死を待つ家
頼まれていた教室の掃除を終えて、教会の奉仕活動へ向かう。学校から外へ出ると気が楽だ。まるで吸う空気が入れ替わったかのように、気持ちが晴れやかになる。
そして、イヴは教会の高齢者や子供たちと接する時間がとても好きだった。
一人暮らしで家族がいないから、家が寂しいというのもあるが自分が誰かの助けになれることが何より嬉しかった。
いつものように教会のベルを鳴らすと、ジェコフ神父が顔を出す。笑うと目に皺が寄る、優しい顔で出迎えてくれる。
「こんにちは、今日はどの名前にするんだい?」
イヴはここで本名で活動することはほとんどなかった。誰かの奉仕活動の代わりで行うことが多く、それも神父さんは承知で自分を受け入れてくれている。
「ありがとうございます。ソフィアでお願いします」
「ソフィアだね。ちゃんとこっちでは、言われた通りの名前で学校へ通達しておくからね」
講堂の中へ入るとイヴを見つけた瞬間、子供たちが一斉に駆け寄ってくる。ガバッと勢い良く一番最初に抱きついてきたのは甘えん坊な女の子ムータン、横でスカートの裾を掴むのは男の子のロッタ。
「イヴっ!」
「ハープ弾いて」
「来るのが遅い!ずっと待ってたんだぞ」
そうやって唇を尖らせる男の子はティム。ごめんねと言って頭を撫でると、顔を赤くしている。
あんまり子ども達が懐いているから、子ども達だけには本名を教えてやってくれ、ということで実際に活動する時は自分の名前を名乗っていた。
「ごめんね、ちょっと待ってね」
駆け寄ってきてくれた子供達には申し訳ないが、イヴには気がかりなことがあった。
実は誰かに奉仕活動を頼まれなくても、放課後は毎日のようにここへ立ち寄っているのだが、最近は特に、ネイティというおばあちゃんの体が弱っており心配で足繁く通っていたのだった。
「あの、ネイティさんは?」
「イヴを待ってたよ。最初にそちらから行くかい?」
神父さんに頼んで、先に死を待つ家へ向かう。
この教会は孤児院、高齢者施設、死を待つ家が併設されていた。そして、孤児院には0才から11才の子どもが14人、高齢者施設には15人が生活している。
この高齢者施設からは、一ヶ月に1回程、死を待つ家へ移る人がいる。
寿命がきて食事や水分を取れなくなって、文字通りここでゆるやかな死を待つのだ。
離れにある一軒家のような白い建物。建物の中も白で統一され、部屋には大きな窓があり、外の庭を眺めることができ、天窓からも優しく光が差し込まれるようになっていた。
「ネイティさん、イヴです」
ベッドの上に横たわる痩せ細った体。掛け布団がかけられたその体はイヴの声に微動することもなく、ただ呼吸の動きで胸元の布団が上下に動くだけだった。
ネイティさんのベッド周りには元気だった頃に好きだった刺繍の飾り物や、医学や薬学の古い本など私物が置かれていた。
手をそっと握ると、指が少し動いたのが分かった。イヴが初めて会った時から、もうすでに病気のせいでまともな会話はできなくなっていたが、時折、ありがとうやさようならなどの単語を発することがあった。
人形のようにぼーっと一点を見つめ、声かけに反応してゆっくり黒目を動かす。時折、声かけに柔らかな微笑みを浮かべることもあった。
イヴは食事のお手伝いをよくさせてもらっていたが、次第に食事を飲み込めなくなって、発語や表情も乏しくなって、最近死を待つ家へと移ったのだった。
日に日に意識が薄れて、最後が近づいて来ているのが分かる。手足の先が紫色になってきて、呼吸も大分弱まっている。
こうやって高齢者を見送ることは、ここで何度か経験しているが、そんなイヴの目から見ても、ネイティの今の状態は、今夜、天に召されてもおかしくない状態だった。
ネイティさんは若い頃、薬師だったと聞いた。自分よりも人のために働く人で、とても優しい人だったと。確かに、そんな優しさが垣間見えるような人だった。
一瞬、眉をひそめ、わずかに指に力がこもる。
「苦しいですか?」
問いかけに、もちろん返答はない。
ネイティとの思い出を思い出しながら、手をさする。確かに優しさが垣間見えるような、穏やかな微笑み方をする人だった。
きっと、この手でたくさんの人を助けてきたんだろう。薬だけではなく、たくさんの人の安心と笑顔を作ってきた。立派な手だ。
どうか、少しでも穏やかに終わりを迎えられますように、と。願いを込めて手をさすると表情がすっと和らいだものへ変わる。
「イヴ、そろそろ消灯の時間だから」
しばらくネイティの傍らで手を握っていると、シスターのトリシャに声をかけられた。ここに来てからすでに1時間は経っていた。外は暗くなり始めている。
死を待つ家の消灯は早い。しかし今日は更に早く感じた。おそらくトリシャも差し迫る最後を予期して、いつもよりも早めにネイティを休ませてあげたいと思っていたようだ。
「ごめんなさい。つい長居してしまいました」
「いえ、毎日のように来てくれてありがとうね。ネイティさんもきっと喜んでいるわ」
そう言ってトリシャは、銀皿に乗った草香を取り替えた。
香を焚き、ほのかに甘い花な柔らかい香りがする。イヴも大好きな落ち着く香りだ。
「良い香りですね。ラベンダーですか?」
「そう、今、裏庭で取ってきたの」
