第3話 店を持ちます! 家を追われた令嬢の小さな決意
王都の風は、甘い匂いと一緒に噂も運んでくる。
市場の角を曲がると、焼き菓子の香りが鼻をくすぐり、次の瞬間には耳元にひそひそ声が刺さる。
「“真実の紅茶”の令嬢だって」
「飲むと、勝手に本音が出るんでしょ?」
「怖い……でも、飲んでみたい」
怖いのに、飲みたい。
その並びが、いちばん厄介だ。
(好奇心って、刃になる)
拾い上げたら重くなる。重くなったら足が止まる。
止まった瞬間に噂が追いついてくる。
だから私は、拾わない。歩く。
目指すのは、通りの端にある空き店舗だった。
色褪せた看板。埃をかぶった窓ガラス。閉ざされた扉。
昨日から、あの扉が頭の奥に残っている。
(“見世物”じゃない場所が欲しい)
噂に消費されるのではなく、噂を“仕事”に変える場所。
紅茶を、正面から出す場所。
扉に手を伸ばそうとして――ふと、視線を感じた。
人混みの隙間。
若い女の子がこちらを見ていた。動きやすい服、働く人の目。
目が合った瞬間、その子はぱっと視線を逸らして角へ消えた。
(また……)
気になる。けれど、追いかけない。
今は目的をぶらしたくない。
私は扉に触れた。
当然、鍵は掛かっている。
扉の横に貼られた紙を読む。貸店舗。連絡先。条件。
「……まずは、話を聞かないと」
口に出して、息を整えた。
決めた。だから進む。怖くても、進む。
◇
昼前、屋敷へ戻ると、父は執務室で書類を読んでいた。
私が入ると、顔を上げる。
「買い物は?」
「はい。……それと、話があります」
背筋を伸ばす。
ここで迷えば、言葉が弱くなる。
「お父様。私、店を持ちたいです」
沈黙が落ちた。
父はゆっくりペンを置く。
「……店?」
「ティーサロンです。紅茶を出す店」
「噂を外に出す気か」
声は硬い。怒りではない。
むしろ――怖がっている。
「外に出したいわけではありません」
私は言葉を選ぶ。父に安心を渡す言葉を。
「屋敷の中にいる限り、噂はこもります。こもると歪みます。歪んだ噂は、私にとっても家にとっても毒になります」
父の眉がわずかに動く。
反論が来ると思って息を吸った。
けれど父は、すぐには言い返さなかった。
「資金はどうする」
それは“拒否”ではなく、“現実の話”だった。
私は胸の奥が少し熱くなるのを感じながら、落ち着いた声を作る。
「私の持ち物を売ります。宝飾品は、必要以上にあります」
「……」
「足りないなら、小さく始めます。席数も少なくていい。机と椅子も中古で」
父は机の上の紙を見つめたまま黙った。
やがて短く言う。
「……屋敷の名を使うな」
「はい」
「危険を感じたら、すぐ引け」
「はい」
それから、少し間があって。
「契約は勝手にするな。必ず私に書類を見せろ」
私は思わず目を見開いた。
「……保証人は私だ」
その言葉が、胸に落ちた。
父は不器用だ。でも、守ると決めたときの言葉は短い。
「ありがとうございます」
「礼は要らん。条件だ」
父はそれ以上言わず、書類に目を戻した。
私は深く礼をして執務室を出る。
廊下に出た瞬間、肩から力が抜けた。
(……行ける)
怖いけど、行ける。
◇
午後、護衛を一人付けて、私は空き店舗へ向かった。
道中も噂は飛び交う。
「真実の紅茶だってさ」
「飲んだら全部喋っちゃうんだろ?」
「こわっ。でも、ちょっと……」
好奇心は刃になる。
だからこそ、店の形にしなければいけない。
空き店舗の前には、小柄な男が立っていた。丸い帽子に帳簿。
こちらに気づくと、目を細める。
「この店に用かい、お嬢さん」
「はい。貸店舗の件で」
「へえ……鍵は私じゃない。地主は忙しいよ」
追い払うための言い方。
私は一歩引かず、丁寧に言う。
「条件を伺えますか。家賃と保証金、用途制限など」
「食い物屋は面倒だぞ。匂いだの水だの――」
男は帳簿をめくり、数字を指でなぞった。
慣れている。けれど、こちらを“お嬢様”扱いして舐めている。
「家賃はこの通り。保証金は三か月分。改装は勝手にするな」
「内装の掃除と、机椅子の搬入は可能ですか」
「その程度なら……まあ」
男はちらりと私を見て、口元を歪める。
