表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/23

第4話 第一の依頼:浮気疑惑の真相は“勘違い”

 扉の前の紙切れは、握りしめても温度を持たない。


『その店を開くな。

 紅茶で“真実”を出すと、困る者がいる』


 文字は乱暴で、インクは薄い。

 薄いのに刺さるのは、書いた人間が“脅し”に慣れているからだ。


「……嫌な紙ですね」


 ミーナが眉を寄せた。いつもの勢いが少しだけ落ちている。


「うん。でも、紙は紙だよ」


 私は折り畳んでポケットにしまった。

 見えるところに置くと、心が引っ張られる。引っ張られたら、手順が乱れる。


「開くって言ったんだから、開く」


 言い切ると、ミーナの目が戻る。


「そうです。開きましょう。――まず掃除!」


 勢いよく拳を作って前へ出る。

 その“前へ”が、今の私にはありがたい。前へ出る人がいると、怖さが少し減る。


 扉の鍵はまだない。けれど中のことならできる。

 私は袖をまくり、深呼吸した。


 空っぽの店は、思ったより広い。

 埃の匂い、古い木の匂い。かすかに残る甘い匂い――昔は焼き菓子でも扱っていたのかもしれない。


「うわぁ……これは、やりがいありますね」


 ミーナが窓を開ける。

 風が入り、埃が光の中で踊った。


 私はカウンターに手を置いた。

 天板は傷だらけ。でも、しっかりしている。

 ここで紅茶を注ぐ日が来る――そう思うと胸の奥が熱くなる。


「お嬢様、雑巾あります?」


「ある。バケツも」


「よし。私は床。お嬢様はカウンターと棚、お願いします!」


 役割が決まると身体が動く。

 雑巾を絞り、木を拭く。拭くと色が戻る。

 戻ると、ここが“場所”から“店”に近づく。


 ミーナが床にしゃがんだまま、ふと聞いた。


「……怖いですか」


 私は手を止めずに答えた。


「怖いよ。脅しが来たってことは、誰かの邪魔になるってことだし」


「それ、正しいってことですよね」


「……たぶんね」


 たぶん、と言ったのは、足元がまだ固まりきっていないからだ。

 でも、固まっていなくても進める。進みながら固めればいい。


 ミーナが雑巾を絞って、突然元気よく宣言した。


「じゃあ、私が“怖くない係”やります!」


「どういう係」


「怖いって言う前に、口が勝手に『大丈夫!』って言っちゃう係です」


 私は思わず笑ってしまった。

 笑うと、胸の硬いものが少しほどける。


 そのとき、外から控えめな足音が近づいた。

 店の前で止まり、ノックが一回。


 ミーナと目が合う。

 まだ看板もない。開店前。

 それでも――扉の向こうに“誰か”がいる。


「……出ます」


 私は手を拭いて扉を少しだけ開けた。


 そこにいたのは、上品な服を着た女性。

 貴族ほどではないが布地が良い。髪も整っている。

 けれど目の下に薄い影があり、指先が落ち着かない。


「あの……」


 女性は小さく頭を下げた。


「こちらに、“真実の紅茶”を淹れる方がいらっしゃると伺って……」


 胸がきゅっとなる。

 噂はもう、ここまで届いている。


 私は扉を大きく開けず、丁寧に言った。


「私は紅茶を淹れます。でも、見世物ではありません」


「分かっています……! お願いです。どうしても、確かめたいことがあるんです」


 目が真剣だった。

 好奇心の目じゃない。生活が崩れそうな人の目だ。


 私は短く頷いた。


「中へどうぞ。椅子は……仮のものですが」


「ありがとうございます……!」


 女性はほっとした顔で、店内に入った。


 掃除途中で床は半分濡れている。

 けれど窓から入る光が明るく、空気は悪くない。


 私は一番乾いている窓際に木箱を置き、テーブル代わりにした。

 倉庫から持ってきた古い椅子を二つ。


「お名前を伺っても?」


「……エマと申します。商会に勤めております」


 働く人。生活がある人。

 だからこそ、答えが欲しいのだろう。遅すぎる前に。


「エマさん。確かめたいことは何ですか」


 エマは唇を噛んだ。

 言いにくい。でも言わないと始まらない。


「……婚約者がいるんです。優しくて、真面目で……」


 そこまで言って、声が小さくなる。


「最近、帰りが遅いんです。服に、香りが移っていることもあって……」


 私は頷きながら聞いた。

 香り。遅い帰宅。

 疑う材料としては、確かに揃っている。


 でも、材料が揃うほど、人は“答え”を勝手に作ってしまう。


「……浮気、だと思いますか」


 私の問いに、エマの目が揺れた。


「思いたくないです。思いたくないのに、考えてしまって……」


 両手をきつく握っている。爪が指に食い込む。


「でも、聞けないんです。聞いたら……終わりになりそうで」


 終わり。

 その言葉の重さが、彼女の本当の怖さを教えてくれる。


 私は静かに言った。


「紅茶を飲むと、隠していた本音が口から出ることがあります」


 エマは頷いた。


「それで……真実が分かるなら……」


「真実には、いろいろあります」


 私は言葉をやわらかくする。


「相手の真実。自分の真実。……二人の間にある真実」


 エマは息を整え、頷いた。


「……お願いします。飲みます」


 私はカウンターへ向かった。

 道具は最低限ある。やかん、茶葉、カップ。


 茶葉はアッサム。

 香りが強い。だから今日は尖らせない。


(ミルクと蜂蜜)


