番ではなくなった私たち
「魔王を倒して、必ず君の元へ戻って来る。そしたら結婚しよう」
ラルフが勇者パーティーの剣士としてこの街を旅立つ時、私の両手をぎゅっと握りしめて誓ってくれた。
彼の真剣に私を見つめる青い瞳も、ブンブンと感極まって激しく振っていたふかふかの尻尾も、まるで昨日のことのように覚えている。
私は、彼の帰る場所として絶対に彼のことを待とう、彼が魔王を倒して戻って来た暁には、あたたかく「おかえり」と言って笑顔で迎えてあげようと、心に誓った。
ラルフは、私の姿が見えなくなるまで何度も何度も振り返って、この街を旅立って行った。
──それから、二年の月日が経った。
「本っっっ当に、申し訳ございません!!!」
勇者パーティーの聖女様が、私の家の客間で土下座している。
彼女を両側から挟むように、魔王を倒した勇者様と賢者様も同様に、額を地面に擦り付けて非常に居た堪れない感じで土下座している。
一人、「他のみんなも土下座してるから、俺も頭下げとこう!」という何も分かって無さそうな無垢な空気感をまとって、以前私にプロポーズしてきた男も大きな体を丸めて土下座していた。
平民である私たち家族を前にして、魔王を倒して世界を救ってくださった英雄御一行様方が揃って土下座──片田舎の街の小さな薬屋の客間は、カオスな雰囲気に包まれていた。
***
私はアン。薬屋の一人娘だ。
私は平凡なブラウンの髪とブラウンの瞳をしていて、顔立ちもやや地味めだ。
この国は、人口の半分が人間で、もう半分を獣人が占めている。
人間と獣人の間には特に偏見やわだかまりみたいなものは無くて、仲良く平和に暮らしている。
獣人は、人間とは違って体が丈夫で力が強い。種族によっては、耳や鼻が人間の何倍も優れていたり、夜目が利いたり、びっくりするぐらい身体能力が高かったりする。
そして獣人には、人間には無い特別な性質がある──それが「番」だ。
番は、獣人にとって運命のお相手らしい。
番を見つけたら、他の異性は全く視界に入らなくなっちゃうみたい。
死が二人を別つまで、人生を添い遂げるパートナーが番だ。
番のほとんどが同種族の獣人なんだけど、時々他種族や人間が番になることがある。
種族が違っても獣人同士なら、お互いに番だって分かるみたいだけど、人間だとそうもいかない。
人間には、相手が自分の番なのかどうかなんてのは、全くピンとこないのだ。
私も幼馴染のラルフが熱心に私にアタックしてくるまでは、番の話なんて人間の私には全く関係のないことだと思ってた。
ラルフは同い年のハスキー犬の獣人だ。
爽やかで清潔感があって、ちょっぴりハンサムな人だ。大型犬の獣人らしく背が高くて、体格がいい。でも、真っ黒な三角の立ち耳や、ふかふかの尻尾は堪らないぐらい可愛い!
ラルフは、ハスキー犬の獣人らしくおバカ──いや、ちょっと抜けてるところがあるけど、底抜けに明るくて前向きで人懐っこくて、私はそんな彼のことを、かっこいいけど何だか可愛い人だと思ってた。
私は薬屋の一人娘だから、両親のお店を継ぐために、お店の手伝いをよくしてる──いわゆる「看板娘」だ。
地味めな顔立ちの私でも、ニコニコ笑って明るく接客していれば、お得意さんたちからは「今日も可愛いね」なんてお世辞でも挨拶してもらえるから、「看板娘」としてはとりあえず及第点だと思ってる。
ただ、ラルフは、私が店番するどころか、私が家族以外の他の男の人と会話するのも嫌だったみたい。
ラルフは番に対する獣人特有の嫉妬深さを発揮して、特に若い男性のお客さんに突っかかっていっては、怒らせてしまうことが度々あった。
この国は人口の半分が獣人だから、「番だから仕方ないね」なんて苦笑いで理解してくださるお客さんもいる。まぁ、全員が全員そういうわけじゃないけどね。
そんな困ったところもある彼だけど、ラルフはいつも私に「可愛い」「大好き」「愛してる」「アンのこと以外考えらんない」と言ってくれて、私のことを大切にしてくれた。
私も明るくて素敵な彼のことが大好きだし、このままラルフと結婚するのかなぁ〜、そしたら私は店の奥で薬の準備をして、ラルフに店番やってもらうのかなぁ〜、って呑気に考えてた。
そしたら、何百年も前に封印されたはずの魔王が復活したっていう噂が流れてきた。