「でも、噂で客を集めるような真似は――」
「嘘つき」
横から、軽い声が飛んだ。
私は反射的に視線を向ける。
通りの角から、さっきの少女が出てきていた。今度は逃げない。まっすぐ歩いてくる。
「その人、地主さんに会わせないつもりですよ。今、別の借り手と話してます」
「……は?」
男が言葉を詰まらせる。
少女は私を見る。
「ミーナです。……あ、えっと、その……」
頭を下げて、すぐ男へ向き直る。
「おじさん、またやってる。間に入って手数料取るの、規約違反でしょ」
「うるさい! お前は関係ないだろ!」
「関係ある。私はこの辺の店で働いてたし、地主さんの甥っ子とも顔見知り」
ミーナはにこっと笑った。
笑ってるのに目は笑っていない。
「それに、私はこのお嬢様に店を持ってほしいんです」
「……え?」
私は声が出る。ミーナは慌てて両手を振った。
「ち、違う! 変な意味じゃなくて! 紅茶の匂いが……好きで」
さっきまでの強さと、急に出た人間らしさの落差。
私は思わず息を漏らした。
「あなた、私を見てましたよね」
「……見てました」
「どうして」
ミーナは視線を泳がせ、観念したみたいに言う。
「噂を聞いたんです。“真実を話させる紅茶”の令嬢がいるって。最初は怖いと思った。でも……」
彼女は、まっすぐ続けた。
「怖いのに飲んでみたいって言う人、多いですよね。あれ、ただの好奇心じゃない。……みんな、何かを言いたいんだと思う」
胸の奥が熱くなる。
薄い言葉じゃない。考えて、出した言葉だ。
男が苛立った声を出す。
「話は終わりだ! 借り手はもう――」
「嘘」
ミーナが即答し、私に向き直る。
「中、見せてもらえます。地主さんに直接言えば、今なら間に合う」
私は一瞬迷う。
でも、目の前の男の態度と、ミーナの具体性は、天秤にかけるまでもなかった。
(この子は、嘘が下手だ)
「お願いします」
ミーナの顔がぱっと明るくなる。
「行きましょう。地主さん、近くの事務所にいるはず」
男は追いかけようとして――ミーナが振り返り、小さく言った。
「規約違反、言いますよ」
男は口を閉じた。
悔しそうな顔のまま、動けない。
◇
裏路地の小さな事務所は、紙とインクの匂いがした。
カウンターの奥の青年がミーナを見る。
「あ、ミーナ? 久しぶりだね」
「地主さん、います?」
「奥――」
「お願いします。急ぎです」
勢いに押される形で、私は奥の部屋に通された。
年配の男性が机に座っていた。鋭い目。商売人の目だ。
「……ベルフォード家の令嬢が、何の用だ」
私は礼をし、丁寧に言う。
「空き店舗をお借りしたいと思い、条件を伺いに参りました」
地主は私を上から下まで見て、鼻を鳴らした。
「噂の令嬢か。面倒を持ち込むな。あの店は静かに貸したい」
胸がきゅっとなる。
でも引かない。ここで引けば、私の決意は紙みたいに薄くなる。
「面倒を増やすためではありません。面倒を“形”にして、責任を持つためです」
「形?」
「紅茶の店にします。客を選びます。無理に飲ませません。噂に流される客は断ります」
私は息を整えて、続ける。
「それでも噂は来ます。なら、門の中で隠すより、看板の下で受け止めます」
地主の目がわずかに細くなる。
興味が生まれた目だ。
「……口は回るな」
ミーナが横で小さく手を挙げた。
「私、そこで働きます」
「雇う?」
「はい。給仕できます。掃除もできます。帳簿は……覚えます」
地主はしばらく黙ってから、机を指で叩いた。
「保証金三か月分。家賃は据え置き。改装不可。業態と店名は契約に明記。揉め事は借り手の責任。……それでいいなら貸す」
厳しい。
でも、最初から分かっていた。これは夢の話じゃない。商売の話だ。
「承知しました。書類を確認し、保証人の署名をいただきます」
「保証人は?」
「父です」
地主は目を細める。
「ベルフォードが保証するなら……まあ、最悪は回収できる」
私はそこを否定しなかった。
意地は商売の敵だ。
ただ、心の中で決める。
(必ず、自分で払う)
地主が続けた。
「ひとつだけ」
「はい」
「噂の力で客を集めるな。溢れたら治安が悪くなる。近隣が困る。……止められるのか」
私は迷わず答えた。
