第4話 第一の依頼:浮気疑惑の真相は“勘違い”
扉の前の紙切れは、握りしめても温度を持たない。
『その店を開くな。
紅茶で“真実”を出すと、困る者がいる』
文字は乱暴で、インクは薄い。
薄いのに刺さるのは、書いた人間が“脅し”に慣れているからだ。
「……嫌な紙ですね」
ミーナが眉を寄せた。いつもの勢いが少しだけ落ちている。
「うん。でも、紙は紙だよ」
私は折り畳んでポケットにしまった。
見えるところに置くと、心が引っ張られる。引っ張られたら、手順が乱れる。
「開くって言ったんだから、開く」
言い切ると、ミーナの目が戻る。
「そうです。開きましょう。――まず掃除!」
勢いよく拳を作って前へ出る。
その“前へ”が、今の私にはありがたい。前へ出る人がいると、怖さが少し減る。
扉の鍵はまだない。けれど中のことならできる。
私は袖をまくり、深呼吸した。
空っぽの店は、思ったより広い。
埃の匂い、古い木の匂い。かすかに残る甘い匂い――昔は焼き菓子でも扱っていたのかもしれない。
「うわぁ……これは、やりがいありますね」
ミーナが窓を開ける。
風が入り、埃が光の中で踊った。
私はカウンターに手を置いた。
天板は傷だらけ。でも、しっかりしている。
ここで紅茶を注ぐ日が来る――そう思うと胸の奥が熱くなる。
「お嬢様、雑巾あります?」
「ある。バケツも」
「よし。私は床。お嬢様はカウンターと棚、お願いします!」
役割が決まると身体が動く。
雑巾を絞り、木を拭く。拭くと色が戻る。
戻ると、ここが“場所”から“店”に近づく。
ミーナが床にしゃがんだまま、ふと聞いた。
「……怖いですか」
私は手を止めずに答えた。
「怖いよ。脅しが来たってことは、誰かの邪魔になるってことだし」
「それ、正しいってことですよね」
「……たぶんね」
たぶん、と言ったのは、足元がまだ固まりきっていないからだ。
でも、固まっていなくても進める。進みながら固めればいい。
ミーナが雑巾を絞って、突然元気よく宣言した。
「じゃあ、私が“怖くない係”やります!」
「どういう係」
「怖いって言う前に、口が勝手に『大丈夫!』って言っちゃう係です」
私は思わず笑ってしまった。
笑うと、胸の硬いものが少しほどける。
そのとき、外から控えめな足音が近づいた。
店の前で止まり、ノックが一回。
ミーナと目が合う。
まだ看板もない。開店前。
それでも――扉の向こうに“誰か”がいる。
「……出ます」
私は手を拭いて扉を少しだけ開けた。
そこにいたのは、上品な服を着た女性。
貴族ほどではないが布地が良い。髪も整っている。
けれど目の下に薄い影があり、指先が落ち着かない。
「あの……」
女性は小さく頭を下げた。
「こちらに、“真実の紅茶”を淹れる方がいらっしゃると伺って……」
胸がきゅっとなる。
噂はもう、ここまで届いている。
私は扉を大きく開けず、丁寧に言った。
「私は紅茶を淹れます。でも、見世物ではありません」
「分かっています……! お願いです。どうしても、確かめたいことがあるんです」
目が真剣だった。
好奇心の目じゃない。生活が崩れそうな人の目だ。
私は短く頷いた。
「中へどうぞ。椅子は……仮のものですが」
「ありがとうございます……!」
女性はほっとした顔で、店内に入った。
掃除途中で床は半分濡れている。
けれど窓から入る光が明るく、空気は悪くない。
私は一番乾いている窓際に木箱を置き、テーブル代わりにした。
倉庫から持ってきた古い椅子を二つ。
「お名前を伺っても?」
「……エマと申します。商会に勤めております」
働く人。生活がある人。
だからこそ、答えが欲しいのだろう。遅すぎる前に。
「エマさん。確かめたいことは何ですか」
エマは唇を噛んだ。
言いにくい。でも言わないと始まらない。
「……婚約者がいるんです。優しくて、真面目で……」
そこまで言って、声が小さくなる。
「最近、帰りが遅いんです。服に、香りが移っていることもあって……」
私は頷きながら聞いた。
香り。遅い帰宅。
疑う材料としては、確かに揃っている。
でも、材料が揃うほど、人は“答え”を勝手に作ってしまう。
「……浮気、だと思いますか」
私の問いに、エマの目が揺れた。
「思いたくないです。思いたくないのに、考えてしまって……」
両手をきつく握っている。爪が指に食い込む。
「でも、聞けないんです。聞いたら……終わりになりそうで」
終わり。
その言葉の重さが、彼女の本当の怖さを教えてくれる。
私は静かに言った。
「紅茶を飲むと、隠していた本音が口から出ることがあります」