街の周りに現れる魔物がどんどん強くなっていって、怪我をする人が増えて、薬の需要が一気に増えた。
街の男の人たちは自警団を組んで、街の周りを見回りしたり、魔物の討伐に度々出るようになった。
そんな中、勇者パーティーが私たちの街に立ち寄った。
彼らはラルフの頑丈さと剣の腕前に惚れて、「是非に!」と魔王討伐の旅に彼を熱心に誘ってきた。
誠心誠意、何度も何度も足繁く通う彼らに絆されて、ラルフも最終的には勇者パーティーに参加することに頷いた。
そして私は、泣くのも我慢してラルフの旅立ちを見送ることになったのだ。
ラルフがこの街から旅立って二年後──遂に魔王が討伐されたという噂が、私たちの街にも流れてきた。
***
「あの、頭を上げてください」
私はなんだかとても居た堪れなくなって、ベッタリと這いつくばるように土下座をしてる勇者様たちに声をかけた。
彼らは救国の英雄だ。
彼らが命がけで戦って魔王を倒してくれたおかげで、今の私たちは平和に暮らすことができている。
こんな冷たい床の上で、頭を下げさせたままにさせて良いわけが無い。
「そうですよ! それに、せめて椅子にお掛けください。我らが英雄様たちにこんなことをさせたなんて知られたら、私たちが街の人にいろいろと言われてしまいますよ!」
私の母も居た堪れない気持ちは一緒なのか、必死に勇者様たちに起き上がるよう声をかけた。
勇者様たちは渋々「そうですか、それでは失礼します……」と非常に申し訳なさそうに身を縮こませて、やっと椅子に座ってくれた。
一人だけ、ラルフだけがきょとんとした様子で椅子に座った。
「それで、一体何があったんですか?」
父が、ぐるりと勇者パーティーメンバーを見渡して冷静に尋ねた。
客間に通した瞬間にいきなり謝罪されたから、私たちは何が何やら分からない状態だった。
「私が魔王を倒すために、強すぎる魔法を使ったことが原因なんです……」
パーティーメンバーの真ん中に座っている聖女様が、非常に反省した様子でしおしおと口を開いた。
聖女様曰く──
魔王と勇者パーティーの戦いは、苛烈を極めていた。
魔王と三日三晩戦い抜いた後、聖女様は渾身の魔力を込めて、最上位の聖魔法を放った。
聖女様の魔力量は、歴代の筆頭聖女の中でも最も多かったらしい。今だかつて見たことがない程、魔法陣が眩い輝きを放っていたそうだ──そう、三日三晩戦った結果、寝不足と集中力不足で魔力コントロールができずに、聖魔法が暴発したらしい。
魔王は一瞬にして光の中へと消え去っていった。
暴発した聖魔法は、魔王を消しただけでは飽き足らず、勇者パーティーにも襲いかかった。
術者の聖女様は魔力切れを起こして、その場で気を失ってしまったそうだ。
そして術の代償に、魔王討伐から時間が経った今でも、魔力がほとんど戻っていないらしい。
今では下級聖女の半分の魔力量も無いそう。
賢者様は、この国の第七王子様だ。魔王討伐の旅に出る際に、あらゆる厄災から一度だけ身を守ってくれる王家の秘宝を渡されていた──その御守りが賢者様の身代わりとなって、一瞬で真っ黒焦げに燃え尽きたらしい。
勇者様は、伝説の剣が身代わりになって三つに砕け、彗星のごとく光の軌跡を描いて、世界中に飛び散っていったそうだ。
ラルフだけはなぜか何も影響を受けていないように見えた。
ラルフの持ち物は何も身代わりに壊れておらず、魔力もそのまま。彼自身、どこも怪我をした様子が無かったそうだ。
異変に気づいたのは、人間の街に戻って来てからだったみたい。
「あの人、綺麗だね」
ラルフがぽつりと溢した一言だった。
たまたますれ違った若い女性を褒めたらしい──番持ちの獣人だったら、決してあり得ないことだ。
ラルフの様子がおかしいことに気づいたパーティーメンバーは、すぐさま彼を質問攻めにした。
その結果、ラルフは身代わりとして「番の絆」を失っていたことが判明した。
聖女様は話の途中で、いつの間にかまた土下座フォームに戻っていた。
改めて自分の口で説明しているうちに、自分が何をしでかしたのか、居た堪れない気持ちが溢れたらしい。
「「「……」」」
私も家族も、番の絆が消えたという前代未聞のことに、ショックを受けて何も言えずにいた。
「……なんか、ごめん……」
ラルフが尻尾をしょんぼり垂らして、謝ってきた。周囲の雰囲気に押されて、大きな背中を丸めてる。
「なんか」って何よ!?
