133話 アイドルという人種
―― ルルーファ・ルーファ ――
令和の世に来て、人間を殺したいと思ったのは初めてだった。
血まみれで横たわる佐藤のり子の姿を目撃するまで微塵にも思わなかった。
藍川アカルと言葉アリアのライブを初めて目の当たりにした瞬間。令和という世は平和に満ち溢れていると確信した。ファンが応援し、アイドルが応える。浄化された理想郷が確かに広がっていた。自身がアイドルVtuberとなり、リスナーとの交流を重ねることによって、かつての確信は間違いではないと思うようになった。尊い未来が待ち受けているものだと胸を躍らせていた。正義で。使命で。理念で。流儀で。勅命で。義務で。教義で。そんな薄っぺらな理由の人殺しとは無縁の世界であると、俺は内心で安堵していたのだ。
だが、甘かった。やはり人間の根本には悪意がへばり付いているのだ。腐敗した湖底に沈む汚泥のように。
自らの欲望を優先し、他人の生命を軽んじる人間は、どの世界にも存在するのだ。人間という、どうしようもなく愚かな生き物が社会を形成する限り、例外は無かった。その楽観視の結果が血まみれの佐藤のり子である。野心と狂信と裏切りの世界に身を置き続けた自分とは思えぬ、悠々自適に甘えた思考に反吐が出る。完全に盲目だった。
理想はどこまで突き詰めても理想なのだ。叶わぬからこそ理想。作れぬからこその理想郷。その真理に気づいたからこそ、かつての俺は人殺しの集団を率いていたのではないのか。
やはり俺は他人を幸福にする権利など持っていなかったのだ。少なくとも、迸る怒りを暴力と殺人で鎮めようとする人間に、アイドルなどという高貴な役割を担う資格は無い。
俺は銀星団に――人殺しに戻るべき人間だったのだ。
であれば、やることは決まっている。大切な女を救い、怒りに身を任せて敵対する全ての悪を殺し、かくして老兵は闇の中へ去る。これが俺の最善。世界が待ち望む或るべき姿。
……そう思っていたのだが。
「もういいよ、ルル。十分だ」
俺の行いを最も応援するはずの女に、その決断を阻まれた。理解ができん。
「いつから目が覚めていた?」
「ええとその……なんかよく分からん剣でルルが部屋の壁を粉々にしたあたりから」
「騒がしかったな。悪かった」
「いや別に。寝てたいワケじゃなかったし……ヨーミたちは?」
「無事だ。進が保護してシズ嬢の関係者に預けた」
「そっか……よかった」
「で。なぜ俺の前に立つ。佐藤のり子」
苛々が嵩み、つい語気が強くなる。お嬢のためにやったことを、本人に否定されては気分が良いものではない。
「私が酷い目に遭ったからルルは怒ってくれたんだよね? 取り巻きをお仕置きして、こいつに鉄槌をカマそうとしてくれている。その気持ちは嬉しいよ。
でも何度も殺すってのは、いくらなんでもやりすぎだよ。もう分かったから。もう気持ちだけで十分だから。これ以上は――いくらこいつでも、ちょっとかわいそうだ」
「君はこの女に殺されたのだぞ? 君の友人も、酷い目に遭わされたのだぞ? それを『かわいそう』のひと言で水に流すのか?」
「今でもこの女は憎いよ。ぶん殴りたいよ。ルルの気持ちも分かるよ。それは分かっているんだけど……それでも、もう十分なんだよ。一番の被害者の私がいいって言ってるんだから、もうこの件はおしまいにしよう。あとはそこの眼鏡の警察官さんに任せて、もう帰ろう」
「寝言は大概にしろ、小娘」
あまりにも身勝手。あまりにも一方的。その生意気な顔面を引っ叩きたい衝動にさえ駆られる。
お嬢の脇をすり抜けて女の横に立ち、風剣の刃先を女の首筋に突きつけた。いつでも殺せるように、脅しの意志も添えて。
「……っ」
さすがのお嬢も一瞬ひるんだが、それでも一瞬だった。風剣の刃を素手で掴みつつ、意志の強い瞳で俺を睨み返す。
「脅しても駄目です。とにかく、この女がもう抵抗しないなら、これ以上ルルに手出しはさせません。駄目なものは駄目です。私は頑固だぞ、ルル」
「幾万の悪を斬り捨ててきたからこそ断言できる。その女は生粋の悪ぞ。改心の余地すら無いほどだ。故に、こやつは繰り返す。必ず繰り返す。いま絶たねば再度お嬢の命を奪う。そして平穏を享受する民草には億の害を生み、一の利も出さぬ。生かす価値なぞ皆無だ」