エマは頷いた。
「それで……真実が分かるなら……」
「真実には、いろいろあります」
私は言葉をやわらかくする。
「相手の真実。自分の真実。……二人の間にある真実」
エマは息を整え、頷いた。
「……お願いします。飲みます」
私はカウンターへ向かった。
道具は最低限ある。やかん、茶葉、カップ。
茶葉はアッサム。
香りが強い。だから今日は尖らせない。
(ミルクと蜂蜜)
言葉を柔らかくするための工夫。
私は湯を沸かし、ポットを温め、茶葉を入れる。
お湯を注ぐと赤い香りが立ち上がり、店の埃の匂いを押しのけた。
カップに注ぎ、ミルクを少し。蜂蜜を一滴。
甘すぎない。香りは消さない。
「どうぞ。熱いので、ゆっくり」
エマは両手でカップを包むように持ち、一口。
――目が、少しだけ見開かれた。
「……おいしい」
最初にこぼれた本音は、場を温める本音だった。
彼女は二口、三口と飲む。
眉間の影が、少しずつ薄くなる。
私は焦らず待った。
本音は押すと固くなる。だから、待つ。
やがてエマがぽつりと言った。
「……私、怖いんです」
来た。
「彼が私を選んだ理由が、分からなくなるのが」
声は小さい。小さいほど本音だ。
「私は、特別きれいでもないし……家柄も大したことない。仕事だって器用じゃない」
自嘲するように笑う。
その笑いが痛い。
「彼が、もっといい人を見つけたって言われたら……私は、きっと何も言えない」
私は静かに返す。
「言えますよ」
「え?」
「今、言えてます」
エマの目が揺れて、涙が溜まる。
「エマさんが怖いのは、浮気かどうかだけじゃない。……捨てられるかもしれないっていう怖さです」
エマは唇を噛んで、ぽろりと言った。
「……私、彼のこと、信じたいです」
信じたい。
信じられない、じゃない。
その違いが、彼女を救う。
私は頷く。
「彼に、直接聞けない理由は何ですか」
エマはカップを見つめた。
「……怒られるのが嫌だから」
「怒られる?」
「前に言ったんです。『仕事ばかりで寂しい』って。そしたら彼、困った顔をして……『頑張ってるのに』って」
声が小さくなる。
「それ以来、言えなくなりました。……また困らせるのが嫌で」
私は湯気を見る。
湯気はまっすぐ上がる。
まっすぐなものほど、言葉に向いている。
「困らせたくないのは、優しさです」
私は言った。
「でも、言わない優しさは……相手には伝わりません」
エマが首をすくめる。
「分かってます。でも……怖い」
怖い、が中心に戻る。
だから私は提案を出す。
「ひとつだけ、やり方を変えませんか」
「……はい」
「彼をここに呼べますか」
エマの目が大きくなる。
「む、無理です……こんなところに」
「ここは店になります。仮でも、真面目な場所にします」
私は言い切り、続けた。
「確かめるなら、二人の言葉を同じ場所で揃えたほうがいい。すれ違いは、別々の場所で育つから」
エマは迷った。
迷いの間に、ミーナがそっと近づく。
「……私、呼んできますよ」
「えっ」
ミーナは胸を張った。
「こういうの、走るの得意です。住所とか、どこで働いてるか、分かります?」
エマは戸惑いながらも頷き、場所と名前を告げた。
ミーナは私を見る。
「追加の紅茶、お願いします!」
「お願い」
ミーナは扉を開け、風みたいに走っていった。
店内が静かになる。
エマは不安そうにカップを握りしめる。
「……私、余計なことしてるのかもしれません」
「余計じゃないです」
私は短く言う。
「守りたいのは疑いじゃなくて、関係です。守りたいなら、動くしかない」
エマは小さく息を吐いた。
「……あなたの言葉、紅茶みたいですね」
「熱いですか」
「いえ。……あったかい」
その言葉が、私の胸も温めた。
◇
しばらくして、扉が勢いよく開いた。
「連れてきました! えっと、驚かないでくださいね、驚くのは後で!」
ミーナの声が先に入ってくる。
次に、背の高い男性が入ってきた。袖をまくり、少し汗をかいている。
「……エマ?」
男性はエマを見て驚いた。
「どうしたんだ。急に呼び出して……」
エマは立ち上がり、ぎこちなく頭を下げる。
「ごめんなさい。……話が、あって」
男性は私とミーナに目を向けた。
警戒というより、状況が飲み込めない顔だ。
「失礼。俺は――」
名乗ろうとしたところで、エマが小さな声で言った。
「この方が……紅茶を淹れてくれる方です」
男性の顔が固まる。
「……噂の」
噂は早い。
私は落ち着いて言う。
「あなたを責めるために呼んだわけではありません」
男性は言葉を選び直すように口を閉じ、やっと言った。