全っ然、分かってないじゃない!!
その場の勢いでよく考えずに謝るの、止めてよ!
一人だけズレてるラルフに、私も私の家族も一瞬呆然となってしまった。
「ほ、ほら、積もる話もあるでしょうし、一度アンとラルフの二人きりで話してきたら? 番の絆がなくなったとしても、今までの記憶も無くしてしまったわけではないでしょう?」
母がさりげなくフォローを入れてくれた。
確かにそうだよね!
人間にはピンとこなくて少し分かりづらいけど、獣人にとって番は特別だし、その絆が急に消えてしまってショックなのは、ラルフも私と一緒なはずだ。
番の絆が消えてしまったことも、きっと前代未聞のことだと思うし、ラルフがどうしたらいいか分からずに困惑してしまうのも仕方ないよね。
それに、今までの二人の思い出が無くなってしまったわけでもないし、ラルフが旅に出るまではずっと一緒にいたんだから、愛情だってあるはずだ。
「ラルフ、少し街を見てまわろうか? あれから少し変わったんだよ? 案内するよ」
私は自分で自分を奮い立たせるように、にこりと微笑んで、彼を散歩に誘った。
ラルフも顔を上げると少し表情を明るくして、尻尾の先も期待するようにふわっと立ち上がった。
久しぶりに故郷の街を歩くラルフは、隣で見ていても、とても上機嫌だった。
生まれ育った街並みを懐かしむように目を細めて眺めたり、久々に会った旧友に挨拶したり。
でも、私は気づいていた。彼の視線の先が、時々、今までとは違うことに──
以前、私とラルフが番だった時は、彼の視線は私が独り占めしていた。
でも今は、魔王討伐で離れていた二年間の間に変わった街並みを眺めるついでに、私にバレないようにさりげな〜く街行く若い女性たちも視界に入れていた。
今まではこういったことをしてこなかった分、結構彼の動きがぎこちなかったり、慣れてない感じがひしひしと伝わってくる──これで私に全然バレてないとでも思ってるのかしら?
私は思わず半目で彼のことを見上げていた。
私からの視線に気づいたのか、ラルフの肩がビクッと小さく跳ねた。少し焦ったように、どこか誤魔化すように話しかけてきた。
「結構変わったね、街」
「うん、そうだよ。川辺のパン屋は息子さん夫婦に変わったし、自警団の詰所も少し広くなったんだ。別の街に避難してた人たちも戻って来たし、魔王が倒されてから商人の行き来が増えて、また定期市も立つようになったんだよ」
「そうなんだ」
「……」
「……」
互いに何を話したらいいのか、気まずい沈黙が流れた。
踏み込んでいいのか、ダメなのか?
どちらにしろ微妙な気もするけど、でも、ラルフの方から何も言われないってことは……?
私は真実を聞きたいような、聞きたくないような悶々とした気持ちでいた。
私とラルフの番の絆が消えたっていうのを聞いたのも、まだついさっきのことだし、私の中ではショックと混乱が続いていて、少し気持ちの整理をしたいって思いもある。
でも、なんだかちょっと嫌な予感がする……
私たちはふらふらと、いつの間にか街の中心にある公園に来ていた。二人でよくデートした場所だ。
中央の噴水の縁に、よく二人で並んで座って、おしゃべりをしたものだった。
私たちは吸い寄せられるように、いつもの噴水の縁に、いつものように肩を並べて座った。
でも、隣に座るラルフの気配は、親しい彼のものじゃなくて、よそよそしい全く知らない男の人のような感じがしていた。
ラルフは脚を広げて座り、その脚の間で指と指を合わせて、一本ずつくるくると回していた。──彼が何か難しいことを考えてる時の癖だけど、これもなんだか別人の動作のように見えた。
ラルフは自分の手の方を見たまま、弱々しく言ってきた。
「なんか、ごめんね。番の絆が消えちゃったみたいで……」
えっと、なんで他人事?
