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あなたになりたい

 男が手を伸ばした途端、聖理の体が一瞬傾いたものの、すぐに体勢を立て直した。


 一向の目にはそのように映っていた。けれど水澄には何かが見えていたらしく、『まずい!』と声を上げた。


 彼以外は何がまずいのか状況が理解できていなかったが、顔を上げた聖理の目を見た瞬間、皆が息を呑んだのがわかった。



 ここにいる聖理は聖理ではない。容姿こそ彼女のものに違いないが、浮かべる表情や漂わせる雰囲気は全くの別人のものだった。



 その人物は聖理のものである手で開いて閉じる仕草をしてみせ、しっくりきたとでも言うようににやりと口角を上げた。


 そして水澄へと視線を移し、声をかけた。



 「やあ、久しぶりだね」



 やはり声はいつもの聖理だが、その話し方も体の持ち主のものではなかった。それはまるで、近所の子どもに向けて発した青年の声のようだった。



 「あんた…志郎さんなんだな」



 心の中でやはりかと思う気持ちと、勘違いであってほしかったと落胆する気持ちの両方を抱えながら、水澄は聖理ーもとい棚田志郎を見つめる。



 他の一同はどうするべきか判断しかねているのか、動揺して動けないのか、ただ行く末を見守っている。



 いくつもの視線を受け止めつつ、水澄は続ける。



 「これが目的だったのか?」



 志郎は答えない。まるでその続きを言ってみろと言わんばかりに水澄を見つめ返すだけだ。



 「あんたがこんな手の込んだことをしてまでこいつらを集め、いくつものミッションとやらを与えたのは、このためだ」



 そこでゆっくり呼吸をし、覚悟を決めたかのように、水澄は続けた。



 「あんた…志郎さんは一度水月の館を失い、自身も人の体を失った。まあ俺も人のことを言えた立場じゃないけどな。


 それでもあなたは自分の夢を諦められず、考え抜いた結果、それまで誰も思いつかなかった方法に考えが至った。


 自分ではもう叶えることができなくなった。ならどうするか。他の誰かになってしまえばいい。言葉で言うのは簡単だが、実際にはそんなの不可能だ。


 だが、ここ…どちら側の世界でもないここに、あなたの最後の願い…ここまでくるともはや執念だな。それによってできたこの第二の水月の館では条件さえ揃っていれば、実体のないあなたが誰かに取り憑くこともできた。


 けれどその条件に当てはまる人間を見つけるのが大変だった。中途半端に適正のある人では拒絶反応が出る恐れもある。そこで行われたのがここでのミッション、要は試験だ。


 その最中にひっそりと採点し、条件の揃った人物を探していた。そしてそれが聖理だった。どこか間違っているか?」



 尋ねられた志郎はさも愉快そうに肩を揺らしながら、必死に声を抑えるかのように笑っている。



 「流石、水澄だな。全部正解だよ。やっと条件の揃った人物と出会えたんだ。そのおかげでお前ともまたこうして話せてる。もっと喜んでくれたっていいじゃないか」


 喜ぶ志郎とは反して、水澄は暗い表情だ。


 「俺はもうこれ以上、あなたに禁忌を犯して欲しくない」

 


 そこで楽しそうにしていた志郎の表情が固まる。



 「禁忌?そんなの知るか。それよりも俺たちの夢の方が大事だろ?お前もまた舞台に立って、それで…」



 「たくさんの人に認められる?俺はそんなのどうだってよかった。あのままでよかったんだ。そりゃあ新聞に載るような有名人じゃなかったけど、それでも俺たちを応援してくれる人たちはいた。

 

 あんたと芝居ができただけで、俺は充分に幸せだったんだよ」



 志郎の表情がますます硬くなる。



 「そんな…俺はお前のためを思って…」



 「あなただって最初はそんなんじゃなかった。1人の応援してくれる人をもっと大切にする人だった!だけど少しずつ欲が出た。それはきっと悪いことじゃない。でもあなたはやり過ぎたんだ」



 そこで長い会話が途切れ、水澄は肩を震わせて黙り込んだ。おそらく泣くのを我慢しているのだろう。



 「水澄…」



 その後に続く言葉はなかったけれど、視線がこう告げていた。



 『俺は間違っていたのか?』と。



 けれどその質問に水澄は答えない。



 身体の透けたその青年は声をあげることもなく、ただ静かに自分の頬を涙で濡らしていた。

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