婚約者に裏切られた私に声をかけてきたのは、義妹の元婚約者でした。
「エリサ・ロザリンド。君との婚約を破棄させてもらうよ」
ロザリンド子爵邸のゲストルーム。
エリサ・ロザリンド子爵令嬢は、そんなことを言われてしまう。
婚約破棄を言い渡してきた相手は、婚約者のルッツ・シグルド侯爵令息だ。
茶色の髪に、茶色の瞳をしている。
年齢は二十五歳。
二十歳のエリサより、五つ年上だ。
「君より『リーゼ』のほうが、ずっと魅力的だからね。これからは彼女と婚約することにしたのさ」
リーゼ――リーゼ・ロザリンドは、エルサの二つ年下の義妹だ。
リーゼに乗り換えるために、ルッツはエリサとの婚約を破棄するのだろう。
二人が話しているところは、何度か目にしたことがある。でもまさか、乗り換えられるとは思ってもみなかった。
エリサは、緑色の瞳をゆっくりと閉じた。
小さく震えた体に合わせて、背中まで伸びた金色の髪が小さく揺れる。
ルッツとは八年前からずっと婚約をしていた。
それがたった今この瞬間、終わりを告げた。
******
それが、一週間前の話。
リーゼはもうこの家にいない。
シグルド侯爵家に移り住み、ルッツと一緒に暮らしている。
(今頃楽しく暮らしているんでしょうね……私と違って)
婚約破棄されてからのこの一週間、エルサは落ち込んだ気持ちを抱えていた。
別に、ルッツのことは好きではなかった――というよりも嫌いだった。
彼はいつもエリサを見下し、上からものを言ってきた。そんな人のことを好きになるのは難しい。
それでもエリサは、ルッツのことをなんとか好きになろうと八年間努力していた。
けど、あっさり裏切られてしまった。
八年の努力は、いったいなんだったのだろう。
そう思うと、虚しくて悲しかった。
義姉の婚約者と結ばれたリーゼのことを、父と継母は盛大に祝福した。
そして、エリサを嘲笑ってきた。
エリサは両親から嫌われている。
欠片の愛情すらも持たれていない。
昔からずっとそうだ。
エリサは産みの母を、十五年前に亡くしている。
病にかかり、若くして他界してしまった。
それからしばらく独身だった父だが、十二年前に男爵令嬢――ヘレンと再婚。
ヘレンと、彼女の六歳の連れ子であるリーゼが新たにロザリンド子爵家の一員となった。
エリサは新しく家族になる二人のことを歓迎していた。
だが、ヘレンとリーゼは違った。
彼女たちは血の繋がっていないエリサを疎ましく思い、虐げてきた。
父は初めそれを黙認していただけだったが、いつしか一緒になって虐げてくるようになった。
そのことを知っている婚約者のルッツも、エリサを見下して罵倒してきた。
家族と婚約者。
その両者に虐げられる日々を、エリサはずっと送ってきたのだ。
エリサは私室のベッドに腰を下ろした。
深いため息をつく。
「あの方に会いたいわ」
そう呟いたとき、メイドが部屋に入ってきた。
「レクシオ様がお見えです。エリサ様にご用とのことでしたので、ゲストルームへご案内いたしました」
「え、レクシオ様が!?」
狭い部屋に響いたのは、弾みに弾んだ声。
今まさに会いたいと思っていたその人――レクシオ・フィスティアン公爵令息が、会いに来てくれた。
まさかの展開に、心が大きく舞い上がる。
ゲストルームへ入ったエリサは、すぐにレクシオのもとへ駆け寄った。
「久しぶりだね、エリサ。婚約破棄の件、聞いたよ……辛かったね」
レクシオは、真紅の瞳を少しそらした。
銀色の髪が小さく揺れる。
恐ろしいくらいに整っている顔立ちは、バツが悪そうな表情をしていた。
「ご心配いただきありがとうございます。でもそれは、レクシオ様だって同じことです」
ルッツがエリサに婚約破棄を言い渡したとき、リーゼはルッツ以外の相手と婚約をしていた。
その相手というのが、今目の前にいる男性――レクシオ・フィスティアン公爵令息だ。
エリサはルッツに裏切られ、レクシオはリーゼに裏切られた。
つまり二人とも、婚約者に裏切られてしまった者同士。
同じ境遇だった。
「今日は君に話があってきたんだ」
レクシオが真剣な表情になった。
真紅の瞳が、エリサをまっすぐに見つめる。
「エリサ。俺の婚約者になってほしい」
(嬉しい……!)