私は胸のあたりに、モヤッとかつイラッと湧いてきた疑問を抑え込んだ。ここで怒っても、ラルフが話しづらくなるだけだし。
「それは聖女様の説明でも聞いたわ。魔王討伐中に起きてしまった事故だもの、仕方ないわ。でも、ラルフはどうなの? 番の絆が消えちゃって……人間の私より、ずっと影響が大きいでしょう?」
私はさりげなさを装って、一番大切なことを訊いた。これからの二人のことを決める、大事な気持ちのことだ。
ラルフが反射的に口を開く。
「ス……」
「す?」
「すぅー……」
「…………」
ラルフは一瞬「しまった!」って顔をしたかと思うと、急に取り繕うように渋い顔になって言い淀んだ。彼の額には薄っすらと汗が滲んでる。
私はじっとラルフを見上げて、一言も聞き漏らさないように、彼の次の言葉を待った。
ラルフはしばらく黙り込んだ後、気まずそうに項垂れた。
「ごめんなさい、アンのことが好きかどうか分かりません……」
私に衝撃が走った。まさに、雷に打たれたような感覚だった。
ラルフの言葉は、今日聞いた話の中でも一番のショックだった。
それどころか、人生で一番のショックだったかもしれない──ラルフがお得意さんと派手に喧嘩して相手に怪我をさせた時よりも、自警団の見回りで魔物と戦って大怪我した時よりも、さらにはラルフが勇者パーティーについて行くと決めたと話してくれた時よりも、もっとずっとショックだった。
本当に、周りの音が何も聞こえなくなって、一瞬頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなったぐらいだ。
その後は、私は「ちょっと考えたい……」と口にするのがやっとで、とにかく家に帰ることにした。
ラルフは「送ろうか?」の一言も無くて、ただただ眉を下げて「ごめん」以外の何も言わなくなっていた。
その日、自分がどうやって家に帰ったかも覚えてない。私はふらふらと、いつの間にか家に着いていた。
帰って来た私を見た父と母は、酷く驚いていた。
私は幽霊のようにふらふらと自分の部屋に戻って、ベッドに倒れ込むようにダイブした。
自分の部屋に戻って来て安心できたのか、今更ながら涙が出てきた。外ではまだ気を張ってたみたい。
「……ふっ、くぅ……ううぅ……」
ラルフの方からあれだけ熱心にアプローチしてきたのに!
彼との将来のことも、真剣に考えていたのに!!
この二年間、毎日彼の無事を祈って待ってたのに!!!
——彼のことを信じてた私が、バカみたいじゃない!!!
それでもまだラルフのことを好きな気持ちと、でもどうしようもない現実とで、私の心はぐちゃぐちゃだった。
父も母も「店のことはこっちでやるから」「しばらくゆっくり休みなさい」と、私のことをそっとしておいてくれた。
今はただ、そんな気遣いがありがたかった。
それから三日間は、私はベッドの住人だった。
何も手につかない。
何もする気が起きない。
ただただ泣いてることしかできなかった。
ラルフは見舞いにも来なかった。
でも、共通の友人たちが見舞いに来てくれて、ためらいながらも今のラルフの様子を教えてくれた。
勇者パーティーメンバーは、魔王を倒して世界を救ってくれた英雄だから、街の人たちにかなり持て囃されていた。
勇者様や賢者様、聖女様はにこやかだけど、どこか遠慮がちに街の人たちに対応していたらしい。お忍びだからって。
でも、根が明るくて人懐っこくて何事も深く考えないラルフは、この街が生まれ故郷だってこともあるのだろうけど、歓待してくれる街の人たちと一緒になって騒いでいるらしい。
この街にずっと住んでた人たちは、ラルフが私の番だって知ってるから、遠巻きに見てるみたいなんだけど、最近この街に来た人たちはそんなことは知らないから、ラルフに普通にお酒を勧めたり陽気におしゃべりしたりしてるらしい。もちろん、その中には綺麗な若い女の人たちもいるみたい。
さすがに女の人たちがラルフにベタベタし出すと、勇者パーティーの人たちがラルフを嗜めて、彼女たちを追い払ってくれてるみたいなんだけど、ラルフはお酒が入って気が大きくなってるのか「今は番はいないから」と言って、何も悪びれる様子が無かったらしい。
「ラルフがあんな奴だったなんて! 本っ当サイテー!!」
親友のゲルダが私の代わりに怒ってくれた。ぷくっと頬を膨らませて、赤髪のおさげが荒々しく跳ねる。
「本当はこのことをアンに伝えようかどうか、私たち迷ってたの。アンはこんな様子だし、今伝えたら、もっと具合が悪くなっちゃうんじゃないかって。でも、何も言わないのもアンに悪い気がして……」
もう一人の親友のマリアも、心底心配そうに言ってくれた。綺麗な空色の瞳は、今は少し翳っていた。
二人とも私のことを気遣って、悩んでくれてたみたい。
