第11話 偽装の色――“貴族と繋がっている”噂の正体
扉の外が、朝から騒がしい。
まだ開店札も出していないのに、人の声だけが先に店に入り込んでくる。
声が重なると、内容が潰れる。潰れると、想像が勝つ。想像が勝つと――噂が太る。
「監査局が動いたの、あの店主が貴族と繋がってるからだってさ」
「こわ……裏で何してるんだろ」
「だから今まで野放しだったんだろ?」
冷たい朝の空気の中で、その言葉だけが妙に温かい。
火がついた噂の温度。
私は扉の内側で、深呼吸をひとつした。
ポットの湯気を見て、胸の中の順番を戻す。
(噂は止められない。……でも、上書きはできる)
「お嬢様……」
ミーナが扉のほうを不安そうに見ている。
笑顔を作りたいのに、作れていない顔。
「開ける前に、確認することがある」
「確認?」
私は視線を床へ落とした。
扉の隙間から、紙が一枚、滑り込んでいる。
風で端が揺れて、床を擦る音がした。
拾い上げる。
紙は少し厚い。質がいい。
そして、右下の印が――目に刺さった。
赤ではない。
深い藍に近い色。
公的な書類にありそうな、落ち着いた色。
それが、余計に嫌だった。
『特別衛生検査実施通知』
『本日、立ち入り検査を行う。速やかに協力せよ』
『抵抗があった場合、営業停止を含む処置を検討する』
「……うわ」
ミーナが声を漏らす。
「お嬢様、これ……監査局の……?」
「違う。少なくとも、“この紙だけ”では本物だと判断できない」
私は紙の角をとん、と叩いた。
「発行者名がない。担当者名がない。連絡経路がない。日付も曖昧」
「でも、印が……」
「印があるからこそ疑う。――正しそうに見せたいってことだから」
ミーナが唇を噛んだ。悔しさと怖さが混ざった顔。
「……正しさの顔をした脅し」
「うん」
奥から、小さな咳払いが聞こえた。
「色、変えてきたな」
リオが盆の上の茶葉から顔を上げた。
その目が紙を見て、すっと細くなる。
「赤が効かなくなったからだ」
「刺し方を変えるのは、焦ってる証拠だね」
私は頷いた。
そのとき、外の声がまた膨らんだ。
「ほら、見ろよ! 検査だってさ!」
「やっぱり怪しい!」
「貴族の息がかかってるから今まで……!」
ミーナがエプロンを握り締めた。
怒りが、怖さを押し上げている。
「言い返していいですか」
「いいよ」
私は言った。
「ただし、刃じゃなくて――手順で」
ミーナは一瞬きょとんとして、すぐに頷いた。
「手順で……!」
扉の外で靴音が止まった。
丁寧なノックが三回。
カイルが隙間を確認して短く言う。
「監査の者だ」
扉を開けると、地味な服の青年が立っていた。
姿勢が良い。目が落ち着いている。
“威圧しない正しさ”の形をしていた。
「監査局のノエルと申します。店主殿にお時間を頂きたく」
外の視線が一斉に彼へ向く。
ざわめきが一段上がる。
「ほら、監査局じゃん!」
「やっぱり本物だ!」
「店主終わったな!」
ノエルは外の声に反応しない。
反応しないことで、空気を落ち着かせようとしている。
私は一歩前へ出て、扉の外へも届く声で言った。
「いらっしゃいませ。……ただいま開店準備中です」
噂が勝手に結論を作る前に、言葉を置く。
「監査局の方がお越しです。店内で、正規の手順でお話を伺います」
正規。手順。
噂が嫌がる言葉を、先に置く。
ノエルが小さく頷いた。
「中でお話を」
「どうぞ」
私は彼を中へ通し、すぐに布の仕切りを出した。
客席の手前と奥を分ける。話が見世物にならないように。
ミーナが湯を用意しながら、私に囁く。
「お嬢様、やっぱり優しそうです」
「優しそうは信用の理由にならないって」
「でも優しそうです!」
軽い。
でも、その軽さが救いでもある。
ノエルは席に着く前に、身分証を差し出した。
印、署名、連絡経路、番号。
“本物の正しさ”は、形が整っている。
「念のため、正式な証を」
「ありがとうございます」
私は通達風の紙を、触れない距離でテーブルに置いた。
「これが、扉の隙間から」
