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第18話 南区の帳場――香水の男は“道具”を使う

 王都の朝は、紙の匂いで始まる。


 湯気より先に、インクと糊と、乾ききらない紙の匂いが鼻を刺す。

 それが“普通”として漂っているのが、この町の怖さだ。


 宿の小さな卓で、ノエルは地図を広げた。指先が止まったのは、城壁から少し離れた南区――細い路地が絡み合う一帯。


「今日は顔を出さない」


 ノエルが言う。


「監査局の紋を見せたら、目の前で糸が切れる。消えるのは紙だけじゃない。人もだ」


 私は頷いた。

 捕まえる前に、逃げられては意味がない。


「目立たない形で、見る」


「そう。まず現場を知る。派手に動くのは最後だ」


 カイルが壁際から短く補足する。


「合図は二度。袖に触れたら退く。これで十分」


 簡単で、確実。

 危ない場所ほど、合図は短い方がいい。


 ミーナはいつもの侍女服より地味な装いに変え、背筋を伸ばして私の半歩後ろに立った。

 “店主の付き添い”の顔。歩き方まで練習した顔。


 セイランは襟を立て、ぼそりと呟く。


「俺は紙と印の癖を見る。余計なことはしねぇ」


 余計なことをしない人間は、町の裏で強い。


 最後に、リオ。

 少年は裏口から先に出る支度をしていた。荷の時間を見る役だ。


「危ないと思ったら引け」


 カイルが言う。


「追うな。姿は消せ。合図だけ残せ」


 リオは息を吸って吐き、頷いた。


「……はい」


 小さい声。けれど、逃げない声だった。


 *


 南区の通りは、王都の中心より“息が近い”。


 人と人の距離が近い。

 声と声の距離が近い。

 そして――紙と紙の距離が、近すぎる。


 壁の掲示板は紙で埋まり、紙の端が風でめくれる。めくれた端を誰かが押さえ、その指が次の紙に触れる。触れた紙は、いつの間にか別の手へ移る。


 紙は軽い。

 軽いから流れる。

 流れるから、値がつく。


 代書屋の窓口には列ができ、書き手が走り書きし、使い走りが紙を掴んで走る。

 走る背中が、この町の鼓動みたいだ。


 ミーナが小声で呟く。


「……紙が、こんなに……」


「紙が多いと、安心が売れる」


 私は周囲を見回しながら答えた。

 言った直後に、自分の言葉の冷たさに気づく。


 安心が“売れる”。

 つまり、安心が足りない町だ。


 ノエルが視線で示した先に、半分表で半分裏のような小さな帳場があった。

 屋台でも店でもない。机と棚だけがあって、人が出入りする。


 帳場。

 紙の受け渡しを、帳面で“正しく見える形”にしてしまう場所。


 私たちは止まらない。

 通り過ぎるふりのまま、耳だけを向ける。


「急ぎで欲しいなら、追加だよ」


 帳場の男の声。穏やかで、断れない匂いがある。


「追加?」


 若い商人らしい声が返す。


「通達を“早く手に入れる”には金が要る。そりゃそうだろ?」


 笑い声が軽い。軽すぎる。

 悪いことが日常になっている笑いだ。


「監査印があると“本物っぽい”からな」


 その一言で、私の背中が冷えた。


 本物っぽい。

 本物じゃなくても、売れる。


 ミーナの呼吸が少し乱れる。

 私は手袋の指先を整え、歩幅を崩さない。作法で怖さを覆う。


 ノエルが小さく言った。


「見た通りだ。偽装は噂と商売に直結している」


 *


 ――同じ頃。


 リオは別の通りの影にいた。

 影は涼しく、目立たない。目立たない場所には、目立たない荷が来る。


 見るのは二つだけ。

 箱が届く時間。

 誰が受け取るか。


 荷車が角を曲がってきた。小箱が三つ。運び手は息を荒げない。急いでいないのに、時間だけは正確そうだ。


 荷車が帳場の脇で止まり、箱が棚の下に滑り込む。

 受け取ったのは帳場の男ではない。帳場の奥から出てきた痩せた青年だった。


 青年は周囲を見ない。箱を受け取り、奥へ消える。

 視線を合わせない――慣れている。


 追いたい衝動が出る。

 でも追わない。引く。決めた通りに。


 リオは壁の角に、小さな印を残した。

 誰にも見えないけれど、仲間には見つけられる印。


 *


 二度目に帳場の前を通った時、匂いが変わった。


 甘い香水。花の香りが強い。

 強いのに、どこか冷たい。

 匂いは視線より先に、こちらへ侵入してくる。


 帳場の入口に男が立った。

 銀髪の男ではない。髪の色も背丈も違う。


 でも、香りが同じだ。