「……そっか。ありがとね……」
私は二人に感謝して、ベッドからのろのろと起き上がって身支度を始めた。
二人は「大丈夫?」「一緒について行こうか?」って気遣ってくれたけど、これは私のけじめだから、私は首を横に振った。
勇者パーティーは、まだしばらくこの街に滞在する予定だと聞いた。
この街を出た後は、伝説の剣の欠片を探す旅に出るらしい。
ずっと泣いてばかりだと何も変わらない。
きっと、ラルフは変わらないと思う。
だから、私自身が変わらなくちゃ。
——私は、いい加減ラルフと決着をつけることにした。
街の中でラルフを見つけるのは簡単だった。単純に、一番賑やかなところを当たればいい。
街で一番賑やかな酒場の真ん中では、ラルフが酒場のテーブルの上に半分乗り上げて、ブンブンと上機嫌に尻尾を振り、もう何度目かも分からない乾杯の音頭を取っていた。ラルフはすっかりできあがってるみたいで、彼の頬は林檎みたいに真っ赤になってた。
ラルフの周りには、若くて綺麗な女の人たちが、一緒になってお酒を乾杯して盛り上がっていた。
彼女たちは、ラルフに「魔王討伐の話を聞かせて」とねだって、ベタベタと彼の背中や腕を触ったり、しなだれかかったりしていた。
ラルフの後ろでは、勇者様が彼らに話しかけようとする人たちを、やんわりと押し戻していた。
賢者様と聖女様は、丁度ラルフを嗜めようとしてくれてたみたいで、むすっと怒り顔をしていた。
「ラルフ」
私は小さく彼の名前を呼んだ。
ラルフはハッとして、私がいる酒場の出入り口の方をすごい勢いで振り向いてきた。
ラルフはまるで一瞬で正気に戻ったかのように、みるみる赤かった顔が真っ白になって、それまで笑顔だった表情もすっかり抜け落ちていった。
そして、周りの女の人たちに「ちょっとごめん」と断りを入れて、私のところにやって来た。
「アン、どうしたの?」
ラルフは、まるでこれから叱られる子供のように不安そうに見つめてきた。
「少し話したいんだけど、今、いい?」
「……うん……」
私はラルフを連れて、またあの噴水のところまで行った。
夕方過ぎで暗くなり始めていた公園は、人もまばらだった。
ラルフの尻尾は、しゅんと垂れたままだった。
いつものように噴水の縁に二人して座る。
いつもとは違って、二人の間には少し隙間ができていた。
「別れましょう」
「えっ、でも、それだとアンが……」
私がキッパリ伝えると、今更になってラルフが慌て出した。
「ラルフはもう私のことは好きじゃないんでしょう?」
「それは……好きかどうか分からないってだけで……」
「それを『好きじゃない』っていうのよ」
私は思い切って言ってやった。
「好き」が分からないなら、つまりそういうことじゃない!
久々に真っ直ぐに見つめたラルフの青い瞳は、酷く傷ついたような色をしていた。——でもね、絶対に私の方がその百万倍は傷つけられたんだから!!
「私が臥せってる間に見舞いにも来ないで、綺麗な人たちと楽しくやってたっていうし」
「いや、それは……」
「そ れ は?」
「……ごめんなさい……」
ラルフが大きな背を丸め、しゅんと項垂れる。
私が好きだった人は、こんなに情けない人だったかしら?
あれだけ大好きだった気持ちも、今はもう思い出せないくらいにすっからかんになってた。
それから後もう一つ、私には確認することがある。
「ラルフは、勇者様たちと一緒にまた旅に出るんでしょう?」
「え、それは、その……」
ラルフの視線が泳ぐ。彼の尻尾も、そわそわと落ち着きなく揺れている。
彼のことだもの。癪だけど、長い付き合いだから、きっとラルフはまた旅に出たがるんだろうな、ってことは分かってた。明るくて人懐っこくて何事も陽気に楽しめる彼にとっては、旅は刺激がいっぱいで、きっと毎日が楽しい生活なんだろうって。
私は家族も店もあるし、今のこの街での生活のことも気に入っているし、ここを離れる気は無い。
でも、旅の楽しさを知ってしまったラルフをこの街にずっと留めてしまうのも、彼に悪いなって考えてた。——そんな悩みも、もうする必要もなくなるけど!
「いってらっしゃい。でももう私はラルフを待たないわ」
「そんな……!」
「だってそうでしょう? 別れるんだから」
「ゔっ……」
ラルフは見捨てられた仔犬のように悲しそうな表情をしていた。
でも彼の尻尾は、どこかワクワクと嬉しそうに揺れていた——本当の気持ちを隠しきれていなかった。
「じゃあね、そういうことだから。さようなら」
「待ってよ、アン!」
話すことは話したし、私はサッと立ち上がった。
すかさずラルフが、きゅっと私の腕を掴む。
「……私のこと、好き?」
「ゔっ……」
呼び止めておきながら、そこで詰まるんじゃないよ!
