第10話 欠けた縁の行き先――印章屋の路地で“正しさ”が剥がれる音
朝の湯気は、昨日より少し強く立った。
香りが強いと、空気が整う。
空気が整うと、心が暴れにくい。
私はポットを温めながら、机の上の封筒を見た。
監査局から届いた丁寧な紙――そして、丁寧な印。
『印の特徴:縁の模様が一部欠ける』
この一文が、胸の奥で鳴っている。
(欠けているなら、削れた場所がある。削った手がある)
“赤い印”はただの紙じゃない。
人を黙らせるための道具だ。
だから、作った手を掴む。
「お嬢様、今日の予定、決まりました?」
ミーナがエプロンの紐を結び直しながら訊いてくる。
怖がっているのに逃げない目。
「うん。印を作った場所を探す。監査局の人にも来てもらう」
「来ます? 監査局の人!」
「呼ぶ」
「よし。怖くない係、今日は“公的っぽい係”も兼任します!」
「兼任の方向性が雑」
ミーナはにっと笑って棚を整えた。
奥ではリオが盆の上に茶葉を広げ、真剣に選別している。指が慣れてきたのが分かる。
「……これ、違う」
「うん。香りの奥が薄い」
リオは黙って頷く。
“分かる”が積み重なると、人は変わる。
消えない過去はあっても、変えられる次がある。
外で靴音が止まった。
丁寧なノックが三回。
カイルが扉の隙間を確認して短く言う。
「監査の者だ」
扉を開けると、地味な服の青年が立っていた。
靴が良い。姿勢が良い。視線が落ち着いている。
“きちんとしているのに、威圧しない”空気。
「監査局のノエルと申します。店主殿にお時間を頂きたく」
「どうぞ。中へ」
私はカウンター横へ案内し、店の奥に布の仕切りを作った。
話が“噂”になる前に、場所を分ける。これは店の手順だ。
ミーナが湯を用意しながら、私に囁く。
「お嬢様、監査局の人、優しそうです」
「優しそうは信用の理由にならないよ」
「でも、優しそうです!」
軽い。
でも、その軽さが救いでもある。
私はノエルに向き直った。
「来てくださってありがとうございます。赤い印の特徴、もう少し詳しく知りたいです」
ノエルは頷き、懐から小さな木箱を出した。
中には紙片が数枚。どれも赤い印が押されている。
「押収品です。いずれも、縁の装飾に同じ欠けが見られます」
私は箱に触れず、目だけで縁を追った。
確かに欠けている。しかも同じ位置。
(同じ“原型”)
「印章を彫った職人がいるはずです」
「可能性は高いです。ただし」
ノエルは声を少し落とした。
「印章そのものを彫った人と、印影を複製した人は別の場合があります」
「複製……」
「蝋や粘土で型を取って、粗い印を量産する者もいます。正規の印章を盗むより危険が少ない」
ミーナが小声で呟く。
「ずるい……」
「ずるいほど厄介です」
私は息を吐き、焦点を変えた。
「印章屋の目星は?」
「いくつか。ですが、監査局が直接踏み込むと相手が警戒します」
ノエルが私を見る。
“店主の立場”を分かった目だ。
「店主殿の店にはすでに接触があったと聞きます。相手は、店を噂の中心にしたい」
「正しさの顔で殴ってきます」
私が言うと、ノエルはわずかに眉を動かした。
「その表現は……的確です」
ほんの少しだけ口角が上がる。
監査局の人が笑うと、空気が軽くなる。
私は提案した。
「私が表で動きます。相手は“噂の店主が動いた”と思う。そこに監査局の目があると気づかない」
仕切りの外から、カイルの低い声。
「危険だ」
「危険だね」
私は頷いた上で続ける。
「でも止まっているほうが危険です。印が増えれば増えるほど、黙らされる人が増える」
ノエルは少し考え、頷いた。
「同行を願います。安全を最優先に」
ミーナが胸を張る。
「安全なら任せてください! 怖くない係、今日は“ついていく係”です!」
「係、多すぎ」
私は外套を羽織り、髪をまとめる。