「止めます。店の形で、止めます」
地主は鼻で笑った。
「口だけじゃないといいがな」
そのとき、ミーナが私を見る。目がきらきらしている。
「……淹れてみます?」
私は一瞬だけ迷ってから頷いた。
「よろしければ、一杯だけ。噂のためではなく、味を確かめていただくために」
事務所の簡単な設備で湯を沸かす。
手順は短く、香りは立てる。濃くしすぎない。尖りを出さない。
湯気が上がり、赤い香りが紙とインクの匂いをやわらげた。
私はカップを差し出す。
「どうぞ」
地主は疑う目のまま、一口飲んだ。
次の瞬間――顔がわずかに歪む。
私は身構える。拒否が来ると思った。
けれど、出た言葉は意外だった。
「……懐かしい味だ」
地主は自分で驚いたように口を閉じる。
でも止まらない。
「昔、妻が……こういうのを淹れていた。あの店を貸すのが嫌なのは、悪く使われるのが……嫌だからだ」
空気が止まった。
ミーナが目を丸くしている。
私も一瞬、言葉を失った。
(本音が……出た)
私は“裁く”方向に話を向けない。
本音は刃にもなる。だから扱い方が大事だ。
「……大切な場所だったのですね」
地主は咳払いし、乱暴に言う。
「勘違いするな。情けで貸すんじゃない。金だ」
「はい」
私は頷いた。
その強がりごと受け取る。
地主は紙束を机に置く。
「仮契約だ。署名が揃ったら正式にする。鍵はそのとき渡す」
「ありがとうございます」
「礼は要らん。揉め事を起こすな」
「起こしません。……守ります」
私は深く礼をした。
◇
事務所を出ると、ミーナが私の横に並ぶ。
「……雇ってくれます?」
言い方が急で、私は足を止めた。
「えっ」
「給仕できます。掃除もできます。帳簿は苦手だけど覚えます。あと――」
ミーナは息を吸って、一番言いたいことを言うみたいに続けた。
「お嬢様の紅茶、怖いって噂だけで終わるの、嫌なんです。あれ、きっと……人を助けるやつだ」
胸の奥が熱くなる。
私は、頷いた。
「……雇います。条件は、これから一緒に決めよう」
「やった!」
ミーナは両手をぎゅっと握る。喜び方が素直で、見ているだけで肩の力が抜ける。
帰り道、私たちは空き店舗の前で足を止めた。
扉はまだ閉まっている。けれど、さっきまでとは違って見える。
「ここ、どんな店にします?」
ミーナが聞く。
私は扉の向こうを想像する。
窓際の席。木のテーブル。花。湯気。
言葉がほどけても、傷にならない場所。
「落ち着ける店」
「いいですね。名前は?」
名前。
私は少し考えて、まだ答えを出さなかった。
「……ちゃんと決める」
「じゃあ私、看板描くの得意です。手伝います」
「頼もしい」
私は息を吐いて、空を見上げた。
王都の空は高い。噂も、同じくらい高く飛ぶ。
でも――飛ぶなら、飛ぶでいい。
私は地面に足を置く。
店という“形”で、受け止める。
「ミーナ。これから忙しくなるよ」
「望むところです!」
ミーナが胸を張る。
その勢いに、私は思わず笑った。
……その笑いが消えかけたとき。
扉の取っ手の下に、一枚の紙が挟まっているのに気づいた。
風で飛んできたものではない。きちんと、狙って挟まれている。
私は紙を抜き、広げる。
『その店を開くな。
紅茶で“真実”を出すと、困る者がいる』
背筋が冷えた。
ミーナが覗き込み、顔色を変える。
「……なにこれ」
私は紙を握りしめる。
怖い。
でも、怖いだけじゃない。
胸の奥で、怒りが小さく燃えた。
(“困る者”がいるなら――なおさら、開くべきだ)
私はミーナを見る。
「開くよ」
ミーナは不安そうに眉を寄せた。けれど、すぐに頷く。
「……うん。ちゃんとした店として、ね」
「逃げない」
ミーナが、いつもの明るさで言った。
「じゃあ最初の仕事です。――掃除から!」
その声に、私は息を吐いて頷いた。
扉の向こうはまだ空っぽだ。
でも、空っぽの場所は、何にでもなれる。
私は鍵のない扉に手を置き、心の中で言った。
(ここから始める)
真実を話させる紅茶が、誰かの刃にならないように。
誰かの救いになるように。
風が吹く。
紙の端が揺れる。
王都の噂は今日も走っている。
そして――誰かが、それを止めたがっている。




