第5話 監査官の来訪――紅茶は、王子の“素”までほどいてしまう
ノックは二回。短く、はっきり。
迷いのない音だった。
その音だけで分かる。これは“用事がある人”のノックだ。遠慮ではなく、仕事。しかも急ぎ。
私は雑巾を置き、手を布で拭いた。
店内はまだ仮の姿だ。床は半分だけ磨かれ、木箱がテーブル代わりに並ぶ。窓から入る光は明るいのに、空気にはまだ「空き家」の匂いが残っている。
「……来た」
ミーナが小さく呟く。強がりの声なのに、喉の奥がほんの少し震えた。
「大丈夫。出るね」
扉を開ける前に、息をひとつ整える。
心が先に走ると、言葉が乱れる。乱れた言葉は、相手に主導権を渡す。だから手順を守る。
扉を少し開けると、青年が立っていた。
背が高い。姿勢がいい。服は地味だが、生地が良い。靴も磨かれている。
そして、目が落ち着いている。値踏みの目ではなく、状況を測る目。
「失礼します。こちらに……紅茶を淹れる方がいらっしゃると伺いました」
丁寧な声。丁寧すぎて、仕事の匂いがする。
「私が淹れます。ただ、ここはまだ開店前で――」
「承知しています。少しだけ、お時間をいただけますか」
青年の半歩後ろに、もう一人の男がいた。
少し年上。肩幅があり、視線が鋭い。表情が固く、動きが最小限。護衛か、補佐か。
ミーナが背中の後ろから囁いた。
「……怖い人、います」
「分かる。でも入れる」
私は扉を広げ、二人を中へ通した。
濡れている床を避けて案内し、乾いた窓際に椅子を置く。木箱のテーブルの埃を払う。
仮の席でも、席は席だ。座れば、人は少し落ち着く。
「王都の監査に関わる者です」
青年は肩書きだけを名乗った。名は出さない。
「噂の確認をしたい。あなたの紅茶が“真実を口にさせる”という件です」
私はまっすぐ頷いた。
「誤解されやすい噂です。嘘を暴くというより、言えなかった本音がこぼれる……そんな感じです」
「本音……」
青年は短く反芻し、静かに息を吐く。
「危険ですね。使い方次第で、人を壊す」
「だから、使い方を決めます」
言い切ると、青年の口角がほんの少し上がった。
笑みというより――納得の形。
「お願いしたいのは二つです」
青年は指を二本立てる。
「一つ目。噂が本当かどうかの確認」
「二つ目。もし本当なら――ある人物の言葉が“真実”か確かめたい」
隣の男が、ほんのわずかに眉を動かした。
小さい動き。小さいほど、隠すのが上手い。
「相手をここに連れてくる形ですか」
「ええ。こちらです」
青年が隣の男を示す。男は僅かに肩を固くし、すぐに氷みたいな顔に戻った。
「ヴァルターだ。監査補佐」
低い声。余計な感情が混じらない。
混じらない声は、混ぜたくないものがあるときにも出る。
「紅茶は強制ではありません。飲みたくないなら、無理に飲ませません」
「必要なら飲む」
即答。速すぎる。
青年が穏やかに言った。
「まずは、あなたが一杯。私も一杯。効き方を確認したい」
「条件があります」
私は先に釘を刺す。
「ここでは人を辱めるために使いません。出た本音は、扱い方を間違えると刃になります。必要な範囲だけに留めます」
青年は迷わず頷いた。
「同意します」
私はカウンターへ向かった。
茶葉はアッサム。香りが強い。
ただし今日は、言葉の尖りを減らしたい。
(ミルク。蜂蜜は一滴)
湯を沸かし、ポットを温め、茶葉を入れる。
お湯を注ぐと赤い香りが立ち上がり、埃の匂いを押しのけた。
空気が整う。整うと、呼吸も整う。
カップに注ぎ、ミルクを落とし、蜂蜜をわずかに。
私は二つのカップを持って戻った。
「どうぞ。熱いので、ゆっくり」
青年は礼をして受け取る。
ヴァルターも受け取るが、動きが最小限。カップの重ささえ嫌がっているように見えた。
二人が口をつける。湯気が揺れる。
最初に声を出したのは青年だった。
「……落ち着く香りですね」
作った言葉じゃない。今の“まま”だ。
青年はもう一口飲み、ぽつりと言った。
「本当は、こういう場所が好きなんです」
ミーナが目を丸くする。
私も少しだけ驚く。監査の人は、もっと固い場所にいる印象がある。