店の扉に“準備中”。リオは奥で選別。カイルが表に立つ。
こうして、私はノエルとミーナを連れ、印章屋の路地へ向かった。
⸻
印章屋の路地は、静かな音で満ちていた。
木を削る音。金属を叩く音。紙が擦れる音。
市場の賑やかさとは違う、集中の音。
看板には家紋、店印、署名用。
“正しさ”を形にする道具が、ここで作られている。
「……ここ、怖いです」
ミーナが小声で言った。
「正しいものが多いと、偽物が紛れやすい」
私が答えると、ノエルが頷いた。
「正規の印は正しい。だからこそ、偽装に使われると刺さる」
刺さる。
同じ言葉を使う人がいると、少しだけ心強い。
路地の奥。古い木の看板。
『彫房 セイラン』
控えめな文字。派手さはない。
でも、店内から漂う木の匂いが落ち着いている。
ノックをすると、年配の職人が現れた。
白髪を束ね、指先が木くずで白い。
「いらっしゃい。注文かい?」
声は穏やか。目は鋭い。腕のある人の目だ。
ノエルが監査局の証を示すと、職人の表情が一瞬硬くなり、ため息が落ちた。
「……また偽物か」
「ご存じですか」
「最近、印を見せて脅す連中がいる。正規の仕事が減る。店の名を使われる。腹が立つよ」
私は一歩だけ前に出て、丁寧に頭を下げた。
「私も、その印で脅されました。縁の模様が欠けた赤い印です」
職人の目が細くなる。
「欠け……」
彼は私たちを店内へ招き入れた。
机の上には木片や試作品。“手”の匂いがする場所。
「見せてくれ。触れない範囲で」
ノエルが紙片を広げる。
職人は顔を近づけ、無言で縁を追った。
そして吐き捨てるように言った。
「これは彫りじゃない。押し方も雑だ。型取りの量産だな」
「型取り?」
「正規の印影を蝋か粘土で取って複製する。欠けは、その型が欠けてるんだろう」
私は息を吸った。
「その型は、どこで作られますか」
職人は少し迷って、渋い顔で言った。
「路地の外れにいる蝋型屋だ。正規の職人はやらない。だが……最近、うちの名を出してくる客がいた」
ミーナが息を呑む。
「……ひどい」
「ひどいよ。だが、顔は覚えてる」
ノエルが促す。
「特徴を」
「背は高くない。香水がきつい。指輪がでかい。喋り方が偉そうで、目が忙しい」
香水。指輪。
嫌な輪郭が、胸の奥で固まった。
職人は続けた。
「連れていた若いのもいた。荷車を押すような下っ端。そいつが紙を持ってた」
ノエルが頷く。
「蝋型屋の場所を」
「気をつけろ。あそこは道具屋の顔をしてる。表はまとも。裏が汚い」
正しさの顔。
まただ。
私たちは店を出て、路地の外れへ向かった。
⸻
蝋型屋は、ぱっと見は普通の雑貨屋だった。
蝋燭、封蝋、細い糸、紙。
手紙を綺麗にする道具が並んでいる。
丁寧さの店。正しさの店。
でも、奥の空気が違う。
甘い蝋の匂いに焦げが混じっている。隠すために焚いた匂い。
ノエルが言う。
「監査局です。お話があります」
店主らしき男が出てきた。三十代。笑顔は丁寧。目が冷たい。
「監査局? うちはただの雑貨屋ですが」
「赤い印の複製について」
笑顔が一瞬だけ固まった。
その一瞬が、答えに近い。
「知りませんね」
嘘。
でも殴り合いはしない。
私は一歩前に出た。
「……お水、飲みますか」
男が怪訝そうに私を見る。
「何の話だ」
「緊張すると喉が乾きます。喉が乾くと、言葉が尖る。尖ると、話が進まない」
私は穏やかに言った。
「私は話を進めたい。あなたも、面倒を増やしたくないはずです」
男の目がわずかに揺れた。
「……噂の店主か」
「噂はどうでもいいです。道具が人を傷つけるのが嫌です」
私は水差しからコップに水を注ぎ、差し出す。
飲むかどうかは自由。押し付けない。
男は迷って――取った。ごくりと飲む。
その瞬間、口が滑った。
「……複製なんて、みんなやってる」
男は慌てて口を押さえた。
遅い。言葉はもう外に出た。
