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紬ぐ日々

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/12/02

第1部 一人のリズム

第1章 堀江の輝き


土曜の午後、大阪・堀江の空気は、新しい季節への期待に満ちた微かな熱を帯びていた。街路樹の葉が落とす影がくっきりとアスファルトに描かれ、道行く人々の足取りは軽い。相原瑞希あいはら みずき、35歳。彼女が働くウィメンズアパレルのセレクトショップ「VONIQUE」は、そんな堀江の洗練された雰囲気の中に溶け込むように佇んでいた 。

「このブラウス、瑞希さんが選んでくれなかったら、きっと手に取らなかったわ。でも、着てみたら驚くほどしっくりくる」

長年の顧客である女性が、鏡の前で嬉しそうに微笑む。瑞希は、ただ商品を売る販売員ではなかった。彼女の豊富な知識と、一人ひとりの顧客が持つ隠れた魅力を引き出すセンスは、多くのファンを惹きつけていた。週末の店内は、彼女を訪ねてくる客で常に賑わっている。

「お客様の柔らかな雰囲気に、このシルクのとろみが絶対に映えると思ったんです。少し大胆なボウタイも、逆に上品さを引き立ててくれますよ」

言葉の一つひとつに自信と愛情が滲む。顧客が満足げに頷き、会計へと向かう背中を見送りながら、瑞希は深い充足感を覚えていた。東京での結婚生活。高級マンションの静まり返ったリビングで、夫の帰りをただ待っていた日々。誰からも「女性」として見てもらえず、まるで上質な家具のように扱われていると感じていたあの頃の寂しさが、嘘のように遠い。

離婚して、生まれ育った大阪に戻ってきたのは5年前。この街の活気と人々の温かさが、少しずつ彼女の心を解きほぐしてくれた。とりわけ、おしゃれなカフェやショップが点在するこの堀江という街は、彼女に新しい居場所とアイデンティティを与えてくれた 。自分の力で誰かを輝かせることができるこの仕事は、瑞希にとって何よりの誇りだった。

「瑞希さん、お疲れ様です。さっきのお客様も、すごく喜んでらっしゃいましたね」 年下の同僚が声をかけてくる。「そういえば、この間の合コンアプリで会った人、結構良くて」と続く言葉に、瑞希は曖昧に微笑んでみせる。

恋愛はしたい。けれど、35歳、バツイチという肩書きは、見えない壁のように彼女の前に立ちはだかっていた。男性から敬遠されているのではないか。そんな不安が、心の隅に澱のように溜まっている 。充実した毎日。それは事実だ。しかし、この手ずから築き上げた完璧な日常は、時として、誰も踏み込ませないための堅牢な要塞のようにも感じられた。


第2章 神戸、一人分のテーブル


休日の朝、瑞希は阪急電車に乗り込み、神戸へと向かった。一人で過ごす時間は、彼女にとって欠かせない充電期間だ。異国情緒あふれる北野異人館街を気の向くままに散策し、坂道から港を見下ろす 。潮風が頬を撫で、東京での息詰まるような生活を洗い流してくれるようだった。

元町商店街のアーケードを抜け、メリケンパークの開放的な空間へ 。青い空と海、そして「BE KOBE」のモニュメント。すべてが心地よく、瑞希は深く息を吸い込んだ。誰にも気を遣うことなく、自分のペースで美しいものを享受する。この自由が、今の彼女を支える大きな柱の一つだった。

彼女は、お気に入りのカフェ「にしむら珈琲店」の窓際の席に落ち着き、文庫本を開いた 。コーヒーの豊かな香りと、遠くで響く船の汽笛。完璧に整えられた、自分だけの世界。この平穏を、誰かに乱されたくない。そう思う一方で、この美しい情景を分かち合える誰かが隣にいたら、と矛盾した感傷が胸をよぎる。

結婚。23歳で飛び込んだその世界は、7年で幕を閉じた。すれ違い、会話のない食卓、そしてレス。小さな綻びが積もり積もって、お互いが納得の上で選んだ別れだった。後悔はない。ただ、一度失敗したという経験は、彼女を臆病にさせていた。新しい関係を築くことへのためらいは、傷つくことへの恐怖だけでなく、この手で作り上げた「一人の快適な城」を失うことへの恐れからも来ていた。恋愛はしたい。でも、結婚にはまだ踏み出せない。その狭間で、彼女の心は静かに揺れていた 。


