が、何考えてるか、わからない……。
立ち止まった俺の体を、夜の風が冷やしていく。
翌日。
先輩は二日酔いで辛そうだった。
俺は敢えて近づかずにいた。
昨日のことが、まだ整理できない。
昼休憩の時に、昨日俺に静玖先輩を送らせた先輩が話しかけてくる。
「昨日、ごめんな。大変だっただろ?」
両手を合わせて申し訳なさそうに。
少しだけ、顔が熱くなる。
昨日のこと、思い出してしまう。
「大丈夫でした。部屋の中に置いてすぐ帰れましたよ」
俺がそう言うと、先輩は目を丸くして驚いてる。
「え?アイツ部屋に入れたの?」
「?普通に入りましたよ?」
腕を組んで少し考えこんだ先輩。
「アイツ、お前にはよっぽど気許してんだな?」
どきっと胸が鳴る。
「普段、どんだけ酔い潰れてても絶対部屋に人入れないんだぜ?」
「えっ」
今度は俺が驚く。
普通に入ったけど……。
しかも先輩から鍵差し出して……。
「ま、いいことだな。また、よろしくな!」
体よく、次の飲み会のお世話役も認定された気もするが……。
そんなことより。
「どういうこと……?」
俺の少ない対人関係スキルじゃ、追いつけない情報が多すぎて、ついていけない。
ちょっとだけ、期待してしまう。
でも、そんなわけないと、自分を戒める。
そんなワケ……ないんだ。
就業後。
さっさと帰ろうとしていた俺の前に先輩が現れた。
「雪?」
ようやく二日酔いから解放されたのか、少し顔色が戻っている。
「……お疲れ様でした」
いつものように声をかけ、そのまま帰ろうとする俺の腕を先輩は掴んだ。
ああ、この期に及んでまだ、胸が高鳴る。
「雪、今日、俺のこと避けてない?」
「っ!?」
息が詰まる。
俺は振り向けなかった。
「……昨日のこと、覚えてる?」
掴まれたままの腕が、ビクッと反応する。
ふっと先輩の空気が緩んだ気がした。
「覚えてんだな……?」
「そりゃ……先輩よりは……」
まだ、振り向けない。
「俺……謝んないからな?」
その言葉に、俺は反射的に振り向いた。
たぶん、今までで一番情けない顔してる。
「なんでっ……」
思わず、感情が溢れる。
「なんで……って」
そう言った先輩は、開いている方の手で、額を抑える。
そうして、観念したように。
「俺、お前のこと好きだから」
真っ直ぐな言葉が俺に刺さる。
唇をぎゅっと結ぶ。
先輩が何を言っているか、理解出来なかった。
先輩はにっこり笑う。
「それに、お前も俺のこと好きだろ?」
は?
声は、声にならなかった。
ぽかんとしてただ、先輩を見る。
ふっと先輩は笑う。
「何、その顔?バレてないと思ってた?」
顔が熱い。
耳まで熱い。
先輩は掴んだままの腕を引き寄せる。
俺は俯く暇もなく、先輩に近づく。
「返事は?」
「……はい」
先輩の手が、頭をポンポンと撫でる。
「はい、じゃわかんないよ」
可笑しそうに笑う。
うん、自分でもよくわかんない。
「バレてないと、思ってました」
「その返事じゃないよ」
俺は顔をあげる。
先輩の目が俺をじっと見てる。
「え?」
「え?じゃなくて、俺の告白の返事」
顔が、真っ赤になる。
「俺、男ですよ?」
もう一度、問う。
先輩はくすっと笑った。
「だから、知ってる」
先輩の腕が、俺の背中に回る。
ふわっと抱きしめられてる。
「偶然男だっただけだよ、俺の好きになった人が」
目の奥が、熱くなった。
ずっと抱えてきた葛藤が、解ける日が来るとは思ってもいなかった。
……しかも、好きな相手からの言葉で。
「……俺も、好きです」
なんとか、絞り出す。
不思議な衝動が湧き上がる。
「先輩……抱きついてもいいんですか?」
「えっ?」
驚いたように俺を見た先輩の顔が、ゆっくり緩む。
「そういうとこ、雪だよなぁ」
そう言って先輩の手に力が入る。
「聞かなくていいんだよ、そういうことは」
俺は恐る恐る、先輩の背中に手を伸ばす。
初めての、人の温もり。
先輩の手が俺の頬に触れる。
「なぁ、キスしていい?」
その言葉に、俺は面食らう。
「……そういうことは聞かなくていいんですよ……」
先輩の真似して返す。
ふふっと笑った先輩の顔近づく。
ゆっくりと唇が重なった。




