第17話 王都行きの準備――“噂の蛇口”を締めに行く
店の扉を閉めた瞬間、冷たい空気が肺の奥まで入ってきた。
――静かだ。
静かなのに、頭の中は騒がしい。
別室で見た、小さな欠け。布の隙間から覗いた紙の端。
あれは噂みたいに形を変えない。言い換えにも、笑顔にも流されない。
だからこそ、重い。
「お嬢様、お茶を――」
ミーナがいつもの声で言いかけて、止まった。
“いつも通り”を出そうとして、今は違うと気づいた顔。
「水でいいよ」
「はいっ」
慌てて動く背中が、少しだけ店の空気を軽くする。
こういう小さな動きに救われる日がある。
カイルは入口が見える位置に立っていた。
店内にいるのに、外の気配も同時に拾っている姿勢。動かないのに頼もしい。
私は奥の机に、ラフィア邸から届いた包みを置いた。
封の紙は厚い。印は控えめで、それが逆に強い。
封を切るとき、紙は小さく鳴る。
その音だけで、話が“決まった”と分かる。
中身は一枚の書面と、短い添え状。
――王都にて聴取および照合が必要。
――茶会で見つかった封印物は保全したまま搬送。
――店主リリアおよび関係者の同席を求める。
――主催者ラフィアの名義にて監査局へ正式依頼。
私は指先で紙の端を押さえた。
重いのは紙ではない。これが引き起こす“動き”だ。
「……王都へ行くんですね」
ミーナが小さく言った。
怖がっている声ではない。覚悟を確かめる声だ。
「行く」
私が頷くと、ミーナは唇を結び、もう一度頷き返した。
そのとき、入口の鈴が一つ鳴った。
黒い外套の青年が入ってくる。
ノエルだ。目の下に薄い影がある。忙しさは隠せていないのに、歩き方が崩れていない。
「失礼する」
「来てくれてありがとう」
ノエルは答えず、机に紙を置いた。監査局の印がある。
「同じ欠けの封印が、複数出ている」
一言目で、店の空気がさらに静かになった。
「王都の外だけで三件。時期も近い。偶然じゃない」
「……量産」
私が言うと、ノエルは頷いた。
「型がある。手口がある。流す場所がある」
ノエルは地図の代わりに、机の上へ指を置く。
「ここで小さな火を消しても、王都で蛇口が開いたままだと水は止まらない」
蛇口。
言い方が妙にしっくり来た。噂の入口。噂の出口。ひねれば流れ出す。
「王都の“印紙と通達”の流通ルートを見ないと止められない。現場だけでは追いつかない」
断言。
怖いくらいの断言が、今は必要だった。
カイルが一歩だけ前に出る。
「移動は安全を最優先に。尾がつく可能性がある」
「分かっている」
ノエルは短く答え、視線だけでカイルと合図を交わした。言葉は少なくても、通じる二人。
私は息を吐き、紙を閉じた。
決まったなら、あとは準備に落とす。
「行くなら、役割を決めよう」
ミーナが背筋を伸ばす。
「はい!」
声が元気すぎて、少しだけ可笑しい。
その可笑しさが、胸の固さをわずかにほぐす。
ノエルが淡々と並べる。
「リリア。方針と対話の担当」
「ミーナ。場を整える係――言葉と作法で揉め事を防ぐ」
「カイル。護衛と、裏の動きの遮断」
ミーナが目を丸くする。
「わ、私、場を整える係……!」
「向いている」
私が言うと、ミーナは嬉しそうに頷いた。
役割があると、人は強くなる。
ノエルが続ける。
「それから、職人が要る」
その瞬間、店の奥から低い声が飛んだ。
「呼んだか?」
仕切りの向こうからセイランが出てきた。指先に削り粉が残ったままの手。仕事帰りの手だ。
「欠けは型の癖だ。偶然の傷じゃない。癖は作った場所に残る」
セイランは書面に目もくれず言う。
職人の言葉は短いのに、逃げ道がない。
「王都のどこで“同じ癖”が出たか、俺なら追える」
そして鼻で笑うように言った。
「俺の名を使った奴、王都で――」
ミーナが小さく肩を揺らしたのを見て、セイランは言い換えた。
「……二度と使えないようにする」
不器用な言い直しが、逆に信用できる。
「お願い」
私が言うと、セイランは即答した。
「任せろ」
ノエルが一つ息を吐き、机の端を軽く叩いた。
「これで揃う。……残りは一人だ」
視線が入口の陰へ向く。
そこに、少年が縮こまっていた。リオだ。
ずっと黙っているのに、耳だけがこちらを向いている。
「リオ」
私が呼ぶと、リオは小さく顔を上げた。目が揺れている。
「……はい」