第2部 新しい出会い

第3章 秋冬展示会


八月の蒸し暑さが残る大阪。アパレル業界はすでに半年先の冬を見据えている。瑞希は店長と共に、来シーズンの商品を買い付けるための合同展示会に足を運んだ 。大きなイベントホールには数多のブランドがブースを構え、バイヤーやプレス関係者の熱気で満ちていた 。

きらびやかなブランドが並ぶ中、瑞希の目は会場の少し奥まった場所にある、小さなブースに引き寄せられた。派手な装飾はない。ただ、そこに掛けられた数点のサンプルが、静かながらも確かな存在感を放っていた。

ブランド名は「Tsumugi(紬)」。

彼女は吸い寄せられるようにブースに近づいた。手に取ったコートは、滑らかな手触りと、細部まで行き届いた丁寧な縫製が印象的だった。デザインはベーシックでありながら、カッティングやシルエットに現代的なセンスが光る。何よりも、すべての製品が国内の工場で作られているという点に、瑞希は強く惹かれた 。これこそ、自分たちが本当に届けたい、30代以上の働く女性に似合う服だ。

「何か、気になるものはありましたか」

穏やかな声に振り返ると、そこに一人の男性が立っていた。年の頃は40代前半だろうか。派手さはないが、清潔感のある佇まいをしている。彼が、このブランドの担当者、佐藤海斗さとう かいとだった。

海斗は、セールストークを並べる代わりに、その服が生まれた背景を語り始めた。生地を織る工場の歴史、職人たちのこだわり、ボタン一つに込められた想い。彼の言葉は、まるで製品の物語を紡いでいるかのようだった。その誠実な姿勢は、品質とストーリー性を重視するブランド「ファクトリエ」の哲学にも通じるものがあった 。

瑞希は、彼の話に深く聞き入っていた。ファストファッションが溢れる現代において、手間と時間をかけて作られた「スローファッション」とも言うべきその姿勢。それは、かつて勢いだけで始まり、中身が伴わずに終わってしまった自分の結婚生活とは対極にあるもののように感じられた。彼女は、この服に、そしてこの服を語る海斗という人物に、確かな価値を見出していた。

店長と相談し、「Tsumugi」を店で扱うことを即決した。それは、ビジネスとしての判断であると同時に、瑞希自身の価値観が強く共鳴した結果だった。

第4章 織り目の物語

「Tsumugi」の最初の納品があった日、海斗は自ら商品を届けに「VONIQUE」を訪れた。段ボールを開けると、丁寧に畳まれた洋服たちが姿を現す。

「このニットは、新潟の工場で作られていて。編み機の調整が非常に難しいんですが、そこの職人さんは見事にこなしてくれるんです」

海斗は一点一点の商品について、その背景にある物語を瑞希に伝えた。それは単なる商品説明ではなく、作り手の顔が見えるような温かみのあるエピソードだった。瑞希は、その情報を自分の言葉に落とし込み、顧客に伝えた。

彼女の読み通り、「Tsumugi」は店の顧客たちから絶大な支持を受けた。品質の良さはもちろん、その服に込められたストーリーが、モノを大切にしたいと考える大人の女性たちの心に響いたのだ。店の売上は上がり、瑞希のプロとしての自信はさらに深まった。

海斗は、その後も定期的に店を訪れた。瑞希が伝える顧客からのフィードバックは、彼にとって次の商品開発のための貴重な情報源となった。二人の会話は、常に仕事が中心だったが、そのやり取りの中に、心地よいリズムが生まれていた。互いの仕事に対する真摯な姿勢への尊敬が、静かな信頼関係を育んでいた。

「この前のワンピース、お客様が『これを着ていくと、必ず褒められる』って嬉しそうに話してくださいました」 「そうですか。それは、作り手にとっても一番嬉しい言葉です。相原さんが、その服の魅力をしっかり伝えてくださるおかげですよ」

