第8話 茶葉を狙う手――“香りの嘘”は、舌より先にばれる
朝いちばんの湯気は、店の不安も一緒に温めてしまう。
私はやかんを火にかけながら、カウンターの上の紙を見た。
昨夜、扉の隙間から滑り込んできた脅し文だ。
『今日は“邪魔”に失敗した。次は“茶葉”だ』
紙の端に押された赤い印が、やけに鮮やかに見える。
ミーナが雑巾を握ったまま、眉をひそめた。
「……茶葉って、店の命ですよね」
「うん。紅茶屋から紅茶を奪うってこと」
「つまり、殺しにきてます」
「言い方が怖い」
「でも事実です! お茶がない紅茶屋って、ただの“いい匂いがする部屋”です!」
それはそれで需要がありそうだ――と思ったけれど、口には出さない。
ミーナの焦りが増えるだけ。
控えめなノックが二回。
扉の向こうから、低い声。
「状況は」
カイルだ。
私は脅し文を見せた。
「これです。次は茶葉」
カイルは紙を一瞥し、短く息を吐いた。
「予告するのは、怯えさせたいか、動かしたいか」
「動かす……?」
「仕入れだ」
言い切られて、背筋が伸びた。
確かに。茶葉を狙うなら、私たちの動きはひとつしかない。
ミーナが拳を握る。
「仕入れ、行きます! 今すぐ!」
「……行こう」
私は頷いた。
店を開けながら仕入れはできない。だから午前中に動く。
「カイルさん、付き添いは――」
「当然」
当然、の硬さが今日はありがたい。
在庫を確認する。
アッサムが残りわずか。ダージリンは半分。ハーブはまだある。
仮開店の熱気で、想像以上に減っていた。
(今日補充できなかったら、明日から“紅茶屋”が名ばかりになる)
店の扉に“本日の準備中”の札をかけた。
その瞬間、通りの空気がこちらを向くのが分かる。
見られている。噂は今日も店より早い。
「……あれ」
ミーナが小声で言った。
通りの陰。人混みに紛れる立ち方の男。
昨夜、扉の影にいた“気配”に似ている。
カイルが一歩だけ位置を変える。
それだけで男の視線がすっと逸れた。
「……追われてます?」
ミーナの声が震える。
「追わせない」
カイルの短い言葉が、妙に安心できた。
私たちは市場へ向かった。
王都の市場は朝が早い。野菜の山、肉の塊、焼きたてのパン。
呼び込みの声が重なり、音が一枚の布みたいに広がっている。
茶葉の店は、香りで見つけられる。
乾いた葉の匂い。柑橘の皮。花の香り。
私は鼻で道を選び、角を曲がった。
「おお、いい香り連れてるねえ!」
声をかけてきたのは茶葉商の女主人。
四十ほど、髪を後ろでまとめ、腕まくりが似合う。
看板には――『ルフレ茶商』。
「いらっしゃい、紅茶屋さん。噂の“ほどける”の方でしょ?」
噂がここまで飛んでいる。
私は苦笑して頭を下げた。
「仕入れに来ました。アッサムとダージリンを」
「いいね。味が分かる人は話が早い」
マダム・ルフレは棚の奥から缶を出した。
蓋を開けると、乾いた甘さがふわっと立つ。
私は息を吸い、香りを確かめた。
(雑味が少ない。火入れが丁寧)
ミーナが目を輝かせる。
「いい匂い……!」
「目がキラキラしすぎ。盗まれるよ」
「盗まれません!」
言い切った瞬間、ミーナが自分の口を押さえた。
今日の話題に敏感すぎる。
マダム・ルフレが声を落とす。
「……茶葉、狙われてる?」
私は瞬きをした。
「分かるんですか」
「朝から変なのが増えてる。『噂の店に卸す茶葉を見せろ』ってね」
軽い口調なのに、背筋が冷える。
カイルが店内を見回す。
人の流れを読む目。
「監視がいる」
「でしょうねえ」
マダム・ルフレはため息をついた。
「最近、偽物が出てる。香りだけ似せた粗悪品。売った店の名前を潰すために使われる」
ミーナが顔を青くする。
「それ、うちの店が……」
「可能性はある」
私は頷いた。
マダム・ルフレは小皿を二つ出した。
一つはさっきの茶葉。もう一つは色が少し薄い。
「これ、どっちが本物?」
試されている。
私は黙って葉をつまみ、指の腹で軽く潰した。
香りが立つ。立ち方が違う。
片方は甘くて深い。
もう片方は、甘さの奥に“粉っぽい苦さ”がある。紅茶の苦味じゃない。