「固い場所は疲れます」
青年は言ってから、咳払いした。
「……失礼。今のは余計でした」
「余計じゃありません」
私は答える。
「“本当は”を言える場所は必要です」
青年の目が一瞬、柔らかくなった。
次に、ヴァルターが吐き捨てた。
「くだらん。茶に何ができる」
硬い言葉。
硬いのに、焦りが混ざる。
青年がヴァルターを見る。
「ヴァルター。落ち着け」
「私は落ち着いている」
「なら、もう一口飲め」
ヴァルターは無言で飲んだ。
そして、次の瞬間。
「……私は、この噂を消したい」
低い声が、勝手に滑り落ちた。
ヴァルターが固まる。目を見開く。
口を閉じようとするが遅い。紅茶は、言葉の蓋を外してしまう。
青年が静かに問う。
「なぜ、消したい」
「面倒が増える」
ヴァルターは飲み込もうとして、飲み込めない。
「面倒が増えると、都合が悪い」
空気が少し冷える。
ミーナが息を呑む。
青年が声を落とす。
「都合が悪い、とは?」
ヴァルターの喉が動く。抵抗している。
抵抗するほど、言葉は別の出口を探す。
「……帳簿の穴が……見つかる」
ヴァルターの顔が赤くなった。羞恥と恐怖の赤。
「言うな……!」
自分の口に言っている。
青年は一度だけ目を閉じ、息を吐いた。
それから淡々と告げる。
「噂の確認は済んだ」
冷たいが、怒鳴らない。処理の声。
「次に二つ目だ。ヴァルター。君は誰から金を受け取っている」
ヴァルターが立ち上がりかける。
「馬鹿な……!」
その反応が、答えだ。
青年は穏やかな声のまま言う。
「座れ。ここは裁判所ではない。だが、ここで出た言葉は君のためにもなる」
「なるものか!」
ヴァルターが怒鳴り、カップを握りしめる。指が白い。震えている。
青年が静かに促す。
「飲め」
ヴァルターは拒みたいのに拒めない顔で、もう一口飲んだ。
そして。
「……商会だ」
口が勝手に言う。
「南区の……ミルダ商会」
店内に、その名が落ちた。
青年は淡々と続ける。
「何を見逃す代わりに、金を受け取った」
「……輸送税」
ヴァルターが口元を押さえる。押さえても言葉は漏れる。
「申告を……薄くした。……目をつぶった」
「いつから」
「……半年」
「いくら」
「……金貨、八十……」
ヴァルターが息を詰まらせた。言ってしまった自分に吐き気がしている顔。
青年はカップを机に置いた。
「分かった」
たった一言。
それだけで、ヴァルターは椅子に沈み込んだ。
青年はヴァルターに言う。
「この場で拘束はしない。逃げるな。明日の朝、監査局へ来い。自分の足で」
「……行けば、終わる」
「終わるだろう」
青年の声は冷たい。だが、終わらせるだけの声ではない。
「だが逃げれば“もっと悪い終わり方”になる。君は分かっている」
ヴァルターは唇を噛み、黙って頷いた。
青年は私に向き直る。
「あなたと、この店は……狙われる」
背筋が伸びる。私は頷いた。
「脅しの紙が来ています」
「見せてほしい」
私は紙を机に置いた。
青年は一行ずつ目で追い、短く息を吐く。
「……やはり」
その反応が、噂以上の何かを知っている者のものだった。
私は問い返す。
「あなたは、監査官なのですか」
青年は一瞬だけ迷い――諦めたように小さく笑った。
「名乗るべきですね」
椅子に座り直し、姿勢をほんの少し崩す。
崩した瞬間、空気が変わる。
“偉い人の空気”が、ふっと漏れた。
「私は第二王子、レオニスです」
ミーナが凍った。
声が出ない。口の形だけが「えっ」。
私は立ち上がりかけて、やめた。
ここで慌てて礼をすれば場が壊れる。壊れたら、話すべきことが話せなくなる。
私は椅子に座ったまま背筋だけを正し、言葉を整える。
「……殿下が、どうしてこのような場所へ」
「噂は便利です」
レオニス殿下は淡々と言う。
「人が隠したいことほど、噂が寄ってくる。そして今は“隠したいこと”が多すぎる」
殿下は視線を少し落とし、ぽつりと言った。
「私は……正直、面倒が嫌いです」
ミーナの目がさらに丸くなる。
殿下は咳払いした。
「今のは紅茶のせいです」