「分かってる。ルルの判断はいつだって正しい。過激すぎるけど、今回だって正しいと思ってる。こいつは守る必要もない、どうしようもないクズな女だって納得できてる。私はガキんちょの我儘を言ってるだけだって……ただの綺麗事なんだって……理解してる」
「ならば何故立ち塞がる。俺は適解を示した。君も解を示せ。示せないならば、どけ。邪魔だ」
「私はこれ以上ルルに暴力をふるってほしくないんだ。人殺しだって、させたくない。暴力をふるったって不幸が起こるだけだ。私の顔みたいに。私が殺されたように」
「俺は君とは違う。力をふるった先の身の置き方を誰よりも理解している」
「敵は全員殺すのか? 問答無用で拒絶するのか?」
「力が及ぶのならば。だが、この世界の人間が俺に届くことは決して無い」
「そんな生き方、悲しすぎるだろ! 尚更させないよ、絶対に! 私と同じ道をルルに歩かせるもんか! あんな寂しいだけの時間、私の大切な人に味わせたくない!」
「今更だな。既に数え切れない命を奪ってきた。数人増えたところで誤差の範囲だ」
「今さらじゃない。人数の問題でもない」
「倫理観か」
「違う」
「正義感か」
「違う」
「では何だ」
「アイドルだ」
「……?」
「今のルルはアイドルだからだ」
「?????????」
アイドル。この問答に似つかわしくない単語。数式の問答を尋ねたら、歴史の偉人で返答されたような感覚。
お嬢の口調は穏やかだ。それでいて微塵の躊躇も無い。狂気の沙汰ではない様子が逆に俺の混乱を加速させる。
「……アイ……ドル?」
「そうだ。人殺しをやるアイドルがいてたまるか」
何だ? 何が起こっている? なぜ、たった4文字の単語だけで俺は動揺している? 確かに俺は人間の生死について語っていたぞ。アイドルという道楽の付け入る隙がないほど真剣に。
「私が慕っているルルーファ・ルーファは……ルルーナ・フォーチュンというアイドルは。相手の悩みをしっかり聞いて、その上で誰もが驚くようなベストアンサーで私たちを導いてくれる聖人なんだ。暴力なんて短絡手段は選ばない女なんだよ」
「勝手に理想を押し付けるな。今は現実の話をしている」
「理想くらい押し付けるよ。私も、ルルも。まだアイドルなんだから」
剣先の保持が難しくなり風剣を消す。すかさずお嬢は自らの身体を俺と女の間へ割り込ませた。
「いいかいルル。アイドルっていう存在はね。理想を語るところから始まるんだ。理想なきアイドルはアイドルにあらず」
「……理想なきアイドルは……アイドルにあらず」
「そうだ。無理だって鼻で笑われても、できっこないってバカにされても。それでも諦めずに前へ進み続けて理想を実現して、ファンへ夢と希望を与えるのがアイドルの使命なんだ。
だからいま、この女を怒りで殺そうとしているルルは私を失望させているぞ。ルルーファ・ルーファのファン1号を――私を悲しませるようなことをしないでよ。グレたヨーミを見たときのような気持ちには、もうなりたくないんだよ」
「お嬢が俺のファン1号……」
「当たり前だろ。出会ったときから大ファンだ」
「だが……」
「今の私の気持ちをルルにも分かりやすいように教えてあげるとだね。ナティ姉や七海ナナミ、言葉アリアが剣を振り回して誰かを殺すようなもんだよ」
「…………それは……」
「見たいか?」
「ン……ム…………」
殺そうと思っていた女を見る。お嬢が庇ったために余裕が戻ったのか、屈辱にまみれながらも生意気な眼光で俺を睨み返していた。誇りなき反骨。やはり間違いなく、この女はクズである。生かす価値は皆無。今すぐ殺しておくべきだ。戦乱の中で70年を生き抜いた俺なら分かる。銀星団の元団長として断言できる。どう考えても俺が正しい。
だが。
「……まいったな。これはまいった」
お嬢への反論が、まったく見つからない。
くだらないと一蹴はできるだろう。現実も理解できないガキの浅はかな思考だと、嘲ることもできるだろう。だが実行はできそうにない。お嬢を言い負かせるビジョンが全く見えないのだ。アイドルの理想像を語るお嬢の声には確固たる意志が宿っている。彼女の言葉があまりにも眩しすぎて、返す言葉が全く無い。
慧悟に視線を移す。慧悟は達観の表情で肩をすくめるだけだ。ああ、やはりか。お前が駄目ならもう詰みだ。お嬢は理を超えたのだな。
