第2話 “令嬢の紅茶”という噂
朝の光は、やけに正直だった。
カーテンの隙間から差し込む白い光が、寝台の縁をなぞり、床の細かな埃まで浮かび上がらせる。
見たくないものほど、よく見える――そんな気分になる。
私は髪をまとめ、深く息を吐いた。
胸の奥の熱はまだ残っている。でも、息が止まるほどじゃない。
廊下の向こうから、囁き声がする。
「……本当なの? あの方の紅茶を飲むと、嘘が――」
「しっ。聞こえるわよ」
止める声があっても、噂は止まらない。
噂は、人の口で増える。
そして増えた分だけ、勝手に形を変える。
私は背筋を伸ばして部屋を出た。
階段を下りる途中、使用人たちの動きが一瞬だけ固くなる。
視線が集まって、すぐ外れる。
同情と好奇心と、少しの怯え。
(……分かってる。私のせいじゃない)
そう言い聞かせるほど、胸が痛むのも分かってる。
食堂には父がいた。
いつも通りの椅子、いつも通りの姿勢。
ただし、机の上には白い封筒が三通、きっちり並べられている。
「来たか」
「おはようございます」
父は返事の代わりに、封筒を指で軽く叩いた。
硬い音がした。
「朝からこれだ。夕方には倍になるだろう」
私は封筒を一通、手に取る。
赤い封蝋。貴族の印章。
封を切る前から、胸の奥が冷える。
紙を広げる。
『拝啓 ベルフォード家御令嬢リュシア様
貴女様の紅茶が“真実を語らせる”と伺いました。
我が家の者が隠し事をしており――』
次も似ている。
“確かめたい”
“一度、飲ませてほしい”
“口止め料は払う”
最後は、遠回しな脅しまで混じっていた。
私は手紙を机に戻す。
呼吸はできる。
でも、胃の奥が重い。
「昨夜の台所で、何が起きた?」
父の声は低く、短い。
私は椅子に座らず、父をまっすぐ見た。
「私の紅茶を飲むと……口が、軽くなるみたいです」
「軽くなる、で済むのか」
「分かりません。だから、確かめます」
父の眉がわずかに動く。
反対されると思った。
でも父は、深い息を吐いて言った。
「屋敷の中でな。外に出すな。危険だ」
「……はい」
その一言が、意外と温かく聞こえてしまって、私は目を逸らした。
自分が、少しだけ救われた顔をした気がして。
私は台所へ向かった。
扉を閉めると、噂のざわめきが少し遠のく。
台所には、手順がある。
手順がある場所は、心が崩れにくい。
棚の奥から茶葉缶を取り出す。
アッサム。
蓋を開けると、濃い香りが立ち上がった。
(香り。温度。時間。……何かが条件になっているはず)
私は実験をするみたいに道具を並べた。
カップを三つ。
ポットを二つ。
砂糖、ミルク、蜂蜜。
そしてノートとペン。
湯を沸かし、ポットを温め、茶葉を量る。
お湯を注いだ瞬間、赤い香りが広がって、胸の奥の痛みが少しだけほどけた。
――この香りは、嘘を暴く匂いじゃない。
たぶん、これは“言えなかった言葉”の匂いだ。
「お嬢様……」
背後の声に、私は肩を跳ねさせた。
振り返ると、若い使用人の女の子が立っていた。
いつも給仕をしてくれる子。目が少し赤い。
「どうしたの?」
「……噂が、ひどいです。皆が勝手なことを」
言いながら、彼女の視線は私の手元のカップに吸い寄せられていた。
好奇心。
でも、それ以上に、怖さ。
私は無理に笑わないまま言った。
「飲む?」
「えっ」
彼女は一歩下がって、止まった。
逃げない。けれど踏み込めない。
「私、何か言ってしまうんですよね」
「たぶん。だからこそ、ここで確かめたい」
私は薄めに淹れたカップを指さした。
「怖いならやめていい。薄いほうから。……選んで」