困ったような顔。意外なほど年相応で、ミーナが笑いそうになって口を押さえた。
殿下は続ける。
「だが、放置すればもっと面倒になる。それも分かっている」
私は静かに言った。
「殿下は真面目ですね」
「真面目というより……逃げるのが下手なんです」
殿下は自嘲気味に笑い、カップを持ち上げる。
「それに」
驚くほど小さな声で言う。
「……こういう店が、王都に増えてほしい」
胸がきゅっとなる。
政治の言葉じゃない。人の言葉だ。
殿下は自分が言ってしまったことに驚いたように視線を逸らす。
「……失礼。今のも紅茶のせいです」
「紅茶のせいにしていい言葉です」
私が言うと、殿下は少しだけ笑った。
私は問いを改める。
「殿下。ここで私に何を望みますか」
殿下は真っ直ぐ答えた。
「協力してほしい。あなたの紅茶を監査に使いたい――と言うと危険だ」
私は頷く。
紅茶が“権力の道具”になれば、店は終わる。
殿下は続ける。
「だから形を変える。あなたは“店”を開く。私は“客”として、ここを守る」
ミーナが今度こそ声を出した。
「守るって……王子殿下が……?」
「常駐はしない」
即答。
そして少し咳払い。
「だが護衛を付けられる。裏口の確保も、契約の見直しも。脅しの紙の出所も調べられる」
魅力的だ。
でも借りすぎれば、私は私でなくなる。
私は条件を出す。
「私の店は、私の店です」
「もちろん」
「私は、相手を辱めるために紅茶を使いません」
「同意する」
「それと……私が協力するなら、私も選びます。誰に飲ませるか」
殿下の目が細くなる。
試す目ではなく、嬉しそうな目だった。
「いい。あなたが選べ。あなたが選ぶなら、私は信じられる」
その言葉が胸に落ちた。
私は軽く頷く。
「分かりました。ただし、最初は小さく。私も慣れていません」
「小さく始めるのは得意だ」
殿下は言ってから、はっとする。
「……いや。得意ではない。……たぶん」
ミーナが吹き出した。
「殿下、紅茶、効きすぎです……!」
殿下は眉を寄せ、少しだけ恥ずかしそうに言う。
「今日は……勘弁してほしい」
その人間らしさに、私も思わず口元が緩んだ。
空気が少し明るくなる。明るくなると、怖さが薄くなる。
殿下は立ち上がった。
「私は行く。――だが、これを」
小さな紙片を私に渡す。封はない。簡易なメモ。
「印章のある者に伝えろ。表向きは監査局の連絡先。だが……」
殿下は声を落とす。
「あなたの身が危ない時は、私に届く」
紙は軽いのに、重かった。
「ありがとうございます」
殿下は頷き、ヴァルターに一言だけ告げる。
「明日だ。逃げるな」
「……はい」
扉が閉まる。
店に静けさが戻った。
でも空っぽの静けさではない。これから起きることの重さが残る。
ミーナがゆっくり息を吐いた。
「……王子殿下、でした……」
「うん」
「私、さっき“効きすぎ”って言っちゃった……」
「言ってよかった」
「え?」
「偉い人が偉い顔のままだと、言葉が届かない。……届く顔をしてた」
ミーナはしばらく固まって、ふっと笑った。
「お嬢様、時々さらっとすごいこと言います」
「紅茶のせいかも」
「それは絶対ちがう!」
ミーナの突っ込みで、二人で小さく笑った。
笑い終わったあと、私はポケットの中の脅し文を思い出す。
“困る者がいる”。
今日、困る者は一人、表に出た。けれど、これで終わりではない。むしろ始まりだ。
窓の外の王都の空は高い。
噂も高く飛ぶ。
――そして、今夜の噂はきっとこう変わる。
「真実の紅茶の店に、監査官が来た」
「いや、もっと偉い人だったらしい」
怖い。
でも、怖いだけじゃない。
私は袖をまくり直した。
「ミーナ。掃除、続きやろう」
「はい! 今日のうちに、ここを店っぽくします!」
ミーナは雑巾を握り直し、床へ向かう。
私もカウンターに戻り、木をもう一度拭いた。
風が鳴る。
風は噂も運ぶ。
でも、風は香りも運ぶ。
――紅茶の香りが、ちゃんと届くように。
私は、次の一拭きを始めた。
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