家族と婚約者に虐げられてきたエリサだったが、たった一人だけ味方がいた。
それが、レクシオだ。
彼はロザリンド子爵邸を訪れるたびに、虐げられて傷ついているエリサを気遣い励ましてくれた。
それにどれだけ助けられてきたことか。
辛い毎日を送っていたエリサにとって、唯一の心の支えだった。
そんなレクシオにときめいたことは、一度や二度ではない。
でもエリサは、その気持ちを必死に隠してきた。
レクシオはリーゼの婚約者だ。
二人はいつか結婚してしまう。
好きになっても、その気持ちが報われることは決してない。
だからエリサはずっと、彼への恋心を心の奥にしまってきた。
でも、状況が変わった。
レクシオはリーゼの婚約者ではなくなった。
だからもう、我慢しなくていい。隠していた本心を、今なら思う存分さらけ出していい。
「お受けいたします!!」
本心のままに答える。
ありったけの喜びと感謝が、そこには詰まっていた。
レクシオと婚約してから一か月。
エリサの日々は一転していた。
あれだけ不幸だった毎日が、今では幸せに溢れている。
レクシオは頻繁にエリサに会いに来て、色々なことをしてくれる。
会話をしたり食事をしたり、街や湖へ連れていってくれたりと……色々だ。
レクシオはいつも、エリサを楽しませようと全力だ。
大切に想われているということを、側にいるエリサはいつも痛いくらいに感じていた。
そんなレクシオと過ごす時間は、楽しくてしょうがない。
この一か月でエリサは、彼のことをさらに好きになっていた。
「素敵なプレゼント、本当にありがとうございます!」
馬車の中。
エリサは対面に座っているレクシオに、いっぱいの気持ちをこめてお礼を言った。
今は街へデートへ行った帰り道。
今日のデートでは、レクシオがルビーのネックレスをプレゼントしてくれた。
好きな人からのプレゼントに、エリサはとても舞い上がっていた。
こんなに嬉しい贈り物は、生まれて初めてだ。
まさに宝物。ずっと大切にしていこうと心に誓う。
「よかった。君の笑顔が見られて嬉しいよ」
レクシオが朗らかに笑う。
その言葉もその笑顔も、なにもかもが素敵だ。
彼のことを、また一つ好きになる。
「今さらだけどさ、どうしてエリサに婚約を申し込んだのか話したことなかったよね」
「えっと……そうですね」
(……そういえば聞いたことなかったわね。どうしてなのかしら?)
婚約を申し込んでくれたことが嬉しくて、ずっと気にしていなかった。
今まで気にしたことは一度もなかったが、改めてそう言われると少し気になってしまう。
「俺実はさ、エリサに一目惚れしていたんだよね」
******
今より七年前。
レクシオは十五歳のときに婚約を結んだ。
その相手は、リーゼ・ロザリンド子爵令嬢。
茶色の髪にブルーの瞳をしていて、容姿はそれなりに整っている。
美人の部類に入るだろう。
しかし、性格がひどい。
とてもワガママで傲慢。
典型的なお嬢様気質。
そんな彼女のことが、レクシオは嫌いだった。
「疲れた……」
ロザリンド子爵邸のエントランスから外に出たレクシオは、ため息混じりに呟いた。
険しい表情には、たっぷりの疲労が浮かんでいる。
今はリーゼとの昼食会を終えた帰り。
自慢話を永遠に聞かされていたことで、レクシオはへとへとになっていた。
「……うん?」
フィスティアン公爵邸へと帰る馬車に向かって歩いたレクシオは、ふいに立ち止まった。
遠くから少女の泣き声のようなものが聞こえてきたからだ。
(庭園からの方からだ……どうしたんだろう?)
