第21話 上の紋章――“一番上”は処罰より厄介
拍手は、上品に終わった。
大きな音は出ない。立ち上がる人もいない。
それでも「今日は守れた」と、みんなが分かっている拍手だった。
ラフィアは天幕の中央で、一礼した。微笑みは崩さない。
「本日はお越しいただき、ありがとうございました。香りを楽しむ時間を、皆さまと過ごせたことを嬉しく思います」
言葉は柔らかい。
でも、ただの挨拶じゃない。
ここで“余計な話”を増やさないための言葉だ。
「本日のことは……」
ラフィアは、ほんの少し間を置いた。
「誰かの失敗話としてではなく、『席を守った日』として覚えていただければ幸いです」
上手い。
“何かあった”を面白がらせない。
“守れた”に置き換える。
参加者は頷き、微笑んで、ゆっくり帰っていく。
帰り際に交わされるのは「香りが良かったですね」の一言だけ。
噂の種は、この場で芽を出せない。
私は息を吐いた。肩の力が少し抜ける。
ミーナが隣で小声で言った。
「……よかったです。喧嘩にならなくて」
「うん。喧嘩にしたら、相手の思うつぼだから」
ミーナは真面目に頷く。
この子はもう、“場を守る強さ”を知っている。
天幕の外へ出ると、風が少し冷たかった。
冷たさが、頭をすっきりさせる。
その風の中を、紹介人が歩いていた。
背筋は伸びたまま。笑顔も崩れていない。
まるで「今日はいい席でした」と言って帰る客みたいに。
ノエルが少し離れた位置で付き添い、監査局の職員も二人、歩調を合わせている。
囲んでいるようで、囲んでいない。
連行じゃない。事情聴取だ。
席を壊さないための形。
紹介人が、ふと立ち止まった。
そして、私にだけ聞こえる声で囁く。
「本当の依頼主は、もっと上です」
悔しさの声じゃない。
軽い。
自分ひとりで背負う気がない軽さ。
そのまま彼は袖の内側に指を滑らせた。
見せる気があるのか、ないのか分からない動き。
ちらり、と見えた。
さっきの札の紋章とは違う。
もっと古い。もっと重い。
家の歴史が、そのまま形になったみたいな紋章。
私はその形を、目に焼き付けた。
紹介人は深く礼をして、また歩き出す。
背中がやけに軽い。
――上だ。
それも、ただの上じゃない。
触れたら、面倒が起きる上。
ノエルが私の隣に戻ってきた。
顔は落ち着いている。けれど目だけが硬い。
「見たな」
「うん。普通の札じゃない」
ノエルは短く頷く。
「上は迂闊に触れない。政治になる」
政治。
その一言で、空気が変わった。
悪い人を捕まえるだけなら分かりやすい。
でも政治が絡むと、相手が悪いから、で終わらない。
動かした結果、別の誰かが困る。
困った誰かが、別の場所でこちらを止める。
そういう面倒が、山ほど出てくる。
ノエルは続ける。
「上の家に踏み込むと、監査局だけじゃ動けなくなる。許可が要る。会議が要る。時間がかかる」
時間。
王都では、その時間が一番の敵になる。
私は自分の中の怒りを確かめた。
熱くなっていないか。熱くなったら、冷やす。
怒りはある。
当たり前だ。
人の名前を使って、便利を売って、金を回していた。
それを上が見て見ぬふりしているなら、腹が立つ。
でも、怒りで殴ったら負ける。
殴り返される相手は、殴られても痛がらない。
それどころか「乱暴だ」と言って、こちらを悪者にする。
私はゆっくり息を吸って吐いた。
「誰かを吊るすより、蛇口を閉めたい」
言葉にすると、方針が固まる。
固まった方針は、揺れにくい。
ノエルが少しだけ目を細めた。
「……それが一番効く」
セイランが天幕の柱にもたれ、腕を組んだまま言った。
「でも、俺は腹が立ってるぞ」
「うん。分かる」
私はセイランを見る。
「怒っていい。でも、証拠は崩さない」
セイランは鼻で笑う。
「分かってる。殴ったら負けだろ。……こういう席、胃が痛い理由がそれだ」
ミーナが小さく笑った。
笑いが小さいと、場が少しだけ軽くなる。
ラフィアがこちらへ歩いてきた。
参加者を見送った後の顔は、少しだけ素に近い。
それでも姿勢は崩れない。
「皆さま、お疲れさまでした。席は守れました」
ラフィアはそう言ってから、私へ視線を向けた。
「そして……あの紋章、見えましたね」
「見えました。重い紋章でした」
ラフィアは小さく息を吐く。
「あれは、通達まわりの利権に強い家筋です」
利権。
噂の鎖の一番太い輪。
「通達の紙、印、掲示の場所……そういう“流れ”に口を出せる家です。決める側に近い」
ラフィアの声は淡々としている。
淡々としているからこそ、重い。
「だから、簡単には倒れません。倒そうとすると、こちらが先に疲れます」
私は紹介人の言葉を思い出す。
動ける紙。便利。安心。
敵は恐怖を売っていない。
便利を売っている。
だから止めにくい。
「狙いは……便利を守ることですね」
私が言うと、ノエルが頷く。
「便利の維持が、利になる」
ラフィアも続けた。
「混乱が少しある方が、紙が売れます。紙が売れるほど、誰かの取り分が増えます」
取り分。
それが上の人たちの本音。
セイランが唇を噛む。
「便利って言葉が、こんなに汚く聞こえる日が来るとはな」
「便利は本来、悪くない」
私は言った。
「でも今の便利は、誰かを踏んでる」
ミーナが小さく頷く。
「だから……踏まれない便利にする、んですよね」
「うん」
私はミーナに微笑む。
「踏まれない便利。待たされない確認。誰も困らない仕組み」
口にすると、道が見える。
敵を倒す道じゃない。
敵が続けられない道だ。
ノエルが腕を組み、空を見上げた。
「上の家には逃げ道がある。公式の遅さだ」
その言葉が刺さった。
確認に時間がかかる。
だから隙ができる。
その隙に“それっぽい紙”が入り込む。
私は言った。
「遅さを塞ぐ案を探しましょう」
ラフィアが頷く。
「ええ。上の家に刃を向けるより、まず蛇口を閉める」
セイランも頷いた。
「証拠を崩さずに、仕組みを作る。……それなら俺も手を貸す」
ミーナが嬉しそうに、でも上品に言った。
「お嬢様の紅茶、守れますね」
「守るよ」
私は言った。
「香りの時間も。名前も。人の暮らしも」
ノエルが静かに言う。
「公式の照会が遅い限り、偽物は死なない」
私は胸の奥で言葉をまとめ、はっきり言った。
「真実は勝つ。でも“遅い真実”は負ける」