 言葉を柔らかくするための工夫。

 私は湯を沸かし、ポットを温め、茶葉を入れる。

 お湯を注ぐと赤い香りが立ち上がり、店の埃の匂いを押しのけた。


 カップに注ぎ、ミルクを少し。蜂蜜を一滴。

 甘すぎない。香りは消さない。


「どうぞ。熱いので、ゆっくり」


 エマは両手でカップを包むように持ち、一口。


 ――目が、少しだけ見開かれた。


「……おいしい」


 最初にこぼれた本音は、場を温める本音だった。


 彼女は二口、三口と飲む。

 眉間の影が、少しずつ薄くなる。


 私は焦らず待った。

 本音は押すと固くなる。だから、待つ。


 やがてエマがぽつりと言った。


「……私、怖いんです」


 来た。


「彼が私を選んだ理由が、分からなくなるのが」


 声は小さい。小さいほど本音だ。


「私は、特別きれいでもないし……家柄も大したことない。仕事だって器用じゃない」


 自嘲するように笑う。

 その笑いが痛い。


「彼が、もっといい人を見つけたって言われたら……私は、きっと何も言えない」


 私は静かに返す。


「言えますよ」


「え?」


「今、言えてます」


 エマの目が揺れて、涙が溜まる。


「エマさんが怖いのは、浮気かどうかだけじゃない。……捨てられるかもしれないっていう怖さです」


 エマは唇を噛んで、ぽろりと言った。


「……私、彼のこと、信じたいです」


 信じたい。

 信じられない、じゃない。

 その違いが、彼女を救う。


 私は頷く。


「彼に、直接聞けない理由は何ですか」


 エマはカップを見つめた。


「……怒られるのが嫌だから」


「怒られる?」


「前に言ったんです。『仕事ばかりで寂しい』って。そしたら彼、困った顔をして……『頑張ってるのに』って」


 声が小さくなる。


「それ以来、言えなくなりました。……また困らせるのが嫌で」


 私は湯気を見る。

 湯気はまっすぐ上がる。

 まっすぐなものほど、言葉に向いている。


「困らせたくないのは、優しさです」


 私は言った。


「でも、言わない優しさは……相手には伝わりません」


 エマが首をすくめる。


「分かってます。でも……怖い」


 怖い、が中心に戻る。

 だから私は提案を出す。


「ひとつだけ、やり方を変えませんか」


「……はい」


「彼をここに呼べますか」


 エマの目が大きくなる。


「む、無理です……こんなところに」


「ここは店になります。仮でも、真面目な場所にします」


 私は言い切り、続けた。


「確かめるなら、二人の言葉を同じ場所で揃えたほうがいい。すれ違いは、別々の場所で育つから」


 エマは迷った。

 迷いの間に、ミーナがそっと近づく。


「……私、呼んできますよ」


「えっ」


 ミーナは胸を張った。


「こういうの、走るの得意です。住所とか、どこで働いてるか、分かります?」


 エマは戸惑いながらも頷き、場所と名前を告げた。


 ミーナは私を見る。


「追加の紅茶、お願いします!」


「お願い」


 ミーナは扉を開け、風みたいに走っていった。


 店内が静かになる。

 エマは不安そうにカップを握りしめる。


「……私、余計なことしてるのかもしれません」


「余計じゃないです」


 私は短く言う。


「守りたいのは疑いじゃなくて、関係です。守りたいなら、動くしかない」


 エマは小さく息を吐いた。


「……あなたの言葉、紅茶みたいですね」


「熱いですか」


「いえ。……あったかい」


 その言葉が、私の胸も温めた。


 ◇


 しばらくして、扉が勢いよく開いた。


「連れてきました! えっと、驚かないでくださいね、驚くのは後で!」


 ミーナの声が先に入ってくる。

 次に、背の高い男性が入ってきた。袖をまくり、少し汗をかいている。


「……エマ?」


 男性はエマを見て驚いた。


「どうしたんだ。急に呼び出して……」


 エマは立ち上がり、ぎこちなく頭を下げる。


「ごめんなさい。……話が、あって」


 男性は私とミーナに目を向けた。

 警戒というより、状況が飲み込めない顔だ。


「失礼。俺は――」


 名乗ろうとしたところで、エマが小さな声で言った。


「この方が……紅茶を淹れてくれる方です」


 男性の顔が固まる。


「……噂の」


 噂は早い。

 私は落ち着いて言う。


「あなたを責めるために呼んだわけではありません」


 男性は言葉を選び直すように口を閉じ、やっと言った。


「……分かりました。まず、聞きます」


 エマが震える声で言う。


「最近……帰りが遅いでしょう」


「仕事が――」


「服に、香りがついてることがある」


 男性の目が一瞬だけ揺れた。

 その揺れが、エマの不安を刺激する。声が震える。