時折交わされるそんな言葉の中に、プロフェッショナルな関係を超えた微かな温もりが灯り始めていた。しかし、二人はまだその一線を超えることはなかった。


第3部 過去のこだま

第5章 梅田の静かな部屋


「Tsumugi」の次のシーズンの商談が滞りなく終わった日の夕方だった。資料を片付けながら、海斗がふと口を開いた。 「もしこの後、お時間があれば、一杯どうですか。おかげさまで、今期も好調で」 その誘いはあまりに自然で、瑞希は一瞬ためらった。彼女の心の「要塞」の門が、わずかに軋む音がした。しかし、彼の穏やかな瞳を見ていると、断る理由が見つからなかった。

海斗が選んだのは、梅田の喧騒から少し離れた場所にある、和食の個室居酒屋だった。「楽蔵うたげ」というその店は、落ち着いた照明と和を基調とした内装で、プライベートな話をするのに最適な空間だった 。

最初は仕事の話だったが、生ビールを一杯飲み干す頃には、自然と個人的な話題に移っていた。 「相原さんは、ずっと大阪なんですか?」 「ええ、生まれも育ちも。一度、結婚で東京に出たんですけど…」 言いかけて、瑞希は口ごもった。すると、海斗が静かに言った。 「俺もなんです。離婚して、こっちに戻ってきました」

その一言で、二人の間の空気が変わった。張り詰めていた糸が、ふっと緩むような感覚。瑞希は、堰を切ったように自分のことを話し始めた。元夫との間に子供はいなかったこと。すれ違いの末、お互いを傷つける前に関係を終えたこと。海斗もまた、自身の過去を語った。彼も子なしのバツイチで、42歳だという。

彼らは、元配偶者を責める言葉を口にしなかった 。ただ、コミュニケーションが少しずつずれていく虚しさや、同じ家にいながら孤独を感じる辛さを、静かに分かち合った。離婚という同じ痛みを経験した者同士だからこそ生まれる、深い共感がそこにはあった 。説明も、言い訳もいらない。ただ、お互いの存在が、過去の自分を肯定してくれるような安堵感があった。


第6章 慎重なダンス


その夜を境に、瑞希と海斗の距離は急速に縮まった。メッセージのやり取りが始まり、休日に会うようになった。中之島のレトロな建築を見て歩いたり、京都の静かな古民家カフェでお茶をしたり 。一緒に過ごす時間は、穏やかで満ち足りていた。

しかし、二人の関係には常に、見えない一線が存在した。互いにバツイチであるという事実は、強力な共感を生むと同時に、深い関係へ踏み出すことへのブレーキにもなっていた。過去の失敗を繰り返したくないという思いが、二人を過剰に慎重にさせていたのだ 。

「本当に、俺でいいのかな」 海斗が時折、不安げに呟く。その言葉は、かつて結婚生活を守れなかったという彼のトラウマの表れだった 。瑞希もまた、彼に深く依存してしまうことを恐れていた。心地よい関係が壊れるくらいなら、この曖昧な距離を保っていたい。そんな自己防衛的な心理が働いていた 。

彼らは、互いの心にあと一歩踏み込めないまま、まるで慎重にステップを確かめるように、もどかしいダンスを踊り続けていた。喜びと恐怖がないまぜになった、甘くも切ない日々だった。


第4部 決壊点

第7章 綻びる糸


街がクリスマスイルミネーションで輝き始める頃、アパレル業界は一年で最も忙しい時期を迎えていた。瑞希は、仕事に没頭することで、海斗との関係に対する不安から目を逸らしていた。連日の残業、休日出勤。心身は確実に疲弊していたが、立ち止まるのが怖かった。

「最近、顔色が悪いですよ。少し休んだ方がいい」 店を訪れた海斗が、心配そうに声をかける。彼の優しさが嬉しい反面、心の奥底を見透かされているようで、瑞希は素直になれなかった。 「大丈夫。この時期は毎年こうだから」

彼女は、自分でも気づかないうちに、心と体の発する危険信号を無視し続けていた。時折襲ってくる立ちくらみ、頭の芯が重くなるような鈍い痛み、些細なことで涙が出そうになる感情の揺れ 。それらはすべて、過労とストレスがもたらす悲鳴だった。海斗は彼女の異変に気づきながらも、強く介入することができなかった。彼の過去の経験が、相手を束縛することへの強い抵抗感を生んでいたのだ。二人の間にある見えない壁が、彼を無力感に苛ませた。