ノエルの目が印へ落ち、眉がわずかに動く。
「……この色は、監査局の正式印ではありません」
ミーナが息を吐いた。
「やっぱり!」
ノエルは続けた。
「ただ、外は『監査局が来た=紙も本物』と結びつけます。厄介ですね」
「噂の作り方が上手いです」
「ええ。相手はあなたを“説明させる側”にしたい。言い訳が増えるほど、怪しく見えるから」
ノエルは少し声を落とした。
「……監査局内でも、『店主と監査局が癒着している』という話が出ています」
ミーナが目を丸くする。
「監査局の中でも……?」
「噂は壁を越えます」
ノエルは淡々と言った。
「私が来たこと自体を、“繋がっている証拠”と言われかねません」
「それでも来てくれた」
私が言うと、ノエルは視線を外して答えた。
「来なければ、偽の通達が“本物”として流通します。監査局の信用が傷つく。それは――困ります」
また“困ります”。
真面目すぎて少しだけ笑いたくなる。
私は頷いた。
「この紙には従いません」
「当然です!」
ミーナが拳を握る。
ノエルはむしろ安心したように頷いた。
「理由を、外にどう示しますか」
「手順で示します」
私は立ち上がり、カウンター横の“店の約束”の紙を持ってきた。
『同意のない紅茶は出しません』
『人前での詰問は禁止です』
『茶葉の持ち込みは禁止です』
ここに、今日の一行を足す。
『公的通達は、発行者名・担当者名・連絡経路の確認後に対応します』
書き終えた瞬間、線が引けた気がした。
文字は小さい。でも、店の背骨になる。
「これを入口に貼ります」
「良い判断です。“拒否”じゃなく“確認してから対応”に見える。角が立ちにくい」
私は仕切りの外へ出て、扉を少し開けた。
視線が刺さる。噂が息をしている。
カイルが扉の横に立つ。
目立たないのに、近づきにくい壁。
「お待たせしました。本日、監査局の方が来ています」
ざわめきが増える前に、私は続ける。
「ですが、先ほど投げ込まれた通達は、発行者名と担当者名、連絡経路がありません。店としては、確認できない通達には対応できません」
誰かが叫ぶ。
「逃げてるだけだろ!」
すぐ別の声が重なる。
「偽物だって言いたいのか?」
私は反論しない。反論は燃料になる。
代わりに掲示板へ“約束”を貼った。
そして言う。
「私たちは、公的な通達を軽く扱いません。だから確認します」
群衆の中から、客を装った男が前へ出た。
服は地味。顔も普通。
でも声が大きく、目が忙しい。
「じゃあ今ここで確認しろよ! 監査局が来てるんだろ? 本物なら従う、偽物なら謝る。簡単だろ!」
“簡単”と言う時点で、こちらを動かしたい。
私は男へ穏やかに聞いた。
「あなたは、その通達を誰から受け取りましたか」
「知らねえよ! 投げ込まれてたんだろ!」
「そうですね。私も同じです」
私は頷いて、次を問う。
「では、発行者名を教えてください」
「書いてあるだろ!」
「書いてありません」
男の顔が引きつった。
「担当者名は?」
「……そんなの、いちいち――」
「いちいち必要です」
私は静かに言った。
「公的な手続きは、責任者の名前が最初に書かれます。書かれていないなら、それは命令じゃなく脅しです」
周りから小さく「確かに」と声が出た。
噂の温度が、また少し下がる。
男が声を荒げる。
「貴族と繋がってるから強気なんだろ!」
「繋がっていません」
私は即答した。
「ただ、監査局の方が“ここに”います。事実はそれだけです」
男は言葉に詰まり、方向を変える。
「じゃあ、なんで監査局が来た! 怪しいからだろ!」
そのとき、扉の内側からノエルが出てきた。
威圧しない距離で、けれどはっきりと。
「監査局のノエルです」
空気が一瞬だけ止まる。
「当局がここに来た理由は、偽の通達が出回っている可能性があるからです」
ノエルは言った。
「店主殿を守るためではありません。監査局の印と手続きが悪用されないためです」
その言い方が、逆に信頼を作る。
男が焦って叫ぶ。