「駄目だ、お嬢。君の勝ちだ。俺は君の意志に従う。
ずるいぞ、お嬢。清楚の権化を引き合いに出されてしまっては何も反論できん」
「よっしゃ。完全論破ってヤツよ」
「理想を語るからには、姫にはしっかりと謝っておけよ。彼女だって間違いなく君のファンなのだから。君に心ない暴言を吐かれて傷心だぞ、彼女は」
「ふぐっ……」
「むはは。無血勝利をくれてやるには50年はやいぞ、小娘」
肩の力が抜ける。この場でやるべき仕事は終わりだ。お嬢を助けた。学友も助けた。敵は潰した。ここから先は慧悟の仕事だ。
「団長」
慧悟は俺たちに声をかけてから氷の壁を解除した。俺たちの意図を汲み取ってくれたようだ。
「後始末はお任せください」
「ああ、頼んだ。お前が成すべきことを成せ」
「了解」
慧悟は力の抜けた微笑みを浮かべながら返事をした。慧悟が任せろと発言した以上、もはや何も心配あるまい。奴らの悪さは未来永劫、広がらないだろう。
……とはいえ。
「後は俺の問題か」
「ええと、刑事さん。ルルってもしかして暴力的な罪で逮捕ですかね?」
「大丈夫です。この場の件は不問にしますよ。僕の全権力を以て、必ず不問にさせます。団長の言う問題は、もう少し別次元の問題でして」
「???」
「後で説明するよ、お嬢」
「お、おう」
この場に至るまで俺達がやらかしてしまった軽挙妄動を思い返して頭が痛む思いだ。そのおかげでお嬢は助かったのだから後悔などしていないが。せっかくお嬢が俺をアイドルと認めてくれたばかりというのに残念な気持ちだ。
「ルル?」
……いや。いま感慨にふけるのはよそう。ここに留まってはお嬢を不安にさせるだけだ。
俺は手を差し出した。
「大丈夫だ。帰ろうか、お嬢。皆のところへ」
「うん! 帰ろう!」
お嬢は嬉しそうに笑みを浮かべた。素敵な笑顔ではあるが、血と埃で汚れてしまっては魅力も半減だ。はやく身を清めさせねばな。
しかし、お嬢が俺の手を取ろうとした、その刹那。
「スカーフェイス……いや、紅焔アグニス! てめーが帰る場所なんて、もうねぇぞ!」
あの女はまだ闘志を燃やしていた。耳障りな声に思わず顔をしかめてしまう。
くだらんネガキャンをされる前に喉くらいは潰しておくか。踏み出そうとした矢先、お嬢が女の前に立ち塞がった。
「どうせ復帰を企んでるんだろ? 紅焔アグニスを擁護する声は上がっている。だがまだほんの一部だ。てめーを攻撃する奴はまだまだごまんといるんだぜ」
「………………」
「アンチって輩はてめぇの顔を曇らせることが生き甲斐だ。攻撃する口実が残っている以上、どこまでも粘着するぜ。その腐った顔面が残っている以上な!」
「………………」
「どうせ人気なんて戻らねぇ。それにVtuberなんてコンテンツ、注目なんてすぐに終わる。一過性のコンテンツに過ぎねぇよ。そのまま落ちぶれるのがオチだぜ」
「………………」
最後の悪あがき。もう何もできないなら、いっそ少しでも傷跡をつけようという魂胆だろう。お嬢も嫌そうな顔をしておる。
とはいえ心配はいらないか。だって佐藤のり子は、俺と慧悟を論破した女なのだ。感情論で。
「それじゃあクソ女、ひとつ約束しろ」
「言ってみろよ」
「悪いコトやりすぎて、どうせもうシャバに出てこないだろうけど……10年後でも20年後でもいい。もし奇跡的に戻ってきたら――」
お嬢はニヤリと不敵に笑いながら、言った。
「お前、紅焔ちゃんに貢げ。スパチャしろ。メンバーシップ入れ。グッズ買え。ファンクラブができたら入れ。紅焔アグニスの推し活しろ」
「っ……」
「そうしたら全部許してやるよ。慰謝料代わりな」
「……10年もVtuberが続くもんかよ。その頃にはてめーなんぞ時代遅れだぜ」
女の見解に対し、俺は内心で否定をしなかった。Vtuberはあくまでエンターテイメントのジャンルのひとつにすぎない。技術が発達した未来では代替するコンテンツに握りつぶされてもおかしくないだろう。
だが。
「ほざいてろ。10年後も勝つのは紅焔ちゃんだ」
自信満々の表情でVサインを作りつつ、佐藤のり子は断言した。
淘汰の未来を語るには時期尚早である。少なくとも佐藤のり子という未来のトップアイドルの前で語るのは。