「昔、元気だったネイティさんからこの香りがよくした気がする」
「よく気付いたわね、ネイティさんの好きな香りだったのよ」
トリシャはずっとここでネイティの生活のお手伝いをしながらずっと一緒に過ごしてきた。
なんとなく目が潤んでいる気がする。
「きっと今夜お迎えが来ると思う。本当にありがとうね」
悲しそうに微笑むトリシャ。こちらこそ、とイヴは深くお辞儀をして、死を待つ家を後にした。
その後はいつものように高齢者施設の食堂へ向かい、皆の食事の準備に加わろうとしたが、すでに終わっていたため配膳だけ手伝わせてもらった。
自分で食事を摂れない高齢者の介助をし、終わったら下膳と食器洗いと食器の片付け。
「ごめんなさい、今日は食事の用意手伝えなくて」
そうシスター達へ詫びると、かぶせるようにイヴの2倍位の声量で「とんでもない」と返ってきた。
「良いんだよ、会いにきてくれるだけで皆嬉しいんだから」
「子供たち待ってるだろうから、もう行ってあげて」
そう言われ、孤児院へ向かった。
ジェコフ神父もトリシャも他のシスター達も皆、イヴを罪人の娘扱いすることはなかった。いつも気持ちよく迎え入れてくれる、本当に優しい人達。
「あ!イヴ帰ってきた」
「遅いよ、イヴ!」
孤児院へ行くと、子供達は広間で追いかけっこをしたり、お絵描きや本を読んで過ごしていた。
私が戻ってきたことに気づくと、また皆一斉に駆け寄ってくる。1人むくれている男の子のティムを除いて。
「遅くなってごめんね」
とティムへ声をかけると、むくれた顔のまま目線を上げて、
「……今日はハープ弾かないの?」
と、尋ねてきた。ティムはいつもイヴがハープを弾くのを楽しみにしていたのだ。
しかし、今日はどうしようか、と、困った顔をしてジェコフ神父に目を向ける。
ここで音楽を奏でれば、死を待つ家まで聞こえてしまう。ネイティさんが静かに最後の時を迎えようとしている時にハープを弾くのは、と気が引けたのだ。
「イヴ、聖なる雨音、は弾けるかい?」
全てを察したジェコフ神父がそう尋ねてきた。聖なる雨音は以前、トリシャに習ったことがある。
トリシャの足元にも及ばないが、一応それらしくなら弾けたと思う。
「ネイティさんの好きな曲だったんだ。まだ普通にお話しできていた頃、オルガンでよく弾かされたんだ」
悲しそうな、寂しそうな顔で話す。
「すいませんトリシャさんのようには弾けませんが、ネイティさんに届くように一生懸命弾かせてもらいます」
そう言ってハープの前に座ると、ジェコフ神父もオルガンの前に座って鍵盤蓋を開けた。
「ありがとう」
ジェコフ神父もきっと、子供たちを寝かしつけたら、ネイティさんの元へ向かうのだろう。
先程のシスター達も。皆一晩傍らで見守るつもりでいるんだろう。
聖なる雨音は、昔からこの国に伝わる曲のようで、起伏のない緩やかな旋律に、時折雨音のような繊細な音が加わる。
子供たちには退屈かもしれない。でも良い子守唄になったようで聴きながらウトウト寝始める子が出てきた。
どこか物悲しい旋律。
どうか穏やかに、最後の時を迎えられるように、と願いを込めながら奏でる。
その音楽はトリシャや他のシスターの元まで届いたようで、各々ネイティを思って指を組んで祈った。
どうか、どうか、穏やかな最後を迎えられますように、と。
演奏が終わる頃には、子供たちのほとんどが寝てしまっていた。
「寝かしつけに毎晩弾こうかな」
冗談混じりに言う神父だが、目元が赤い。
「イヴ、君が困るのは分かっているんだけど」
そう言って、銀色の箱に入ったものを渡される。中身を察して、深く頭を下げて丁重に受け取れないと伝える。
「ごめんなさい、受け取れないです。私みたいな立場の者をこうやって快く受け入れてもらえるだけで本当にありがたいんです。だから、どうか気を遣わないでください」
この押し問答は今日が初めてではない。
銀色の箱の中身は食べ物だった。
教会の食費は国民の税金で賄われている。罪人の娘がそれを受け取ることはご法度だ。もしバレてしまったら神父まで罰せられることになってしまう。それだけは何が何でも避けたい。
「いつもごめんね、君が困るのは分かってるんだけど、どうしても気が済まなくてね」
「いえ、いつも優しくして頂いて本当に嬉しいんです。本当に救いになってるんです」
「イヴ、うちに住まないかい?」
「え?」
「これは私と、シスター達の総意だよ。境遇なんて関係ない。こんなに優しい子が辛い目に遭わないようにしないと,ここなら最低限の衣食住を確保してあげられるからね」
「で、でも上の人に許してもらえるか」
「大丈夫、僕に任せなさい」
でも、そんなことをしたら神父の立場が、この教会の評判が、と返そうにも喉に熱いものが込み上げて声にならない。
やがてその熱いものは涙として目から溢れ出てきた。現実にはきっと難しいかもしれない、だけど自分のためにここまで思いやって動いてくれようとしていることが嬉しくてたまらなかった。
そんなイヴに、よしよしと、あやすように灰色の頭を撫でられる。
「君だってまだ子どもなのに、今まで辛かったね。よく耐えていたもんだ」
背中をさすりながら慰める神父に、イヴは涙で顔を上げられなくなってしまった。