第6話 店名決定と開店準備――“護衛つき”の噂は、甘い香りより早い
朝の王都は、匂いで動き出す。
パンの焼ける匂い。石畳の湿った匂い。馬の汗の匂い。
匂いが道に落ちると、人が拾う。
人が拾うと、噂も拾われる。
――噂は、甘い香りより早い。
空き店舗の前に立つと、扉の木目が昨日と違って見えた。
昨日は「空っぽの場所」だったのに、今日は「始まりの場所」に見える。
「お嬢様、開けますよ!」
ミーナが扉を押し、重い音を立てて開いた。
中はまだ埃の匂いが残る。でも嫌じゃない。
“やることがある匂い”だ。
「今日の予定、いきます!」
ミーナが指を折って言う。
「床の仕上げ! カウンター拭き上げ! 席の配置! そして――看板!」
最後が一番大きい。
看板。店の顔。噂に負けないための、こちらの言葉。
「うん……店名も決めないと」
私が言うと、ミーナがぱっと笑った。
「そうです! 名前がないと、噂に勝てません!」
「勝つというより……整える」
「同じです!」
勢いで言い切って、ミーナは雑巾を握りしめた。
その勢いが、今の私にはありがたい。
私は店内を見回す。
木箱のテーブル。古い椅子。仮の形。
でも――ここに“言葉”を置けば、形になる。
(店名は、約束だ)
ここでは誰かを辱めない。
ここでは本音を刃にしない。
ここでは、言えなかったことを言える形にする。
その約束が伝わる名前がいい。
ミーナが急に小声になった。
「……お嬢様、外」
窓から覗くと、向かいの路地に、同じ格好の男が二人立っていた。
目立たない服。けれど立ち方が“仕事”。動きが少なく、視線が忙しくない。
胸の奥が少し冷える。
(護衛……)
昨日渡された紙片が、もう動いているのかもしれない。
「……来てますよね」
「たぶん。守るために」
「守るための人が、怖い顔してるのが問題なんです!」
ミーナが小声で怒った。
「そうだね。店の中の空気は、こちらが作る」
私たちは作業を再開した。
床を磨く。カウンターを拭く。棚の埃を払う。
拭くたびに木が光る。光るたびに、ここが“店”に近づく。
途中から、外が妙に賑やかになった。
窓の前で止まる足音。
ひそひそ声。笑い声。
「ここ? 真実の紅茶の……」
「まだ開いてないらしい」
「でも、人いるよ」
ミーナが雑巾を握ったまま私を見る。
「……噂、飛んでます。想像より速いです」
「うん。……噂は待ってくれない」
だからこそ、看板が必要だ。
噂が勝手に言葉を置くなら、こちらも言葉を置く。
「ミーナ。今日、看板を作ろう」
「はい! 私、描けます!」
「文字も頼める?」
「得意です! 可愛い文字も、格好いい文字も!」
ミーナが胸を張る。
頼もしい。けれど――店名がまだない。
私は紙とペンを取り、カウンターの端に置いた。
条件を整理する。
・紅茶の店だと分かる
・怖くない
・軽すぎない
・本音を刃にしない
・噂に飲まれない
書き出すと、難しい。
ミーナが覗き込み、指を立てる。
「『ほんとのティールーム』!」
「可愛いけど、“本当”が前に出すぎるかも」
「じゃあ『真実の茶会』!」
「強い。噂が好きそう」
「噂、嫌いです!」
「私も」
ミーナがむすっとして、次の案を出した。
「『ほどける紅茶店』!」
その言葉で、私の指が止まった。
「……ほどける」
「いいですよね! ぎゅっと固まったのが、ふわってなる感じ!」
ミーナが両手を広げて、ふわふわの動きをする。
その動きに、胸の奥が少し軽くなる。
「『ほどける』は……いい」
「やった!」
「でも、もう少し“場所”がほしい」
私は紙に書く。
『ほどける茶屋』
『ほどけるティーサロン』
『ほどける紅茶室』
「紅茶室、ちょっと固いです」
「うん。ティーサロンは背伸び」
「茶屋は親しみやすい!」
親しみやすい。怖くない。
大事なのは、そこだ。
私は最後に一つだけ書いた。
『ほどける紅茶屋』
紅茶だと分かる。場所感がある。固すぎない。
そして、約束が込められる。
「これ、どう?」
ミーナの目が輝く。
「いいです! 噂より優しい!」
その評価が決定打だった。
「じゃあ決まり。店名は――『ほどける紅茶屋』」
言葉にすると、胸の奥で小さな柱が立った。
これが、私の約束だ。
「看板、描きます!」
ミーナが板を用意し、下書きを始める。
大きく、読みやすく。柔らかいのに、へにゃっとしない文字。
『ほどける紅茶屋』
文字が板に乗るだけで、店が一段階“現実”になる。
私はその横で、メニューを考えた。
アッサム。ダージリン。甘みの合うお茶。身体が冷えないお茶。
(本音が出ても、傷にならないように)
本音は心だけじゃなく、身体にも出る。
泣く。震える。力が抜ける。
だから、温める準備が要る。
そこへ、ノックが三回。丁寧で控えめ。
扉を開けると、黒に近い地味な服の男が立っていた。腰に短剣。
表情は無いのに、目が鋭い。
「ここに店を開く予定の者がいると聞いた」
