隣の部屋の表札が日替わりバージョンアップしてるんだが、これって正常?【 short short story】
名前とは、他者が自分を認識するための仮の輪郭。
それが少しずつ歪み始めたとき、私は初めて自分という存在の不確かさに気づいた。
すべては、あの部屋の表札が変わった朝から始まった──
賃貸マンションの薄暗い廊下を歩きながら、僕は深呼吸をした。
新生活――念願の一人暮らしを始めて二日目。
まだ段ボール箱が半分ほど残り、部屋にはどこか不安定な静けさが漂っている。
だが、そんな不安よりももっと根本的な違和感に気づいたのは、ポストから新聞を取り出したほんの一瞬のことだった。
──隣の部屋の名札が、昨日と違っている。
初日に挨拶に来た青年は「鹿島茜」と名乗っていた。
女性の名前だったから、僕も「お隣は女性なのか」と納得していたのだが、今貼られているのは「風見颯太」という男性名だった。
紙は手書きで、雑に切り取られている。
どう見ても、昨日の名札を剥がして貼り替えた痕跡が生々しく残っている。
僕は思わずポストを閉じ、向かいのドアへ目をやった。
廊下の蛍光灯はチラつき、どこか不気味だ。
まるで僕の疑念を煽るかのように──
三日目の朝、名札は「栃木凪沙」に変わっていた。
女性名が戻ってくるあたりも、どこか巧妙だ。
四日目は「桜井柊」、五日目は「若林拓海」――性別も年齢もバラバラ。
だけど廊下ですれ違うのは、あのスーツ姿の男一人。
「茜さん」「颯太さん」と幾度も挨拶したが、顔も声も変わらない。
ある日、意を決して声をかけた。
「ねえ……少し聞いていいですか?」
彼は不思議そうに眉を上げ、僕の視線を受け止めた。
「オンラインのSNSでも、匿名で名前や性別を変えられるでしょう?ここではそれを、リアルでやっているだけなんです」
そう言ってスマホの画面を見せてくれた。
そこにはマンション共有のLINEグループが開かれていて、彼はいくつものアカウントを操っていた。
――――
梢@回覧班:今日のゴミ出し当番をリマインド
颯太@DIY部屋:家具修理のお誘い
凪沙@お茶会:お茶会の開催案内
柊@防災委員:防災訓練の連絡
拓海@観賞魚部:熱帯魚鑑賞会の告知
――――
どのアイコンも同じシルエット写真──
しかしプロフィール欄の口調は性別も性格もバラバラで、絶妙に“それっぽい”。
「住人同士の繋がりが希薄な今の時代、人はこういう仮面をかぶりたがる。誰かに干渉されたくないから、匿名性を選ぶんです」
「でも、匿名扱いされると、逆に素顔をさらしたくなる──そんな心理が面白くてね」
彼は軽く笑い、廊下へ背を向けた。
僕は最初こそ驚いたが、すぐに慣れて「今日の隣人は誰かな?」と楽しむようになり、深刻には受け止めず違和感を抱えながら日常の一コマとして流していた。
だが五日目の夜、僕のスマホにこんなメッセージが届いた。
――――
「明日、あなたの番です。好きな名前を決めておいてくださいね」
――――
送信者は登録外の白紙アカウント──
アイコンもデフォルトのシルエット。
通知音だけが、奇妙に冷たかった。
僕は返信しようと指を動かしたが、その手が止まる。
名前を、変える?
誰かになりすまし、誰かを演じる?
翌朝ドアの下に差し込まれていたのは、小さな木製プレートだった。
そこには――見たことのない名前が彫り込まれている。
そっと拾い上げると、どこからともなく低い声が囁いた気がした。
「──次は、あなた自身かもしれませんね」
僕の手は震え、名札はきしむように硬い感触を残した。
廊下へ視線を向けると、隣のドアの名札もまた、新しい文字に塗り替えられている。
そして僕はふと、自分の足元に目を落とした。
膝まで伸びる長い影が、床にひとつだけ伸びる──
その影は、木製プレートの影と重なり合い、どちらが本当の“僕”かわからなくなるほどに交錯している。
廊下の蛍光灯がちらつき、時間は止まったかのように静かだ。
微かな風も流れないはずのこの空間で、僕はひとり囚われたように名札と影を見つめ続けていた――
名前なんて、ただのラベルだ。
そう思っていた時期があった。
けれど――ラベルが変わった途端、人は自分を見失う。
あるいは、自分以外の誰かになれる気がしてしまう。
ネットの中では当たり前のことが、現実で起こると急に背筋が寒くなる。
もしも明日の朝、自分の表札が違う名前になっていたら──