「……私、怖くて。聞けなくて。でも、聞かないままも嫌で」


 男性は息を吸い、ゆっくり吐いた。


「……そんな顔をさせたのは、俺のせいだ」


 エマが顔を上げる。

 男性は続けた。


「でも、浮気じゃない。誓って」


 強い否定は、時に逆効果になる。

 だから私は“茶席”を作る。


「二人とも、飲めますか。無理なら無理でいい」


 私は二つのカップを用意した。

 男性の分は少し薄め。言葉が荒くならないように。


 ミーナがさっとテーブルを整え、椅子の位置まで揃える。

 その手際が、空気を落ち着かせる。


 男性は頷いた。


「……飲みます。エマがここまでしてるなら」


 二人が同じタイミングで口をつける。

 湯気が揺れて、香りが立つ。

 空気が、少しだけ柔らかくなる。


 男性がぽつりと言った。


「……俺、今、心臓が痛い」


 エマが目を丸くする。


「え……?」


「変な意味じゃない。……怖い思いをさせたって思ったら、胸が痛い」


 男性は自分の言葉に驚いたように瞬きをする。

 でも止まらない。口が勝手に進む。


「俺、言い訳が嫌で黙ってた」


 エマが震える声で訊く。


「……黙ってたのは、なぜ?」


 男性は眉を寄せ、耳まで赤くなった。


「……驚かせたかったから」


 エマが固まる。


「驚かせる……?」


「婚約指輪。作り直してた」


 ミーナが「わっ」と小さく声を漏らした。


 男性は続ける。もう止まらない。


「最初に渡したの、急いで買ったやつだった。気に入ってないわけじゃない。でも……エマの手に合うのを、ちゃんと作りたかった」


 視線を落として言う。


「金具の職人のところに通ってた。服の香りは……工房の磨き粉と木の匂いだ。あと、職人さんが香油を使う」


 エマの目に涙が溜まる。

 その涙は痛い涙じゃない。ほどける涙だ。


「……そんなこと、言ってくれればよかったのに」


 エマの声が震える。

 男性が苦しそうに笑った。


「言ったら、驚かせられないだろ」


「驚かせる方向が間違ってる……!」


 エマが泣き笑いで言う。

 その声に、男性の肩の力が抜けた。


 私はそっと口を挟む。


「驚かせたいなら、驚かせる前に……安心を先に渡してください」


 男性が「うっ」と詰まった。

 エマが「本当にそれ」と頷く。


 エマが涙を拭きながら、言った。


「……私が一番怖かったのは、選ばれなくなることだった」


 男性は目を見開き、短く言う。


「ならない」


 短くて、強い。


「エマ。俺は……選んだ。今も選んでる」


 エマの涙がこぼれる。

 でも泣きながら笑った。


「……じゃあ、次から黙らないで」


「……努力する」


 苦笑いが、二人の間の空気を柔らかくした。


 男性は立ち上がり、深く頭を下げる。


「……すみませんでした。噂を聞いて、最初は半信半疑でした。でも……怖いですね。こんな力」


「怖いのは自然です」


 私は答える。


「だから私は、相手を傷つけるために使いません」


 エマが涙を拭きながら言った。


「……ありがとうございます。救われました」


 その言葉が、店の中にしっかり残った。

 私は小さく頷く。


「こちらこそ。……最初のお客様になってくれて、ありがとうございます」


 エマが照れたように笑った。


「店、開いたら……今度は普通に飲みに来ます」


「待ってます」


 扉が閉まる。


 店内に静けさが戻った。

 でも、空っぽの静けさじゃない。

 ここに確かに“始まり”の温度が残っている。


 ミーナが大きく息を吐いた。


「……鳥肌立ちました」


「怖かった?」


「怖かった! でも、楽しかった!」


 ミーナが笑う。


「噂じゃなくて、ちゃんと……人が助かった」


 私はカップを片づけながら頷いた。


「うん。……だから、続ける」


 ポケットの中の紙切れを思い出す。

 “困る者がいる”。

 なら、今日の出来事も、どこかに届く。


 そのとき、店の外で足音が止まった。

 今度の足音は迷いがない。

 ノックが二回。短く、はっきり。


 扉を開けると、きちんとした服装の青年が立っていた。

 姿勢が良い。言葉を選ぶ目をしている。


「失礼します。こちらに……紅茶を淹れる方がいらっしゃると伺いまして」


 空気が変わる。

 噂の客とは違う匂いがした。


 青年は、名乗った。


「王都の監査に関わる者です。――お時間をいただけますか」


 ミーナが息を呑む。

 私は笑って背筋を伸ばした。


「……紅茶をお出しします。どうぞ」


 店が、次の段階へ進もうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