ノエルの声が冷たくなる。
「誰が依頼した」
「知らない。俺は頼まれただけだ」
男は急に話を広げる。
「印を欲しがる人は多い。商会、役人、金持ち、貴族……」
焦点をぼかす逃げ方。
だから私は焦点を戻す。
「縁が欠けた型。……それは、ここにありますか」
男の目が一瞬泳いだ。
泳いだ先は、奥の扉。
ノエルが一歩動く。
監査局の一歩は、静かなのに重い。
「奥を見せてもらう」
「勝手に――」
その瞬間、奥でガタン、と音。
何かを落とした音。
焦げの匂いが強くなる。
「……燃やしてる」
ミーナが青い顔で呟いた。
ノエルが即座に奥へ。
私はミーナの手を引き、危なくない距離を取る。
カイルがいない場所では、手順で守る。
奥の扉が開き、熱い空気が流れた。
小さな炉。
そこに蝋の塊が投げ込まれている。赤く染まった蝋。
縁が欠けた印影が、最後に一瞬だけ見えた。
ノエルが短く言う。
「証拠隠滅。拘束します」
店主が逃げようとした。
――同時に、入口の方で足音が乱れた。
外から誰かが走り去る音。合図のような音。
「尾がいる」
ノエルが低く呟いた。
店主は歯を食いしばり、吐き捨てる。
「俺だけ捕まえても無駄だ! 次の印はもっと上手く作れる!」
私は、その言葉を逃さなかった。
「次の印?」
店主はハッとして口を閉じた。
でも遅い。
私は穏やかに言う。
「あなたが“次”と言ったことは、もう事実です」
ノエルが素早く縄で拘束する。
騒ぎを最小にする手際。
店主は呻きながら、最後に吐いた。
「……赤い印じゃない。次は、もっと“それっぽい色”だ。正規に見えるように……!」
色。正規に見える色。
正しさの顔を、さらに厚くするつもりだ。
ノエルが私を見る。
「十分です。店主殿、助かりました」
「助かったのは、私のほうです」
“手”に触れた。線が一本、引けた。
⸻
帰り道、ミーナが息を吐いた。
「印って……こんなに怖いんですね」
「怖い。だから、怖いまま放っておけない」
ノエルが静かに言った。
「店主殿。あなたのやり方は珍しい」
「紅茶のやり方、ですか」
「いえ。人の扱い方です」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
ミーナがすかさず割り込む。
「お嬢様は、怖くない係の上司ですから!」
「上司って言い方はやめて」
ノエルが小さく笑った。
監査局の人間というより、普通の青年の笑いに近い。
店に戻ると、リオが盆の茶葉を指差した。
「……来たか」
「うん。線が引けた」
私は状況を簡単に共有した。
リオは黙って頷き、視線を落とす。
「……俺、もう混ぜない」
「うん。混ぜないを、手順にしよう。今日も選別を続ける」
ミーナが拳を握る。
「香りチェック係、継続ですね!」
「継続」
私は看板を見上げた。
『ほどける紅茶屋』
今日は、結び目の一つがほどけた日。
でも同時に分かった。
(相手は次の“正しさの顔”を用意してる)
赤い印が剥がれたら、別の色で刺してくる。
なら、その色も剥がす。
私はポットに湯を注ぎ、香りを立てた。
香りは嘘を見つけるためじゃない。
人が正直になれる温度を作るためのもの。
扉の外で足音が止まった。
カイルが戻ってきた気配。
そして、低い声。
「……新しい噂が流れている」
私は顔を上げる。
「どんな噂?」
「監査局が動いたのは、店主が貴族と繋がっているから、だと」
ミーナが「うわあ」と顔をしかめた。
「正しさの顔、また来ましたね……!」
私は、笑った。
「来るなら、来い」
怖いのに笑う。
強がりじゃない。約束のための笑いだ。
「噂は止められない。なら――次も、上書きする」
香りで。
手順で。
そして、誰も傷にならない真実で。
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