「少し用事ができた。先に馬車に戻っていて」
付き添いの執事にそう言って、レクシオは声のする方へ走っていく。
レクシオは庭園の隅へやってきた。
そこでは、俯いた少女が泣いている。
聞いた泣き声は、彼女のものだった。
「どうしたの?」
声をかけると、泣いていた少女が顔を上げた。
瞬間、レクシオは雷に打たれたような大きな衝撃を受けた。
歳は十三歳くらいだろうか。
絹のような金色の髪に、幻想的に輝いてる緑色の瞳。
整った顔立ちは、繊細かつ愛らしい。天使のようだった。
こんなに美しいものを、レクシオは生まれて初めて見た。
つまりは、一目惚れだった。
「……誰ですか?」
「あ……俺は、レクシオ・フィスティアンという」
つっかえながらも、なんとか答える。
「えっと、君は?」
「エリサ・ロザリンドです」
(ロザリンド……あぁ、彼女がそうか)
リーゼには義姉がいると聞いている。
彼女がそうだろう。
「私になにかご用ですか?」
「用っていうか、泣いていたのが聞こえたから……。エリサはどうして泣いていたの?」
「……みんなが私をいじめてくるんです」
少し迷ってから、エリサはそう呟いた。
両親と義妹に虐げられていること。
婚約者にも罵倒されていること。
そのせいで毎日が苦しいこと。
エリサはそれらを、涙ながらに語った。
「辛かったね」
エリサの頭へ手を伸ばし、優しく撫でる。
エリサの背中がビクッと跳ねた。
顔には驚愕が浮かんでいる。
「急に触ってごめん。嫌だった?」
「いえ、違うんです。こういうことされるの初めてだったので、びっくりしただけで……その、とてもポカポカした気持ちになりました」
えへへ、とエリサが笑う。
「――!!」
(か、かわいすぎる!)
レクシオの心が撃ち抜かれる。
初めて見せてくれたその笑顔は、なんともかわいらしかった。
強く抱きしめたい衝動に駆られる。
愛おしくてたまらない。
「レクシオ様~!」
執事の声が聞こえてきた。
なかなか馬車に来ないので探しにきた、というところだろうか。
(時間切れか……もう少し話していたかったのに!)
でもレクシオは、これで終わる気なんてさらさらなかった。
「エリサ。また君に会いに来てもいいかな?」
「はい! 楽しみにしてます!」
(やった!)
笑顔のエリサに手を振って、レクシオはそこから去っていく。
軽やかな足音は弾んでいる。
口元には、エントランスから出てときとは大違いな喜びの笑みを浮かべていた。
それからレクシオは、時間が少しであればロザリンド子爵邸へ行くようになった。
それは、婚約者のリーゼに会うためではない。
あのとき一目惚れした少女――エリサに会うためだ。
******
話を聞かされたエリサは、驚いていた。
まさかレクシオが、初めて会ったあのときから好意を持ってくれているなんて、まったく思っていなかった。
(つまり、最初から両想いだったのね)
驚きと同じくらいに、嬉しい感情が湧きあがってくる。
エリサの顔は、真っ赤になっていた。
フィスティアン公爵邸の一室。
エリサは、ベッドの縁に腰かけていた。
すぐ隣にはレクシオがいる。
二人の距離は密着するくらいに近い。
窓から差し込む月明かりが、エリサの顔を照らした。
その表情は、とてつもなく強張っていた。
エリサは今、ものすごーーーく緊張している。
夜。二人きり。ベッド――そこまで揃ったならもう、そういう雰囲気ということだ。
これが緊張せずにはいられるか。
「ルッツとはどこまでしたの?」
「……えっと、キスまでは――!?」
エリアの顎を指でクイっと引っ張ったレクシオが、唇を重ねてきた。
その行動は強引。いつもの優しい彼がするものとは思えない。
しかも、一度だけではない。
レクシオは何回も唇を重ねてきた。
「他の男とキスしたって聞いたら我慢できなくて、上書きしたくなっちゃった……急にごめん。嫌だったよね」
「いえ。びっくりしましたけど……嫌ではないです。……むしろ、ドキドキしちゃいました」
以前に一度だけルッツにキスされたことがあるが、そのときはドキドキしなかった。
唇が触れたという感触はあったが、それだけ。あとはなんにも感じなかった。
でも、今は違う。
体が燃えるように熱い。
心臓が爆発しそうになっている。