第8章 崩壊


クリスマスイブを目前に控えた、土曜日。店内はプレゼントを求める客でごった返していた。瑞希は笑顔で接客をこなしながらも、意識が朦朧とするのを感じていた。

その瞬間は、突然訪れた。 顧客に商品を説明しようと口を開いた途端、強烈な吐き気に襲われた。全身から血の気が引いていくのがわかる。視界の端から急速に闇が広がり、同僚たちの驚きの声が、まるで水の中から聞こえるように遠のいていく 。

「相原さん!」

誰かの叫び声を最後に、彼女の意識はぷつりと途絶えた。床に崩れ落ちる瑞希の体。店内の喧騒が、一瞬にしてパニックに変わった。店長が震える手で救急車を呼び、そして、彼女にとって今一番近しい存在である海斗に電話をかけた。


第9章 呼吸の合間に


瑞希が目を覚ました時、最初に目に映ったのは、真っ白な天井と、消毒液の匂いだった。そして、すぐそばに、見たこともないほど憔悴しきった海斗の顔があった。彼の目に浮かぶ恐怖と安堵が入り混じった表情は、彼らがこれまで慎重に保ってきた距離を、一瞬で無意味なものに変えていた。

診断は、過労と極度のストレスによる血管迷走神経反射性失神 。幸い、大事には至らなかった。その夜、自宅まで送ってくれた海斗と、瑞希は初めてすべてをさらけ出して話をした。

「怖かった…。君が、このままいなくなってしまうんじゃないかと思った」 海斗の声は震えていた。それは、かつて家族を守れなかった無力感という、彼の最も深い傷に触れる恐怖だった 。

瑞希もまた、涙ながらに告白した。忙しくすることで、感じることから逃げていたこと。一人で強くあらねばと、自分を追い詰めていたこと。

弱さを認め、恐怖を分かち合う。その痛みを伴う正直さこそが、二人の間にあった最後の壁を打ち砕いた。彼女の倒れたという最悪の出来事が、皮肉にも、彼らの関係を本物へと昇華させるきっかけとなったのだ。互いの脆さを受け入れた時、そこには揺るぎない信頼が生まれていた。


第5部 新しい織り目

第10章 はじまりの朝


一週間後、瑞希は会社の指示で休暇を取っていた。目が覚めると、慣れ親しんだ自室の天井が見える。そして、キッチンの方から、香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。

リビングへ行くと、海斗がごく自然な様子で朝食の準備をしていた。その姿は、まるでずっと前からこの場所にいたかのように、彼女の生活に溶け込んでいた。

「おはよう。よく眠れた?」

彼の穏やかな声に、瑞希は頷く。かつてのような緊張感はない。ただ、温かく、満たされた空気が二人を包んでいた。

テーブルに向かい合って、トーストをかじる。会話は、天気の話や、昨日のテレビ番組のことなど、とりとめのないことばかりだ。しかし、その何気ない日常こそが、瑞希が心の底から求めていたものだった。

「無理はするなよ。俺は、君を治すことはできないけど、そばにいることはできるから」 海斗が、コーヒーカップを置きながら言った。瑞希は、静かに微笑んで答える。 「もう、一人で全部やろうとは思わないから」

過去の失敗から学んだ教訓が、二人の新しい関係の礎となっていた 。

窓から差し込む柔らかな朝日が、海斗の横顔を照らす。瑞希は、その光景を眺めながら、深い安らぎを感じていた。彼女が築き上げた堅牢な要塞は、今、門を開け放たれている。それは誰かに侵略されたのではなく、彼女自身が、大切な人を招き入れたからだ。

一本一本の糸を丁寧に紡ぎ、丈夫で美しい布を織り上げる「Tsumugi」。その物語は、いつしか二人の愛の物語となっていた。それは、時間をかけて育む「スローファッション」のような関係。大切に、慈しみながら、二人の日々は、これからゆっくりと織り上げられていくのだろう。


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