乾いた草と古い木材みたいな、鼻に残る匂い。
「……右が偽物です」
マダム・ルフレが口角を上げた。
「正解。鼻がいいね」
嬉しいはずなのに、素直に喜べなかった。
偽物が混ざれば、店の信用は一瞬で落ちる。
そのとき、店の外で“わざと”ぶつかった音がした。
カイルが一歩動く。
その先で、若い男が固まった。荷車を押している。荷車の上には麻袋――茶葉の袋。
「……す、すみません!」
男は焦って荷車を引こうとする。
手が速い。逃げる速度だ。
私は荷車に近づき、麻袋を見る。
結び目が新しい。
そして袋の隅に、薄い赤い印が付いていた。
心臓が一拍だけ遅れた。
「その袋……どこへ運ぶんですか」
男の顔が引きつる。
「べ、別に……」
カイルが男の前に立つ。
立つだけで、男の足が止まる。
「答えろ」
短い圧。逃げ道を塞ぐ声。
男は目を泳がせ、言い訳を探す顔になる。
言い訳が増えると、嘘が増える。嘘が増えると、ほころびる。
私は“店のやり方”を守った。
強制はしない。辱めない。追い詰めて見世物にしない。
だから言葉を変える。
「市場は埃が多いですよね。……喉、乾いてませんか」
マダム・ルフレがさっと水差しを出してくれた。
私はコップに水を注ぎ、男の前に置く。
「飲むかどうかは自由です」
男は迷って――コップを掴んだ。
ごくごくと飲む。乾きが深い。喉だけじゃなく、心も。
飲み終えた瞬間、男の口が滑った。
「……俺、運び屋だ」
男は自分で言ってしまったことに驚いて口を押さえた。
遅い。言葉はもう外に出た。
カイルが問う。
「誰の指示だ」
「……商会……」
そこで男は歯を食いしばった。
言えば危険だと分かっている顔。
私は男の目を見た。
「脅されてますね」
肩がびくっと跳ねた。図星。
「言わなくていい。……でも、赤い印はどこから来た?」
唇が震え、ぽつりと落ちる。
「……印だけ渡された。袋に押せって。押したら金が増えるって」
金。単純で汚い。
マダム・ルフレが舌打ちした。
「うちの名を潰す気か……」
私は袋の赤い印を見た。
紙に押された印と同じ色。でも粗い。急いで押した跡。
「その袋、中身は本物ですか」
男の目が泳いだ。
泳いだ瞬間、答えは出た。
「……混ぜた」
絞り出す声。
「少しだけ。偽物を……分からないと思った」
ミーナが息を呑む。
「分かります!」
即答が大きい。
私はミーナの肩に手を置いて落ち着かせた。
カイルが男の腕を掴む。
「拘束する」
「待って」
私は止めた。
「ここで騒ぎにしたくない。市場は人が多い。騒げば噂になる」
カイルの眉が動く。
「逃げる」
「逃げないようにする」
私はマダム・ルフレを見る。
「この人、ここで捕まえると危険ですか」
マダム・ルフレは少し考え、頷いた。
「危険。口を塞ぎに来る。市場の中でもやる連中だよ」
私は男に言った。
「選んで。今ここから消えるか。……それとも、私の店に来て話すか」
男は歪んだ顔で迷い、やがて小さく頷いた。
「……行く」
カイルが短く言う。
「遠回りする。尾を切る」
私たちは麻袋をマダム・ルフレに預け、男を連れて市場を出た。
角をいくつも曲がり、通りを替え、わざと遠回りする。
「足、もつ?」
私が聞くと、ミーナは強がって笑った。
「もつに決まってます! 怖くない係は足腰も強いんです!」
店に戻ると、通りはまだ落ち着いていた。
私は鍵を開け、男を中へ通す。
男は看板を見上げ、かすれた声で呟いた。
「……ほどける」
その呟きが、妙に寂しそうだった。
私は布の仕切りを作り、男を座らせた。
ミーナがランプを置く。
この手順は、もう“店の形”になりつつある。
私は紅茶を淹れた。
今日は“真実を暴く”ためじゃない。
怖さをほどくために。
香りの軽い紅茶。甘みは控えめ。喉に引っかからない温度。
「飲むかどうかは自由です」
男は迷って、カップに手を伸ばした。
一口。二口。
肩が少し落ちる。落ちると、人は正直になる。
「……俺、悪いことしてるって分かってた」
「でも金が必要だった?」
私が問うと、男は目を閉じて頷いた。