余計に傷ついたじゃない!!
ラルフの手が緩んだ隙に、私は思いっきり腕を払うと、さっさと家の方に帰って行った。
——彼もここまでくると、別れられてむしろ清々しいくらいだわ!!!
「あの、アンさん!」
家までの帰り道で、私は不意に呼び止められた。
振り返ると、息を切らした聖女様がそこにいた。
「本当にごめんなさい! 私が焦って強い魔法を使ってしまったばかりに……!」
聖女様が勢いよく頭を下げた。九十度よりも、もっとだ。
「いえ、もう本当に謝らないでください。それに、お礼を言いたいのは私の方なんです」
「えっ……?」
私ができるだけ穏やかにそう伝えると、聖女様は驚いてパッと顔を上げた。
「私は今までラルフの番だってことで浮かれてたんだと思います。彼の番じゃなくなって初めて、彼が私のことを『番だから』っていう理由だけで『好きだ』と言ってくれてただけなんだって気づいたんです」
番だから、本能だから、私のことが好きだったなんて。
そんな理由には気づかずに、私はかっこいい彼から「好きだ」「愛してる」なんて囁かれて、完全に舞い上がってた。
彼が旅に出たあの二年前も、「私が彼の帰る場所なんだ」ってプライドを持って見送った。
でも、彼が「番」という絆を失って、他の女性に目を奪われるようになって、私のことを好きかどうかも分からないって言い出して、彼はただ本能のままに動いてるだけなんだって気づいた。
──でもそれって、ちっとも私自身のことは見てくれてないってことだよね?
番だったラルフから言われてきた褒め言葉が、頭の中をよぎった。「可愛い」「大好き」「愛してる」「アンのこと以外考えらんない」──どれもこれも言われて嬉しい言葉ばかりだけど、どれも本能からただ垂れ流してる口先だけの言葉だったんだね。
一緒に街を歩いた時、彼の視線の先には、綺麗で華やかな女性たちがいた。さっきの酒場でもだ。彼女たちはみんな、地味で平凡な色合いの私とは全然違うタイプだ。
きっと「番」という頸木が無かったら、本来はああいう女性たちが、ラルフにとって好みのタイプなのかもしれない。
番の絆を失くした私は、本来の私自身で勝負するしかない。
当たり前のことだけど、容姿だけが恋愛の全てじゃない。
だけど、恋愛において何を重視するかは、人それぞれだ。
──なら、今のラルフは……?
「たぶん、今の彼を無理に引き止めても、先が見えてしまうと思うんです……彼はきっと、私以外の素敵な女性を見つけてしまう」
本能のままに、ね──
「それって、本当の愛でしょうか?」
私は真っ直ぐに聖女様を見つめた。
聖女様の、澄んだ泉のようなアクア色の瞳がたじろぐ。
「……ゔっ、そうですよね。そんなの辛すぎて見てられないですよね……」
聖女様は、私の代わりにボロボロと泣いて抱きしめてくれた。
聖女様が、私とラルフの番の絆を消してしまったことを、全く気にしてないって言ったら嘘になる。
でも、聖女様も世界を救うために命がけで戦ってくれたのだし、魔法が暴発したのだって事故なんだし、何より初めから誠心誠意謝ってくれたから、どうしても責めようっていう気持ちは湧かなかった。
もし「番の絆」を犠牲にしてなかったら、暴発した聖魔法を浴びて、ラルフ自身の命が危うかったかもしれない──そう考えたら、結局彼の命には何ものも変えられなかったと思う。
それに、番の絆が消えていなかったら、以前のままのラルフがこの街に戻って来て、そのままの流れで結婚していたかと思うと……今の彼の状態を知ってしまった私からしたら、「それって本当に幸せなの?」って疑問に思っちゃう。
私がぐだぐだ考え事をしていると、聖女様と私が同時にぽわっと淡く光った。
「あの、聖女様? これは……?」
「ささやかですが、祝福です。本当はあまり人にかけてはいけないのですが、あなたにはご迷惑をかけてしまったので……内緒ですよ? あなたに良きご縁が巡ってきますように」
聖女様は、べそをかきつつも微笑んで答えてくれた。笑うとあどけない感じがして、とても可愛らしい人だ。
たぶん、なけなしの魔力を使ってくれたのよね?
こんなことに使っちゃっていいの?