私は椅子を一つ引き、座れる位置を作った。
座らせるのは、責めない合図だ。
「王都へ行く。あなたも来る?」
リオは唇を噛み、迷って――それでも頷いた。
「……償いたい」
その言葉を、軽く扱ってはいけない。
私はゆっくり首を振った。
「償いは大切。でも危険な役はさせない」
私ははっきり言う。
「あなたに頼みたいのは、目で見ること。耳で聞くこと。荷の時間を見ること。それだけ」
「荷の時間……?」
ノエルが補足する。
「運び屋が動く時間帯、受け渡しの癖、誰がどこから来るか。そういう“流れ”は、目がいい人間が向いている」
リオの目が少しだけ開く。
否定されると思っていた顔が、役割を受け取る顔に変わる。
ただし。
カイルが一歩前に出て、短く告げた。
「単独行動は禁止」
低い声が、逃げ道を塞ぐ。
「必ず誰かと一緒だ」
リオはごくりと息を飲み、頷いた。
「……はい」
私は全員を見回す。
「方針を確認する」
店の空気が揃う。
誰も喋らない。けれど、聞いている。
「人を恥にかけるためじゃない。止めるために動く」
私はゆっくり言った。
「誰か一人を怒鳴っても、次が出る。次が出ない形にしたい」
ノエルが静かに頷いた。
「同意する」
二文字が、肩を軽くする。
視線が一瞬だけ絡み、すぐに離れる。
温度だけが残る。邪魔にならない温度。
私はミーナへ向き直った。
「王都でも、茶会でやった言い方を使う」
「はい!」
「希望する人だけ、場を荒らさないために、順に確認する――そういう言い方」
ミーナが少し不安そうに眉を寄せる。
「王都の人って、聞いてくれますか……?」
「聞く」
私は答える。
「王都ほど、“言い方”を見ている。強い言葉で押すと、すぐ噂になる。だから丁寧な言い方が武器になる」
ミーナの目が輝いた。
「丁寧が武器……!」
夜の準備は短かった。
必要な茶葉。必要な帳面。必要な手紙。
そして、必要な人。
人が揃うと、怖さが分けられる。
分けられると、動ける。
明け方、監査局の馬車が店の前に止まった。
紋章は小さく刻まれている。小さいのに強い。
馬車が動き出すと、窓の外の景色がゆっくり流れた。
ミーナが緊張をほぐそうと小声で言う。
「王都って、猫も上品なんですかね?」
「猫はどこでも上品だよ」
「じゃあ王都の猫は……もっと上品?」
「たぶん、上品に人を見下す」
「それは嫌です!」
「でも猫なら許せる」
ミーナがぷっと吹き出す。
カイルの口元が、ほんの少し緩んだ気がした。
ノエルは窓の外を見たまま、淡々と付け足す。
「猫に見下されるのは、世の常だ」
「ノエル様まで……!」
小さな笑いが、馬車の中の空気をほどく。
息がしやすいと、心も動く。
私は窓の外を見つめた。
道端で立ち話をする影。
すれ違う馬車。
小さな札が揺れる。
噂は、こうして届く。
馬車より早く。鳥より早く。
人から人へ。口から耳へ。
小さな道をつないで、広い町へ入っていく。
王都の門が見えた瞬間、匂いが変わった。
紙の匂い。インクの匂い。汗の匂い。
そして――声の匂い。
人が多い。
紙が多い。
掲示板が多い。
声は小さいのに、どこか遠くまで届く。
小声が重なって、町全体がざわめいているみたいだ。
「……ここが王都」
ミーナが呟く。
「すごい……」
「すごいよ」
私は頷く。
「蛇口が多い。ちょっとひねれば、噂が流れる」
通りへ入った瞬間、視界が紙で埋まった。
壁に貼られた通達。
柱に巻かれた告知。
店先の紙札。
人の手に握られた小さな紙片。
紙は軽い。
軽いから広がる。
広がるから売れる。
ノエルが窓の外を指した。
「見ろ」
長い壁がある。壁一面に紙が貼られ、人が群れている。読む人、写す人、確かめる人。
隣には小さな窓口の店が並び、印紙や紙束が積まれていた。
紙の顔をした“安心”が売られている。
ノエルが低く言った。
「噂はここで作られて、ここで売られている」
私はその景色を見つめた。
紙の前で、人が息を呑む。
店先で、人が笑う。
その間を、紙が行き来する。
蛇口は確かに多い。
多いからこそ、締めなければ止まらない。
私は手袋の指先を整え、息を吸って吐いた。
――噂の蛇口を締めに行く。
そう決めた瞬間、王都のざわめきが少しだけ輪郭を持った。
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