「私です」
「護衛の者だ。名はカイル。当面、この店の安全確保を任されている」
ミーナが小さく呻く。
「……本物だ」
私は背筋を正した。
「ありがとうございます。ただし――条件があります」
カイルの眉が動く。
「条件?」
「店の中では、客が怖がる立ち方をしないでください」
ミーナが「お嬢様!」と止めに入る。
でも、言わないと後で困る。
「ここは“ほどける紅茶屋”です。怖い空気は、店の外に置いてほしい」
カイルは黙った。
それから短く頷く。
「了解した。客の前では距離を取る。入口の死角を避ける。動きも抑える」
……思ったより話が通じた。
私は少しだけ息を吐く。
「ありがとうございます」
「礼は不要。任務だ」
任務。
でも、その任務が私の店を守るなら、今は頼る。
カイルは店内を一度見回し、言った。
「開店はいつだ」
「なるべく早く。ただ、整えたい」
「噂は待たない」
短い言葉が刺さる。
噂は待たない。だから、こちらが先に言葉を置く。
私は頷いた。
「看板を今日作ります。明日、仮でも開けます」
ミーナが「えっ」と声を漏らす。
でもカイルは淡々と頷いた。
「それがいい。初日は混む。混むと荒れる。荒れる前に制御する」
制御。
冷たい言葉。けれど現実だ。
カイルは外へ戻り、店の前に立った。
さっきの二人より少し目立つ位置。
目立つことで、近づきにくくする立ち方だ。
ミーナが私に近づき、囁く。
「……明日、開くんですか」
「仮で。席数も少なく。紅茶も数種類だけ」
「お菓子は……!」
「焼き菓子を少し。仕入れよう」
「……本当に始まっちゃう」
震える声。怖さだけじゃない。期待も混ざっている。
「始めよう。怖いけど、始めないと噂に食べられる」
ミーナは一度だけ深く息を吸って、頷いた。
「……はい! じゃあ看板、全力で可愛くします!」
頼もしい。
そこへ、今度はノックが一回。ためらいの音。
扉を開けると、上品な服の女性が立っていた。目の下の影が薄くなっている。
「……昨日は、ありがとうございました」
彼女は頭を下げ、紙に包んだ小さな包みを差し出した。
「差し入れです。焼き菓子を、少し」
甘い匂い。噂より優しい匂い。
「ありがとうございます」
店内に案内すると、彼女は看板の下書きを見て目を輝かせた。
「……『ほどける紅茶屋』。素敵です」
「そう言ってもらえると安心します」
彼女は少し迷ってから言った。
「……もう一つお願いが」
私は姿勢を正す。
この店の役目は、“お願い”の前にある。
「はい」
「噂が広がっていますよね。私、誰にも言ってないのに」
「広がっています」
「商会の人が言ってました。『あの店に行けば、嘘がバレる』って」
彼女の顔が曇る。
「……怖い噂になってほしくないんです。私は助かったのに。怖いって言われたら、誰も助けを求められない」
胸の奥に刺さる。
私が恐れているのも、それだった。
「協力してくれますか」
彼女は目を丸くする。
「私が?」
「店が開いたら、最初に“普通に紅茶を飲みに来てほしい”。噂を、優しい形に戻したい」
彼女は一瞬固まって、笑った。
「……喜んで。普通に、飲みに来ます」
その答えが、看板より心強い。
ミーナが後ろから言った。
「常連第一号です!」
「大げさです……」
「大げさが大事なんです!」
笑いが店に落ちる。
落ちた笑いが、店を“怖くない場所”にしていく。
そのとき、外のざわめきが強くなった。
通りに人が増えている。立ち止まる人、指をさす人、ひそひそ話す人。
カイルが一歩だけ前へ出た。
立ち方ひとつで、人の距離が変わる。
噂は待たない。
だから、こちらも待てない。
私は板を両手で持ち、扉の外へ出た。
カイルがさっと位置を変え、邪魔にならない場所で周囲を見る。
通りの視線が集まる。
噂が喉元まで上がってくる空気。
私は、看板を掲げた。
「――『ほどける紅茶屋』。明日、仮で開けます」
声は大きくしすぎない。
でも、聞こえるように。
通りがざわつく。
「店名だ……」
「ほどける?」
「怖くない感じだな……?」
胸の奥が少し軽くなる。
噂は消えない。けれど、こちらの言葉が置けた。
店に戻り、私は紙に最初の一行を書く。
『本音が出ても、傷にならない紅茶を』
――そのとき、扉の影に誰かが立っているのが見えた。
人混みに紛れるには上手すぎる立ち方。
こちらを見て、すぐに視線を逸らす。
そして、ほんの少しだけ笑った気配。
(……見られている)
噂の客じゃない。護衛でもない。
“困る者”の側かもしれない。
私はペンを置き、ミーナに笑いかけた。
「大丈夫。続けよう」
「はい。怖くない係、出動です!」
ミーナが元気よく言う。
私は頷き、湯を沸かした。
明日のために。
噂より優しい香りを、先に通りへ流すために。
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