 同じ匂い。

 制服みたいな匂い。


 男は帳場の男へ、薄い封筒を渡した。

 封筒の端が、一瞬だけ覗く。


 欠けた縁の印影。


 私の目が勝手に吸い寄せられ、すぐ瞬きで切った。

 見続ければ気づかれる。瞬きは、自然な逃げ道だ。


 隣でセイランが、短く息を吐く。


「……違う」


「違う?」


 私が小声で返すと、セイランの声が低くなる。


「その欠け、俺の癖じゃねぇ。似せてる」


 似せてる。

 つまり、売れるから作っている。

 作っているのは、ここだけじゃない。


 香水の男が帳場へ短く命じた。


「今日の分だ。遅れるな」


 帳場の男がへらへら笑う。


「遅れませんって。お客さん増えてますから」


 香水の男の口元が僅かに歪む。


「客は道具だ。道具が増えりゃ、上が喜ぶ」


 上。

 その一言が、すべてを決めた。


 この男は上じゃない。

 上に雇われている。上の顔色を見ている。


 ――黒幕は、一段上。


 ノエルがこちらへ視線だけを寄せる。

 聞いたな、という確認。私は瞬きで答えた。


 *


 現場を見た。欠けも見た。匂いの“組織”も見えた。

 次は、末端を押さえる。けれど派手にやれば糸が切れる。


 ノエルが歩きながら言う。


「運び屋を一人、止める。合法の形で。騒ぎにはしない」


「できる?」


「監査局の権限は、こういう時に使う」


 角を曲がった先で、若い運び屋が小箱を抱えて立っていた。

 きょろきょろしている。慣れていない。慣れていないから、捕まえやすい――でも、守りやすい。


 ノエルが前へ出る。声は大きくない。けれど逃げ道がない。


「その箱の受け渡し、照会が必要だ。ここで止める」


「え? え? 俺、ただ――」


「ただ運ぶ。それが一番危ない」


 運び屋が後ずさる。

 その瞬間、カイルが横へ回り、逃げ道を“自然に”塞いだ。腕を掴まない。怒鳴らない。ただ、そこに立つ。


 運び屋はカイルの目を見て固まった。


「やめてくださいよ……俺、食っていかなきゃ……」


 震えは悪人の震えじゃない。追い詰められた人の震えだ。


 私は一歩だけ前へ出て、目線を合わせた。

 威圧しない。崩れない。落ち着いた高さで言う。


「責めたいわけじゃありません」


 運び屋が目を瞬く。


「ここで嘘の荷を運ばされると、あなたが一番損をします。捕まるのも、怪我をするのも、あなたです」


 短く区切る。届く言葉にする。


 運び屋が唇を噛む。


「……分かってるっす。でも……」


「食べるため」


 私が言うと、運び屋の肩が落ちた。


「……はい」


 その“はい”は、少しだけ救われた音だった。


「巻き込まれない道はあります」


 私は続ける。


「今日、ここで止まって。あなたの名前を守ります。守れれば、別の仕事に移れます」


 運び屋が顔を上げる。


「……守れるんすか」


「守れるようにします」


 私が言い切ると、ノエルが頷いた。


「事情を聞くだけだ。暴力は使わない。だが嘘はやめろ」


 運び屋は迷って、息を吐いた。


「……帳場の上に“紹介人”がいる」


 来た。

 末端の上。糸の結び目。


「紹介人は直接雇わない。『困ってる奴に仕事をやる』って顔で回す」


 顔で――上手い言い方だ。善意の顔をした手。


 ノエルが問う。


「出入り先は」


 運び屋が声を落とす。


「貴族の茶会にも出入りしてるって……」


 茶会。

 上品な席。噂の温床。


 運び屋は震える手で、小さな札を出した。名刺みたいな薄い札。小さく紋章が刻まれている。


「これが印だって……これを見せれば話が早いって」


 ノエルが札を受け取り、目を細める。

 セイランが横から覗き込み、舌打ちした。


「汚ぇやり方だ」


 小さな札一つで、人が動く。噂が動く。金が動く。

 でも、こちらも動ける。


 私は運び屋に向き直る。


「あなたの名前は守ります」


 運び屋の目が見開かれる。


「……ほんとに?」


「ほんとに。だから、今日はここで止まって」


 運び屋は、ゆっくり頷いた。

 不器用な頷きが、本音に見えた。


 ノエルが札を仕舞い、短く言う。


「よくやった。――これで上が見える」


 私は札の形を、頭に刻んだ。

 噂を売る人の“顔”が、ようやく見えた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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