でも、祝福をかけてしまったからにはもう元には戻らないだろうし、私はただ「ありがとうございます」とお礼を言っておいた。
聖女様が本当に魔力を回復される日がくるのは、いつになることやら……
結局、ラルフは勇者様たちと一緒に、世界中に散らばってしまった伝説の剣の欠片を探す旅に出ることになった。
世界中を旅するから、次に故郷に戻って来れるのは何年先になるか分からないって。
聖女様も、罪滅ぼしに同行されるみたい。
私に祝福を授けてくださったから、またしばらくは魔法が使えないはず。
私が「大丈夫なんですか?」と小声で確認したら、聖女様は「私、実は武闘派なんです。魔力が無くても戦えますし、散々野宿もしてきたので、問題ないですよ?」とケロリと答えられた。
──さすが、魔王を倒されただけのことはある。相当なタフだ。
勇者パーティーがこの街を去った後、私は聖女様の祝福のおかげか、モテ期に突入した。
今まではラルフがいたから、誰も私に近づけなかったみたい──彼は、番犬としては優秀だったのかもね。
私は新しい恋をして、今はとても穏やかな日々を過ごしてる。
お相手は人間の男の人で、ラルフみたいにかっこいい感じではないけど、一緒にいてホッと安心できる優しい人だ。
彼はお客さんとも喧嘩しないし、私が店番しても、他の男の人と普通にしゃべっても怒らない人だ。当たり前のことなんだけど、そこに気を遣わなくていい分、彼と一緒にいることがラクで本当にありがたいなってしみじみ思ってる。
運命の番って素敵だと思う。
でも、その分、やっぱり辛いことも多かった。
今は、何も無いことが、逆にありがたい。
あ! それから嬉しいことに、来年の春には新しい家族が増える予定だ。
番って、酷い時には自分の子供にも嫉妬することがあるらしいから、人間の彼にはそんなことは無さそうで少し安心してる——
***
《ラルフ視点》
魔王を倒した時、眩しい聖魔法の光の中で、僕の中の何かにヒビが入ってパリンッと割れる感覚があった。
光が収まった後、勇者アクスは呆然と空を見上げて立ち尽くしてるし、聖女ソフィアは気を失って倒れてるし、賢者イーライは何か真っ黒な物を握りしめて座り込んでいた。
なぜか、僕だけが何もなく無事だった。
とにかく、ソフィアは倒れてちゃってるし、魔王はもういないんだから、元気な僕が彼女を担いで、イーライを揺すって正気に戻させて、最後に滞在した街まで転移魔法で戻ってもらった。
僕が身代わりにしたもの——それは、転移で戻った街で判明した。
ソフィアを街の診療所に届け、治療を受けさせて一段落した時だった。
とにかく宿を取ろうと、僕とイーライで診療所を出た。
その時、たまたますれ違った若い女性に目がいった。
とても不思議な感覚だった。まるで悪い魔法から目覚めたような気分だった。
通りすがりの女性が、色鮮やかに見えたんだ。淡い金髪はサラサラと風に靡いていて、白い肌に小さな鼻、整った顔立ちの綺麗な人だった。
彼女が過ぎ去っていく姿が、スローモーションのようにゆっくり、くっきりと見えた。
「あの人、綺麗だね」
僕はいつの間にかひとりごちていた。
「はぁ? ラルフ、お前こんな時に一体…………はぁあ゛っ!?」
隣を歩いていたイーライが、急に素っ頓狂な声をあげた。
その夜は宿の部屋で、僕はアクスとイーライから質問攻めにあった。
ソフィアは療養のため、診療所の方に泊まっていた。
「いいか、正直に答えてくれ。決して誤魔化すなよ?」
イーライが僕の両肩をがっしりと掴んだ。なんだか真剣すぎて恐い顔をしてる。
「……ああ、急にどうしたの?」
「ラルフの身代わりになったものが何か、分かるかもしれないんだ!」
アクスもイーライと同じような恐い顔をして、にじり寄って来た。
「……うん、分かった……」
イーライとアクスの気迫に負けて、僕は訳もわからないまま頷いた。
こうして、僕の中から「番の絆」が消えていることが判明した。
アクスとイーライは酷く頭を抱えていた。「ラルフを無事に帰すと約束したのに……!」と二人はブツブツと呟いていた。
僕は「別に怪我はしていないのに」と思ったけど、二人の様子から口に出すのは止めておいた。
後から目が覚めたソフィアにも報告したら、彼女はショックのあまり倒れてしまった。その瞬間に、ソフィアは診療所にまたもう一泊することが決まった。
「番の絆」を失くしたはずの僕が一番、実感が湧いてなかった——目の前に番のアンがいないからかもしれない、とその時は軽く考えていた。
