第四夜 「魔塔の賢者と美しい精霊」2
「マリカ…。今頃、アラーウッディーンは何をしているかしら…」
「さぁ?」
軒下の椅子に腰掛けて赤子を胸へ寄せながら、ルゥルゥはマリカへ問いかけた。マリカは気のない返事を返す。
アラーウッディーンが置き手紙を残して、ルゥルゥへは何も告げずに出て行ってから二月が過ぎた。
「ハリールはいいのよ…。魔人なんだし…。怪我することなんてないと思うの…。でも、アラーウッディーンは普通の人間でしょう?」
「まぁ…。そうだね…」
アラーウッディーンまでいなくなってしまったルゥルゥは気力を無くし、以前よりも増して家へと引き篭もってしまった。
薄暗い家の隅で気配さえ感じさせない亡霊のように窓の外をずっと眺めているルゥルゥ…。そこへ本当に存在しているのか、マリカは不安に感じた。
ルゥルゥはずっと窓際でアラーウッディーンの姿を探していた。
当初、自身の生活に無関心なルゥルゥの面倒をマリカはみることができなかった。マリカも小さな乳飲み子がいる。
それでも、毎日、ルゥルゥの様子を確認するため訪問していたのだが、そのとき、ルゥルゥはマリカが共に連れてきた赤子に反応したのだ。
赤子の存在に気づいたルゥルゥは触ってもいいか尋ねてきた。もちろん、二つ返事でマリカが了承すると、ルゥルゥは恐る恐る乳児の手をそっと握った。
子供らしい高い体温がルゥルゥの肌へと伝わり、ルゥルゥの頬も桃色へと染まる。ルゥルゥの目からは雫が滴り流れた。
我が子ながら…。グッジョブっ!
無表情だったルゥルゥの表情が緩み、感情が表へ現れた。マリカは愛しい子供の健闘を讃えた。
どこまでも続く蒼穹、太陽は輝いて眩しい…。
マリカは洗濯物を干している。今日も洗濯日和だ。
マリカは家事のほとんどをルゥルゥ宅で行っていた。洗濯物は仕事へ行く前に夫が担いで運んでくれるので、マリカがルゥルゥのものと一緒に洗っている。昼食もマリカがルゥルゥ分も作って共に食事をした。
マリカはそれでも負担が減った。布おむつを変えたり、沐浴してくれたりと、ルゥルゥがずっと赤子の相手をしてくれるからだ。
赤ん坊の世話を焼いているとき、ルゥルゥは正気を取り戻す。
「アラーウッディーンって…。今は落ち着いたけど、昔は荒れていたでしょう?カッとなって誰かに喧嘩をけしかけて…。反対にやられていないかしら?」
「うんうん…」
マリカは勢いよくパンっと洗濯物を引っ張ってシワを伸ばす。小さな飛沫が散った。
「心配なのよ…」
「そうだな…」
ルゥルゥの肩がピクリっと反応すると同時に嬰児は顔を真っ赤にして泣き始める。
「あっ…。泣き出したわ…。そろそろお腹が空いたんじゃない?私、お乳は出せないから…」
ルゥルゥはもちろん赤子と話せないのだが、何故か意思疎通が可能なようで、ルゥルゥが推測することはだいたいが間違っていなかった。
「あはっははっ…。ルゥルゥからお乳が出たらビックリだよ!はいはい、今、飲ませてあげるからねぇ…」
洗濯物を籠へと戻しマリカはエプロンで手を拭く。急ぎ足でルゥルゥへ近寄ると、ルゥルゥは慎重にマリカへ赤子を渡し椅子を譲った。
「あなたも立派なお母さんになったわね?」
マリカはおもむろに上着をめくり、乳房を乳児の口へ優しく押し当てる。嗚咽を繰り返していた赤子だったが、やがて一生懸命におっぱいを吸いはじめた。
「立派かどうかは分かんないけど…。ルゥルゥが子育てを手伝ってくれているから…。ちゃんとアタイもお母さんが出来ているんだと思うよ」
先ほどまでぐずっていたのに、丸い目をしてマリカの顔を仰いでいる赤子をルゥルゥは柔らかな眼差しで見つめた。
「そう?」
「うん、そうそう…。だから…。アラーウッディーンは必ず帰ってくるから、それまでこの子の面倒を一緒にみてくれよ?」
「そうね…。えぇ…。そうするわ」
甲高い鳥の鳴き声が聞こえ、二人が空を見上げると鳶が遥か遠く円を描きながら飛んでいた。
その頃、アラーウッディーンはザハブ砂漠を横切り、タナーニイーン・ウッシュの洞窟を目指していた。途中で見かけた胡楊の小枝を折って、咀嚼しながら歯磨きをした。
駱駝へ跨がり地図を広げ、現在の場所を確認する。地図の読み方はハリールから習ったものだ。
「自然と一体になれ…。太陽に月、星座、そして地面へ落ちる影、全てがお前の道標となる。それらを確認して地図を見るんだ…。砂漠なんぞ踏みいれてみろ?もう魔塔が拾ってくれる年齢でもない…。闇雲に進めば確実に干からびて死ぬ…」
アラーウッディーンが思い返してみれば…。ハリールは子供たちへ生きるために必要な知識を熱心に指導していた。
最初はルゥルゥが幼いながらも覚えていた知識を活用して、孤児たちへ文字を教えていた。それをもどかしく思ったのか、いつからか率先してハリールが教授し始めていた。
「アイツ…。あぁ見えていい奴なんだよな…」
ハリールはアラーウッディーンを邪険に扱っていたが、アラーウッディーンが教えを乞えば、他の子供たちと同様に差別することなく対応してくれた。時間が経つにつれ、ハリールの態度が柔軟になっていたようにも思う。それでも顔を突き合わせれば、いつも揶揄われていた。
父親といえばぶん殴られそうだ…。歳の離れた兄…。ハリールはアラーウッディーンにとってそのような頼もしい存在であった。
ルゥルゥが作った小さなコミュニティは、血の繋がりのある兄弟もいたがほとんどが赤の他人で、疑似家族のようなものだった。
だが、アラーウッディーンにとってはあの場所はかけがえのない我が家で、ルゥルゥやハリール、孤児たちは本物の家族だった。
「だから…。アイツが嫌がっても、絶対にルゥルゥのところへ一緒に戻るんだ!」
ルゥルゥがアラーウッディーンのことを心配しているとは露ほども知らず、アラーウッディーンは捜索で集めた情報のもと、タナーニイーン・ウッシュへ向かうのだった。