「……分かりました。まず、聞きます」
エマが震える声で言う。
「最近……帰りが遅いでしょう」
「仕事が――」
「服に、香りがついてることがある」
男性の目が一瞬だけ揺れた。
その揺れが、エマの不安を刺激する。声が震える。
「……私、怖くて。聞けなくて。でも、聞かないままも嫌で」
男性は息を吸い、ゆっくり吐いた。
「……そんな顔をさせたのは、俺のせいだ」
エマが顔を上げる。
男性は続けた。
「でも、浮気じゃない。誓って」
強い否定は、時に逆効果になる。
だから私は“茶席”を作る。
「二人とも、飲めますか。無理なら無理でいい」
私は二つのカップを用意した。
男性の分は少し薄め。言葉が荒くならないように。
ミーナがさっとテーブルを整え、椅子の位置まで揃える。
その手際が、空気を落ち着かせる。
男性は頷いた。
「……飲みます。エマがここまでしてるなら」
二人が同じタイミングで口をつける。
湯気が揺れて、香りが立つ。
空気が、少しだけ柔らかくなる。
男性がぽつりと言った。
「……俺、今、心臓が痛い」
エマが目を丸くする。
「え……?」
「変な意味じゃない。……怖い思いをさせたって思ったら、胸が痛い」
男性は自分の言葉に驚いたように瞬きをする。
でも止まらない。口が勝手に進む。
「俺、言い訳が嫌で黙ってた」
エマが震える声で訊く。
「……黙ってたのは、なぜ?」
男性は眉を寄せ、耳まで赤くなった。
「……驚かせたかったから」
エマが固まる。
「驚かせる……?」
「婚約指輪。作り直してた」
ミーナが「わっ」と小さく声を漏らした。
男性は続ける。もう止まらない。
「最初に渡したの、急いで買ったやつだった。気に入ってないわけじゃない。でも……エマの手に合うのを、ちゃんと作りたかった」
視線を落として言う。
「金具の職人のところに通ってた。服の香りは……工房の磨き粉と木の匂いだ。あと、職人さんが香油を使う」
エマの目に涙が溜まる。
その涙は痛い涙じゃない。ほどける涙だ。
「……そんなこと、言ってくれればよかったのに」
エマの声が震える。
男性が苦しそうに笑った。
「言ったら、驚かせられないだろ」
「驚かせる方向が間違ってる……!」
エマが泣き笑いで言う。
その声に、男性の肩の力が抜けた。
私はそっと口を挟む。
「驚かせたいなら、驚かせる前に……安心を先に渡してください」
男性が「うっ」と詰まった。
エマが「本当にそれ」と頷く。
エマが涙を拭きながら、言った。
「……私が一番怖かったのは、選ばれなくなることだった」
男性は目を見開き、短く言う。
「ならない」
短くて、強い。
「エマ。俺は……選んだ。今も選んでる」
エマの涙がこぼれる。
でも泣きながら笑った。
「……じゃあ、次から黙らないで」
「……努力する」
苦笑いが、二人の間の空気を柔らかくした。
男性は立ち上がり、深く頭を下げる。
「……すみませんでした。噂を聞いて、最初は半信半疑でした。でも……怖いですね。こんな力」
「怖いのは自然です」
私は答える。
「だから私は、相手を傷つけるために使いません」
エマが涙を拭きながら言った。
「……ありがとうございます。救われました」
その言葉が、店の中にしっかり残った。
私は小さく頷く。
「こちらこそ。……最初のお客様になってくれて、ありがとうございます」
エマが照れたように笑った。
「店、開いたら……今度は普通に飲みに来ます」
「待ってます」
扉が閉まる。
店内に静けさが戻った。
でも、空っぽの静けさじゃない。
ここに確かに“始まり”の温度が残っている。
ミーナが大きく息を吐いた。
「……鳥肌立ちました」
「怖かった?」
「怖かった! でも、楽しかった!」
ミーナが笑う。
「噂じゃなくて、ちゃんと……人が助かった」
私はカップを片づけながら頷いた。
「うん。……だから、続ける」
ポケットの中の紙切れを思い出す。
“困る者がいる”。
なら、今日の出来事も、どこかに届く。
そのとき、店の外で足音が止まった。
今度の足音は迷いがない。
ノックが二回。短く、はっきり。
扉を開けると、きちんとした服装の青年が立っていた。
姿勢が良い。言葉を選ぶ目をしている。
「失礼します。こちらに……紅茶を淹れる方がいらっしゃると伺いまして」
空気が変わる。
噂の客とは違う匂いがした。
青年は、名乗った。
「王都の監査に関わる者です。――お時間をいただけますか」
ミーナが息を呑む。
私は笑って背筋を伸ばした。
「……紅茶をお出しします。どうぞ」
店が、次の段階へ進もうとしていた。