魔王討伐に成功したことを王様に報告した後は、僕たちはすぐに僕の生まれ故郷の街に向かった。
二年ぶりに会ったアンは可愛いんだけど、あまりパッとしない感じがした。
アンは小柄で幼めな顔立ちで、可愛らしい感じだ。でも、ブラウンの髪にブラウンの瞳は人間にはよくある色合いで、少しだけ地味に見えた。
アンに愛着があるにはあるけど、以前みたいな「彼女じゃなきゃいけない」ような狂おしく愛おしいみたいな感覚はなくなっていた。
二年ぶりに聞いたアンの声も可愛いとは思うし、久々に嗅いだ彼女の匂いも、懐かしくて落ち着く好きな香りだった。
でも、以前みたいに胸を締め付けるような何かは感じられなかった。
──そのことが、なんだかショックだった。これが「番の絆」を失くすことかと理解した。
でも、それと同時に自由も感じられた。アンだけに縛られない自由だ。
人間には番という概念は無いし、誰を好きになっても構わないという自由がある。
そう考えると、獣人は番に囚われて、それこそ番を失ってしまえば心身共に弱ってしまうから、なんだかとても不自由だなって思った。
あんなに僕の世界はアンだけで彼女中心に回っていたのに、今では「世界には他にも女性はいるんだ」と当たり前のことに納得している自分がいて、今まで狭かった僕の視野が一気に広がった感じだった。
目から鱗が落ちたような、真理を悟ったような、やけにスッキリした感じだった。
二人きりで話し合った後、アンが「ちょっと考えたい」と言っていたから、彼女のことはそっとしておいた。
その後、アンの具合が悪くなったとも耳にしてはいたけど、どんな顔して彼女に会えばいいか分からなかったし、見知らぬ人とお酒を飲んで楽しく過ごす方が、パーッといろいろ忘れられて気がラクだった——僕はあの時、逃げたんだ。番だったアンから。
——そして、僕はアンに振られてしまった。
確かに、番の絆を失って、アンのことを本気で好きかどうかも分からなくなっていた。新しい人たちと出会うことの方が、新鮮で刺激的で興味がそそられたのも事実だ。
でも、アンのことを嫌いになったわけではないし、情が何も残っていないわけでもなかった。
でもアンの「私のこと、好き?」っていう質問には、すぐには答えられなかった。
僕に「いってらっしゃい」と告げたアンは、今まで見てきた中でも一番冷たい顔をしていた。
この時僕は、実際に番の絆が消えてしまった時よりも、とてつもなく大切な何かに見捨てられてしまったような喪失感を味わった。
その後、僕は伝説の剣の欠片を回収する旅について行くことを決めた。
——あれから五年。
伝説の剣の欠片の回収が終わって、僕は久しぶりに故郷の街に戻って来た。
いまだに僕の中の「番の絆」は壊れたままだ。でも、五年前のあの時よりは、まだ回復してきているのかもしれない──久々にアンの顔を見たいと思う程には。
五年の間に、街並みは随分と変わっていた。
でも僕の足は、自然と通い慣れた道を歩いていた。
煉瓦積みの見慣れた薬屋には、店番のアンがいた。
五年の間にぐっと大人っぽくなったアンが、カウンター越しに笑顔でお客さんとおしゃべりしていた。
彼女の笑顔に、僕はなぜかホッと安堵していた。
失くしてしまった何か大切なものを見つけ出せた時のような、心の強張りが抜けたような安心感だった。
しばらくすると、店の奥から薬の袋を持って、幼馴染のグレンが出て来た。
グレンの後には小さな女の子がついて来ていて、その子はカウンターによじ登ると、バイバイと小さな手をお客さんに振っていた。
アンとグレンも、笑顔でお客さんを送り出していた。
僕は思わず、彼らに見つからないように顔を隠してその場を足早に去っていた。
街の中央にある公園の噴水——よくデートで来ていたところだ。
その縁に、腰かける。
息を吐いて、ドクドクと嫌に鳴り響く鼓動を落ち着かせる。
少しだけでも、アンが元気なことが、彼女の笑顔が見れて、僕はホッとしていた。
でもそれと同時に、僕以外の誰かと一緒に笑い合っているアンを、これ以上見ていたくないとも思った。
きっと、アンはグレンと——
僕がこの街にいたら、きっとアンの今の暮らしの邪魔になってしまう。
僕はそっとこの街を去ることにした。
微かに軋む胸を押さえて──
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