「……赤い印の紙を渡してくる奴がいる。名は知らない。あれを見ると、みんな黙る」
権威の印。
それが本物か偽物かは分からない。
でも、人を黙らせる力はある。
私は次を問う。
「本当の目的は何?」
喉が動く。抵抗。
抵抗するほど、言葉はこぼれやすい。
「……店を、潰せって」
言った瞬間、男の顔が青くなった。
言ってはいけない言葉を言ってしまった顔。
「誰に?」
男は震えながら答える。
「……名前は聞いてない。でも、南区の商いを仕切ってる男が噂で怒ってた」
派手な香水の匂いが、頭の中に浮かんだ。
ミーナが唇を噛む。
「やっぱり……」
私は頷いた。
「怖い噂になれば、誰も来ない。偽物の茶葉で味が落ちれば、もっと早い」
男は項垂れた。
「……俺、どうすればいい」
私はすぐに答えられなかった。
この人を助けても、狙う側が消えるわけじゃない。
でも放っておけば、次の誰かが同じ目に遭う。
だから私は“店の約束”に戻る。
「あなたがしたことは悪い。……でも、ここで終わらせることもできる」
男が顔を上げる。
「終わらせる……?」
「混ぜた量、混ぜ方、印の特徴。全部教えて。私が守れる形に変える」
男の目が揺れる。救われたい目。
「……教える。全部」
ミーナが小さく拳を握った。
カイルは無表情のまま、目だけが鋭くなる。情報は武器になる。
私は聞き取りを紙にまとめた。
赤い印の紙は薄い。押すとにじむ。
偽物は乾燥した草を混ぜて香りを誤魔化す。混ぜる量は少し。気づいた時には遅い。
そのとき、外で小さな物音。
扉に何かが当たった音。
カイルがすっと立ち、すぐ戻ってきた。手には小さな包み。
「投げ込まれた」
嫌な予感のまま、私は布をほどいた。
中に入っていたのは、茶葉の小袋。
そして、赤い印が押された紙片。
『“良い茶葉”を届けた。飲めば、噂は完成する』
ミーナが青くなる。
「……毒ですか」
「分からない。でも“噂を完成”させるって」
味を壊すか、体調を崩させるか。
どちらでも、店の信用は死ぬ。
私は袋の口を開けずに、カイルへ渡した。
「触らないで保管して。……それから、ルフレ茶商にも伝えたい」
「任せろ」
カイルが包みを抱えて外へ出る。
店内の空気が少し冷えた。
冷えると、ミーナの顔が硬くなる。
私は湯を沸かした。
こういう時こそ香りで空気を整える。
「……今日は、開けられますか」
ミーナが小さく言った。
私は看板を見た。
『ほどける紅茶屋』
約束の名前。
「開ける」
私は言った。
「茶葉を狙うなら、茶葉で負けない。選別もできる。仕入れ先も守れる」
運び屋の男が震える声で言う。
「……俺も、手伝う」
「ありがとう」
怖さは消えない。
でも怖さの上に“手順”を積めば、崩れにくい。
ミーナが拳を握る。
「怖くない係、今日は“香りチェック係”も兼任します!」
扉の札を“開店”に変えた瞬間、通りがざわついた。
噂が集まる音。
私はカウンターの前に立ち、ルールの紙を確認する。
同意のない紅茶は出さない。人前の詰問は禁止。本音を刃にしない。
そして、今日もう一行を書き足した。
『茶葉の持ち込みは禁止です』
ミーナが目を丸くする。
「え、持ち込みダメなんですか」
「今日から。……“噂を完成”させる茶葉が来た。完成させるのは、うちの香りだけでいい」
「格好いいです!」
格好いい判定が軽いのは、いつものこと。
でも、その軽さが救いでもある。
扉が開き、最初の客が入ってくる。
私はいつもの言葉を置いた。
「ようこそ。『ほどける紅茶屋』へ」
噂は走る。
赤い印も動く。
でも、香りと約束がある限り――店はほどけながら強くなれる。
私はカウンターの奥で、そっと誓った。
(赤い印の正体、必ず掴む)
そして掴んだ真実は、紅茶の温度で包む。
傷にならない形にして、返す。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
もし続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。




