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第22話 遅い正しさ――“照会”が間に合わない日常

 監査局の朝は、きれいな顔をしていなかった。


 建物の外は整っている。入口の石も磨かれている。

 でも扉をくぐった瞬間、空気が変わる。


 紙の匂い。

 人の汗。

 眠気をごまかす薄いお茶。


 受付の前には列ができていた。

 怒鳴り声はない。王都の人は、怒鳴るより、顔を固くする。

 顔が固いほど、困っている。


 窓口の奥では職員が走り回っている。

 机の上、棚、床の端。紙束がどこにでもある。

 照会の依頼が、山のように積み上がっていた。


 ノエルが私に小声で言った。


「これが日常だ」


「……毎日?」


「毎日。しかも増える」


 職員の一人が紙束を抱えたまま、椅子に座る暇もなく立ち歩いている。

 目の下に影がある。

 でも指先だけは速い。速くしないと、追いつかないからだ。


 私は邪魔にならない場所で一礼した。

 ミーナも背筋を伸ばして周りを見る。

 ラフィアは少し後ろで、全体を静かに観察している。

 セイランは壁際で腕を組み、低い声で言った。


「……これじゃ遅いのも当たり前だな」


 当たり前。

 当たり前だからこそ、怖い。

 当たり前の遅さが、偽物の居場所を作る。


 その時、列の中から一人の商人が前へ出てきた。

 服が少し乱れている。顔色が悪い。寝ていない顔だ。


「すみません……今日中に、どうにかなりませんか」


 怒鳴ってはいない。

 泣き声になる一歩手前の声だった。


 窓口の職員は疲れた顔のまま、でも丁寧に言う。


「順番に対応しております。まず内容を伺って、必要な書類を確認しますので――」


「順番じゃ困るんです」


 商人の声が震えた。


「今日、港から荷が入るんです。食べ物です。干物じゃない。冷やしても限界がある。許可がないと倉庫に入れられない。入れられないと……腐ります」


 腐る。

 その一言に、周りの空気が重くなる。


 職員が書類に目を走らせる。

 走らせても、首は横に振られた。


「この許可は担当部署の確認が必要です。照会の返答は……最短でも明日の午後になります」


「明日……?」


 商人の肩が落ちた。

 落ちた肩の重さが、こちらまで伝わる。


「じゃあ、どうすれば……」


 商人は唇を噛んだ。

 そして周りを小さく見回す。


 ――穴を探す目だ。

 追い詰められた人が、危ない道を探す目。


 私は一歩だけ前に出た。

 声は大きくしない。

 焦りに焦りをぶつけない。


「失礼します」


 私は商人に向き直った。


「港の荷で、お困りなんですね」


 商人は私を見る。

 服装で、上流側の人間だと分かるのだろう。

 一瞬だけ身を引きかけて、それでも引けなかった。


「困ってます。困ってるどころじゃない」


「急ぎの許可が必要。でも照会が間に合わない」


 私が言葉を整えて言うと、商人は荒い息のまま頷いた。


「そうです。こっちは待ってくれないんです」


 待ってくれない。

 現場は待てない。

 その言葉は、胸の芯に刺さる。


 商人が声を落とした。


「……それで。こういう時に“今日中に通る書類”があるって、聞いたんです」


 言い切らない。

 言い切れないからこそ、本気だ。


 私は責める顔をしないように気をつけた。

 責めたら、口を閉ざす。

 口を閉ざしたら、偽物が勝つ。


「あなたが悪いわけじゃありません」


 私は言った。


「焦ると、隙ができます。その隙に、偽物が入り込みます」


 商人の目が揺れる。


「でも……荷が……」


「分かります」


 私は短く頷く。


「焦りを責めたいんじゃないんです。焦るのは、ちゃんと仕事をしている証拠です」


 商人の喉が鳴った。

 息が、少し整った。


 そこへノエルが窓口の奥から出てきた。

 眉間に皺。疲れは見える。でも目はぶれない。


「状況は分かった。ただ――」


 ノエルは言葉を切る。


「規定の上で、ここで即答はできない」


 商人が苦笑いをする。笑うしかない顔だ。


「ですよね……」


 ノエルが続ける。


「誰かが勝手に許可を出すと、その後が壊れる。悪用される。だから確認が要る」


「確認が要るのは分かります。でも……明日じゃ……」


 商人の声がまた小さくなる。


 私はノエルを見る。責める目ではなく、確認の目で。


「今できることは?」


 ノエルは小さく息を吐いた。


「担当へ連絡する。優先度を上げられるか相談する。だが……今日中は約束できない」


 約束できない。

 正しい。でも遅い。

 遅い正しさは、現場にとっては負けに近い。


 そこへラフィアが、柔らかく割って入った。


「差し支えなければ、荷の種類と取引先を教えてください。私の方から港の管理側へ話を通せるかもしれません」


 商人が驚いて、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。はい、ええと……」


 ラフィアは短く確認し、必要なところだけ押さえる。

 上流には上流の“動かせる場所”がある。

 それも現実だ。


 商人が去った後、ラフィアが小さく言った。


「上流も下流も、欲しがるのは同じです。“すぐ使える書類”。違うのは……困った時の逃げ道を持っているかどうか」


 逃げ道。

 それが利権になる。


 セイランが腕を組んだまま言った。


「印を偽装できない形にするってのはどうだ」


 ノエルが苦い顔をする。


「完全は無理だ。偽装する奴は、必ず追いつく」


「だろうな」


 セイランは悔しそうに舌打ちした。


「でも、偽装しにくくはできる。紙質を変える。封の形を変える。印の癖を増やす。……職人なら工夫はできる」


 工夫はできる。

 でも完全は無理。

 それも現実。


 私は別の方向を探した。

 偽装をゼロにできないなら、偽装が“売れない”形にする。


 偽物が売れる理由は何か。

 ――照会が遅いからだ。


 本物かどうか、すぐ分からない。

 分からない時間が長いから、偽が“それっぽく”生き残る。


 私はぽつりと言った。


「偽装できても……照会が早ければ、売れないです」


 ノエルがこちらを見る。

 ラフィアも、ミーナも、セイランも。


 私は続けた。難しい言葉は使わない。


「本物かどうか、すぐ確認できるなら、偽物は怖くない」


 セイランが眉を上げる。


「つまり……」


「照会を早くする仕組みを作る」


 私は頷く。


「王都に“すぐ確認できる場所”を増やす。番号でもいい。印の写しでもいい。『これが本物です』って、誰でも見られる形」


 ノエルが腕を組む。


「窓口だけじゃ無理だな」


「はい。ここだけに集まるから遅い。だから分散させる。掲示で見られる。番号で確かめられる。必要なら窓口が最終確認をする」


 ラフィアが静かに頷いた。


「上流も下流も欲しいのは“早い安心”です。なら、正しい側がそれを出せばいい」


 ミーナが目を輝かせた。


「それなら……偽の書類、買わなくて済みますよね」


「うん。買う理由がなくなる」


 ノエルが低い声で言った。


「……それは“上”が嫌がる」


 空気が少し冷える。


 上は、遅さを逃げ道にしている。

 遅いから間に合わない。

 間に合わないから便利が売れる。

 便利が売れるから利が出る。


 私はノエルの目を見た。


「嫌がるなら、効くってことですね」


 ノエルは小さく笑った。苦い笑い。でも前を向く笑い。


「そうだ。……ただし簡単じゃない」


「簡単じゃないのは分かってます」


 私は言った。


 最後に、言葉をはっきり置く。


「便利を奪うのは難しい。だから“もっと便利な正しさ”を作る」

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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