嫉妬してくれているのが嬉しい。
そんな彼がかわいい。どうしようもなく愛おしい。
「私、レクシオ様とキスするの好きかも……です」
上目遣いで見つめると、レクシオがハッとなった。
瞳がギラリと光る。
「でもこういうのは慣れていないので、もう少しお手柔らかに――」
「それは無理だ。そんなこと言われたら我慢できない」
「え、あの!?」
それからのレクシオは、まるで獣。
この日エリサは、忘れないような一夜を過ごした。
******
「おかしいな……どうしてこうなったんだろ……」
シグルド侯爵家のリーゼとルッツの共同の寝室に、自嘲にまみれた呟きが漏れた。
その声を上げたのは、リーゼ・ロザリンド子爵令嬢だ。
ルッツの婚約者になったリーゼは、ここで彼と共同生活をしている。
でも今の形は、リーゼが望んだものとはまったく違っていた。
まずルッツのことを、リーゼは愛していない。
リーゼが愛しているのは、この世でただ一人。
レクシオ・フィスティアンだけだ。
彼を初めて見たとき、美しすぎる完璧な容姿にリーゼは一目惚れした。
運命の人だと信じて疑わなかった。
でもレクシオは、リーゼに興味を示してくれなかった。
話しかけてもいつも上の空。まったく相手にしてくれなかった。
だから興味を引きたかった。
そのためにリーゼは、ルッツを誘惑した。
婚約者が他の男に夢中になっていれば、レクシオだって気が気でないはず。
つまり、嫉妬させたかった。たとえそれがマイナスの感情でも、興味を持ってほしかった。
しかし、レクシオはまったくの無反応。
ルッツといるところをわざと見せつけても、少しだって気にしていなかった。
反対に、ルッツにはどんどん惚れこまれてしまう。
でもそこで、リーゼは諦めなかった。
運命の相手をとても諦めきれなかったのだ。
しかしルッツと婚約することになってもなお、レクシオは無反応。
少しも変わらなかった。
そうなって初めて、リーゼは気づいた。
なにをしても無駄。レクシオが振り向いてくれることは絶対にない、と。
でもそうなったときには、もうすべてが手遅れだった。
来月には、ルッツと結婚することになっている。
好きじゃない相手と夫婦になるなんてごめんだ。今すぐ婚約を解消して、ここから逃げ出したい。
でも、それはできない。
シグルド侯爵家は大きな権力を持っている大貴族。
リーゼから婚約破棄を言い渡したら、きっとルッツは激怒して恐ろしい報復をしてくるだろう。
殺されてしまうことも十分に考えられる。
だからリーゼは、ここから逃げられない。
好きでもない男と夫婦になり、残りの人生すべてを愛のない生活に費やすしかないのだ。
「……どうしてこうなったの」
母と義父と一緒になってエリサをいじめるのは、とても楽しかった。
毎日が幸せに溢れていた。
それなのに、今はこんなにも惨めだ。
いったいどこで間違えんだろうか。
(わからない……私、どこで間違えたの)
「ねぇ、誰か教えてよ」
かすれ声で呟くも、返ってくるのは部屋の静寂だけだった。
******
レクシオと婚約してから半年。
「俺と結婚してほしい!」
エリサは彼にプロポーズされた。
エリサの答えは、もちろん決まっている。
世界一大好きな人からそう言われて、断る理由なんてものはどこにもない。
「はい! お受けします!」
喜んでプロポーズを受けた。
そうしてエリサは、めだたくフィスティアン公爵夫人となった。
レクシオとは今も変わらず、幸せな生活を送っている。
家族とルッツに虐げられて不幸だった自分が、まさかこんな風に幸せを感じられるとは思ってもいなかった。
「ありがとうございます」
夫婦共有のベッドで、すぐ隣に寝ているレクシオの頬にキスをする。
瞬間、彼の瞳がカッと開いた。
「……ごめんなさい。起こしちゃいましたか?」
「謝らなくていいよ。でもそんなかわいいことされたら、我慢できなくなっちゃうな」
レクシオが体を起こす。
ギラリと光る眼光は、いつかの日と同じように獣のようになっていた。
お読みいただき、本当にありがとうございました!
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それではまた、次回作でお会いしましょう!