彼女は唇を噛んで、ゆっくり頷いた。
「……お願いします」
私はカップを差し出す。
彼女は両手で受け取り、恐る恐る一口飲んだ。
次の瞬間――目が少しだけ見開かれる。
「……私、昨日からずっと腹が立ってました」
言葉が、ぽろりと落ちた。
落ちたのに、彼女は止められない。
「だって、あんなふうに……皆の前で……! お嬢様が何をしたっていうんですか」
速い。
でも、乱暴じゃない。
悔しさが、そのまま言葉になっている。
「私、悔しくて。泣きたくて。でも、使用人が泣くわけにいかないから……」
彼女は口元を押さえた。
しまった、という顔。
だけど、目の奥は少しだけ軽い。
私はノートに短く書いた。
――薄い紅茶でも“感情”は出る。
――勢いは本人の溜め込み具合で変わる。
彼女は息を整え、もう一口飲んだ。
今度は声が落ち着く。
「……私、怖いです。お嬢様が、遠くに行っちゃいそうで」
それは刃じゃなかった。
温度のある本音だった。
私は胸の奥がきゅっとして、頷いた。
「遠くには行かないよ。……勝手に消えたりしない」
「……本当ですか」
「本当。私は今、どう生きるかを……決め直してる途中だから」
彼女は泣きそうな顔で笑い、頭を下げた。
そして静かに台所を出ていった。
扉が閉まる。
残るのは香りと、カップの赤と、私の鼓動。
(これは“嘘を吐けなくする”じゃない)
言えなかった言葉が、口からこぼれる。
本音が、滑り落ちる。
それが救いになることもある。
でも、刃にもなる。
私は次に、自分で濃い紅茶を口に含んだ。
香りが強い。熱が深い。
喉を通った瞬間、言葉が勝手に出た。
「……私は、腹が立ってる」
自分で言って、自分で驚く。
怒りを認めたくなかった。認めたら、負けた気がするから。
「私は……皆の前で切られたことが、許せない」
止まらない。
でも、嫌じゃない。
言えた瞬間、怒りが“形”になって、手の中で握れるようになった。
――握れたら、捨てられる。
私はミルク入りを飲む。
すると不思議と、言葉の角が丸くなる。
(香りが強いほど勢いが出る。ミルクは、尖りを鈍らせる)
私は書き足した。
――香りが強いほど、言葉は勢いを増す。
――ミルクは“言い方”を柔らかくする。
――甘味は“向かう先”を軽くするかもしれない。
そこまで書いたところで、玄関のほうが騒がしくなった。
速い足音。短い叫び声。
台所の扉がノックされる。
「お嬢様! お客様が……!」
使用人が息を切らしていた。
「名乗らずに押し通ってきて……紅茶を飲ませろって……!」
胸の奥が冷える。
来るのが早い。噂の獣は、餌の匂いに敏感だ。
私は手を拭き、背筋を伸ばした。
逃げるのは簡単だ。
でも、逃げた瞬間に噂が“事実”になる。
「通していいとは言っていないでしょう」
「止めたんです。でも……」
「私が行く」
食堂に戻ると、見知らぬ男が立っていた。
仕立ての良い服。けれど態度が荒い。
貴族ではない。商人か、下級官吏か。
男は私を見るなり、口角を上げた。
「おお。噂の令嬢だ。紅茶で人をしゃべらせるんだって?」
父が椅子から立つ。視線が冷たい。
「ここはベルフォード家だ。用件を名乗れ」
「名乗るほどのもんじゃない。試しに一杯だ。金なら払う」
男は硬貨袋を机に放り投げた。
金属音が、品のない勝利宣言みたいに響く。
私は袋を見ない。男を見る。
「“試し”はしません」
「は?」
「私は紅茶を淹れる人です。見世物ではありません」
男の眉が上がり、次に笑いが漏れた。
「強気だな。婚約破棄されたって聞いたが、今は“芸”で食う気か?」