「なら、その紙が偽物だって証明しろよ!」
「証明します」
ノエルは淡々と答えた。
「ただし路上ではなく、正規の手順で。店内で記録を残しながら」
正規。手順。記録。
噂が嫌がる言葉の三点セット。
男は舌打ちして、群衆に紛れるように引いた。
引いた瞬間、視線が掲示へ戻る。
私はその流れのまま言った。
「この店は、誰かを辱めるための場所ではありません」
「だから、確認してから動きます。不安な方は、無理に入らなくて大丈夫です」
商いとしては弱い。
でも信頼としては強い。
少し間があって、列の後ろの女性が言った。
「……私は飲みたい」
隣の男性が頷く。
「味が好きだ。噂は噂だろ」
列が整い直す。
噂が、少しだけ外へ押し出される。
私は扉を閉め、『開店』の札を出した。
店内へ戻ると、ミーナの目が輝いていた。
「お嬢様、今の、すごく良かったです!」
「どこが?」
「“いちいち必要です”のところ!」
「そこ?」
「そこです!」
ミーナが元気だと、店が元気になる。
ノエルへ向き直る。
「……助かりました」
「いえ。私のほうこそ」
ノエルは真面目な顔で言う。
「このままだと『監査局が来た=店が黒』という噂が残ります。逆です。本物の監査を入れれば、偽物は弱くなる」
私は頷いた。
「正式な監査、入れてください」
ミーナが「えっ」と声を漏らす。
「本当に……?」
「本当に」
私は言った。
「本物の正しさで、偽物の正しさを潰す」
ノエルが少しだけ表情を緩めた。
「手続きを組みます。……ただし条件があります」
「条件?」
「客の前で、晒しにならない運用を」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
彼も“人”を見ている。
「もちろんです。仕切りを作ります。説明もします。誰かを見世物にはしません」
「では、早ければ明日。正式な監査チームを」
ミーナが拳を握る。
「怖くない係、監査対応係もやります!」
「係の増殖を止めて」
私は笑って、ポットに湯を注いだ。
香りが立つ。香りが立つと、空気が整う。
窓際にはエマが座っていた。
静かな目で、こちらを見ている。
「今日は騒がしいね」
「騒がしいです。でも――香りが役に立ちます」
「うん。ここは、息がしやすい」
その一言で、肩の力が少し抜けた。
ノエルはカップを受け取り、一口。二口。
そして小さく息を吐いた。
「落ち着く味です」
「落ち着きますか」
「はい。こういう店が噂で潰れるのは……困ります」
また“困ります”。
真面目な言葉が、今日は頼もしい。
私はカウンターの下から紙とペンを出した。
今日の出来事を、記録にするために。
いつ、どんな紙が入ったか。
どんな色の印か。
どんな文言か。
外で誰がどう煽ったか。
噂はふわふわしている。
でも、こちらが積むものはふわふわさせない。紙に残す。手順にする。
ノエルが去り際に、少しだけ声を落とした。
「店主殿。ひとつだけ」
「はい」
「次の偽装は、印より先に――言葉で来ます」
言葉。噂の本体。
人の心を刺す刃。
「“貴族と繋がっている”の次は、別の繋がりを作ってくる。監査局、商会、政治……正しさの衣を着せて」
私は頷いた。
「来るなら、来い」
言い切ると、怖さが少し減った。
消えない怖さでも、順番を戻せば動ける。
扉が閉まる。外のざわめきはまだ残る。
でも店の中の空気は、今、私たちのものだ。
私はミーナに言った。
「今日の営業は、いつも通り」
「はい!」
「いつも通りに、約束を守る」
「はいっ!」
カイルが扉のそばで短く言う。
「噂はまだいる」
「いるね」
私は笑った。
「噂がいるなら、香りも立てる」
噂は止められない。
なら、上書きする。
正しさの顔をした脅しにも、上書きできるものがある。
手順と、記録と、そして――誰も傷にしない温度。
私はポットを持ち上げ、次の客のカップへ湯を注いだ。
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