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第1話 婚約破棄の夜、震える手で淹れた紅茶

 婚約破棄は、音がしない。


 正確には、音はあったはずだ。楽団の演奏も、グラスの触れ合う音も、笑い声も。

 なのに、その一言が落ちた瞬間、私の世界から“音だけ”が抜け落ちた。


「――リュシア・ベルフォード嬢。君との婚約を、ここに破棄する」


 カルロス様の声は、夜会の明るい空気に、針みたいに刺さった。


 ざわ、と会場が揺れる。

 それは戻ってきた音ではなく、私の耳を避けて流れていく“他人の現実”だった。


 カルロス様は私を見ない。

 その腕に絡みつくように寄り添うのは、薄桃色のドレスを着た少女――笑みの形だけが整っている。


(……ああ。そういうこと)


 彼が言う。「彼女こそが相応しい」と。

 彼が言う。「君は冷たい」と。

 彼が言う。「だから、破棄する」と。


 全部、言葉として聞こえた。

 でも、胸の中を通らない。通ったら、崩れるから。


 私は、深呼吸を一つだけした。


「承知いたしました。カルロス様」


 口に出した瞬間、喉の奥に金属の味が広がった。

 礼をする。背筋を伸ばす。歩き出す。


 ――泣かない。

 泣いてしまったら、この場は“勝ち”と“負け”になる。

 私は負けで終わりたくない。少なくとも、今夜だけは。


 扉の外に出ると、冷えた夜気が頬に触れた。

 そこでようやく、音が戻ってくる。靴の音、布の擦れる音、遠い笑い声。

 全部が、私に関係ない音だった。


 屋敷に帰り着くころには、夜は深く沈んでいた。

 部屋に戻ってドレスを脱ぎ、鏡の前に立つ。


 頬は濡れていない。

 代わりに、指先が小さく震えていた。


(……何か、しないと)


 息が詰まる。頭が熱い。

 泣く代わりに“動き”が欲しかった。手順が欲しかった。順番が欲しかった。


 私は台所へ向かった。


 夜の台所は静かだ。火を入れなくても、ここには生活の匂いが残っている。

 棚の奥から茶葉缶を取り出す。父の好物――アッサム。


 蓋を開けると、濃い香りが立ち上がった。

 土と蜜の間みたいな、落ち着く匂い。


 やかんに水を入れて火にかける。

 湯が沸くまでの時間は、短いのに長い。

 その間に、頭の中で夜会が何度も繰り返される。


(“君は冷たい”。“相応しくない”。“彼女のほうが――”)


 止める。

 私は、紅茶の準備に集中する。


 ポットを温める。茶葉を量る。

 沸騰したお湯を、勢いよく注ぐ。

 その瞬間、香りがふわっと広がって、胸の奥の痛みが少しだけほどけた気がした。


「……終わったのよね」


 独り言が、湯気に溶ける。


 カップに紅茶を注ぐ。

 深い赤色。灯りの下で、静かな海みたいに揺れる。


 ――この赤が、今夜の私の代わりに泣いてくれるならいい。

 そう思って、私は自分の分を持ち上げ――


「……君、起きていたのか」


 背後から声がした。


 振り返ると、扉のところに父が立っていた。

 厳格で、体面を重んじる人。夜会の話を私から聞く前に、もう噂で知っている顔だった。


「……噂は届いている。辛かったな」


 辛かった。

 たぶん、私は今、それを認めたら泣く。


「平気です。紅茶を淹れていただけですから」


 私は笑った。笑えた。

 笑ったこと自体に、少し驚いた。


 父は私の手元を見て、目を細める。

 まるで、言葉の代わりに香りを確かめるみたいに。


「……良い香りだ。少し、もらってもいいか」


「もちろんです」


 私はカップを差し出した。

 父は受け取り、ためらいなく一口飲んだ。


 次の瞬間――父の表情が、ほんの少しだけ崩れた。


「……リュシア」


 呼ばれ方が、いつもより柔らかい。

 私は息を止めた。


「私は、本当は……お前を止めたかったんだ」


「……え?」


「家のためだと思って、婚約を続けさせた。お前があの男に怯えているのも……分かっていたのに」


 父の声は、乾いた紙みたいに薄いのに、真っ直ぐだった。


「口を出せば、家が揺らぐ。そう言い訳して……私は何もしなかった」


 父が自分の手を見つめる。

 まるで、その手が勝手に喋ってしまったみたいに。


「……なぜ、こんなことを言っている」


 父自身が、驚いている。

 いつもなら、胸の奥にしまいこんで、鍵までかける人なのに。


 私は、カップの赤を見た。


(……紅茶?)


 じわ、と背筋が冷えて――同時に、胸の奥で灯が点いた。


 今のは、父の“本音”だ。

 隠して、飲み込んで、誰にも渡さないはずの本音が、紅茶と一緒に口からこぼれた。


 恐い。

 でも、それ以上に――


(……救えるかもしれない)


 嘘を暴くためじゃない。

 誰かを追い詰めるためでもない。


 言えなかった言葉を、言える形にして。

 誤解のまま壊れていくものを、壊れる前に止められるなら。


 私は父のカップを受け取り、静かに言った。


「お父様。……今の言葉、嬉しかったです」


 父は一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を落とした。

 照れたのか、痛かったのか、それとも両方か。


「……寝なさい。明日から、やることが増える」


 そう言って父は去った。

 扉が閉まると、台所に残ったのは、紅茶の香りと――私の鼓動だけ。


 私は自分のカップを見つめる。

 湯気は細く、まっすぐに上がっていた。


「……私の紅茶、誰かに“真実”を話させるの?」


 言葉にした瞬間、変な笑いが出そうになる。

 夢みたいだ。都合が良すぎる。


 でも、今夜の父の声は夢じゃない。

 私の胸の奥が、確かに軽くなっている。


 私は決めた。


 令嬢の席に、戻る必要はない。

 でも――この手で淹れられる一杯は、失いたくない。


「なら、私は……この紅茶で、生きていく」


 カップの赤が、灯りを受けて揺れた。

 それは、終わりの色じゃない。


 始まりの色だった。


 そして私は知らない。

 この一杯が、明日から王都の噂を変えることを。


 ――「婚約破棄された令嬢の紅茶は、本音を零させる」と。

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