胸が痛む。
でも痛みで口が止まるなら、私はこの場に立っていない。
「紅茶を飲みたいなら、条件があります」
「条件?」
「あなたが欲しいのは“真実”ですか。それとも“笑い話”ですか」
男は一瞬、言葉に詰まる。
詰まって、乱暴に笑う。
「真実に決まってるだろ。噂が本当か確かめるだけだ」
――嘘。
私は紅茶を淹れなくても分かった。
今の言葉は、薄い。
でも、ここで「嘘だ」と言っても、相手は引かない。
なら、主導権を取る。
「では、紅茶は出せません」
「何だと?」
男が一歩踏み出す。
父が前に出る。
「帰れ。娘は玩具じゃない」
父の声は硬い。
男は父を睨み、それから私を見た。
「怖いんだろ? 本当にしゃべらせる力があるなら、飲ませてみろよ」
挑発。
周囲の使用人が息を呑む。
私は机の上の硬貨袋を掴み、男へ返した。
「あなたは飲めないと思います」
「……は?」
「飲んだら、言いたくない本音が出る」
私はゆっくり、言葉を切った。
「あなたの本音は――“落ちぶれた令嬢を見て笑いたい”。それだけ」
空気が止まった。
男の顔が赤くなる。
怒りと羞恥が混ざった赤だ。
「……くだらねえ!」
男は袋をひったくり、踵を返した。
扉が乱暴に開き、閉まる。
残ったのは、硬い沈黙。
私は息を吐いた。
指先が震えている。
でも、負けてはいない。
「……大丈夫か」
父が低く言う。
「大丈夫です。……でも、また来ます」
「なぜそう思う」
「噂を食べる人は、否定されると腹を立てます。腹を立てると……意地になります」
父は眉を寄せる。
それが心配だと分かって、私は少しだけ笑いそうになった。
「外に出すなと言った」
「はい。でも……屋敷の中にいる限り、噂は消えません」
父は何も言わなかった。
私も、それ以上は言えなかった。
ただ、胸の中に一つの考えが芽を出す。
(屋敷は壁が厚い。壁が厚いほど、噂はこもる)
こもった噂は発酵する。
歪んで、甘ったるくなって、いつか毒になる。
なら――壁の外に、風の通る場所を作ればいい。
見世物じゃなく、“店”として。
紅茶を、正面から出せる場所。
午後、私は買い物の名目で外へ出た。
護衛も付けた。許可も取った。
表向きは気晴らし。けれど、探しているのは別のもの。
王都の通りは、人の声でできている。
パン屋の呼び声。馬車の音。笑い声。喧嘩の声。
噂も、その中に混じっている。
「聞いた? 紅茶で嘘を吐けなくする令嬢がいるんだって」
「怖いわね」
「でも、ちょっと飲んでみたい」
刺さる。
でも、屋敷の噂より呼吸がしやすい。
風がある分、軽い。
私は歩きながら、ある建物の前で足を止めた。
色褪せた木の看板。
埃をかぶった窓ガラス。
閉ざされた扉の向こうに、空っぽの空間が見える。
(……ここなら)
窓に映る自分の顔を見る。
令嬢の顔だ。
でも、その目の奥に、別の火が灯っている。
私は小さく呟いた。
「私、店を持てるかもしれない」
そのとき、通りの端で――こちらを見ている少女がいた。
給仕服ではない。でも、働く人の目をしている。
目が合った瞬間、彼女はぱっと視線を逸らし、早足で人混みに紛れた。
(今の子……)
不思議と、嫌な感じはしない。
ただ、胸の奥に“縁”みたいなものが残った。
私はもう一度、空き店舗の扉を見た。
噂に飲まれないために。
紅茶を“真実の道具”にするために。
私は歩き出す。
風が髪を揺らす。
指先には、まだ茶葉の香りが残っている気がした。
――王都は今日も騒がしい。
そして噂は、勝手に走る。
「真実の紅茶の令嬢が、ついに動き出した」と。




