何かひとつの
どこまできたのか。脚と肺が限界を訴えるまで、目的地もなく走り続けていた。
足を止めて周囲を見渡すが、どれも見覚えのないものばかりだ。
急に、まるで迷子の子どものように心細い気持ちになり(実際、今迷子なのだが)、杏奈はその場にしゃがみ込む。
(やってしまった)
頭を埋めるのはそのことばかりだ。
柳田から彼らの監査役を任されたことに、どこか浮かれていたのかもしれない。
自分は特別で選ばれたのだと思った。居心地の悪い日常からも逃げ出せるのではと言う期待もあった。
高校3年の夏を迎え、周囲は決めた進路に向かって努力している。
大学進学。就職活動。なのに自分は未だに希望をどちらにも決められていない。
この時期にそんな奴は学年でお前だけだと、進路指導の教師には何度も同じことを言われた。それでも決められない。親からも同じことばかり言われている。
学校にも家にもいづらい。いつしかそう思うようになり、あの日ついに家出をした。
荷物は最小限の、これもまた衝動任せの行動だった。思えば今も同じことをしている。
その上、何日も外泊できるほどの金銭を持っているはずもなく、早々に路頭に迷う羽目にあった。
そんな時、声をかけられた。不思議と、人混みの中からその声だけははっきりと聞き取ることができた。そして、それが自分に向けられたものだという直感もあった。
まるで、不遇な立場にある主人公が救いの手を差し伸べられる小説や映画のようだと思った。
思えばあの時の自分はどうかしていた。見ず知らずの素性の知れない男について行き、胡散臭い話に耳を傾けたのだから。
そんなことを思い返していると、背後に誰かが立つ気配がし、振り返る。
てっきり聖理か開あたりが自分を説得しにきたと思っていたから、その意外さに拍子抜けしつつ、軽い緊張を覚える。
「なんであんたが…」
その相手ー水澄は、杏奈と少しの距離をとったまま、こう告げる。
「あんたはあの人に似ている。棚田志郎に」
「は?」
意外な相手に意外なことを言われて面食らう。
似ている?自分が、あの人に?
つい頭にハイテンションな彼の姿がよぎり、即否定する。
「あいつのどこが…」
「あんたが見てきたあの人の多くの面は、あの人の本性じゃない。言ってしまえば演技だ。そうじゃなくて、正確に言い換えるとあんたは、昔のあの人に似ているんだ」
昔の彼。夢が叶わず、しまいにはそれを実現しようと無理な手段を選んだばかりに、大きな代償を支払うことになった男…。
そこまで考えると、一瞬で頭に血が上るのが自分でもわかった。
「ふざけんな!あたしもあいつと同じで惨めな奴って言いたいんだろ!?」
「違う。俺が言いたいのは、あんたもあの人も、ただ何かひとつでいいから、自分を好きになれるための何かが欲しかったってことだ」
思わず体がビクッと震えた。それまで考えたこともないことだった。なのに不思議と言葉が胸の中に落ちてくる。けれど、それを認めるのもまた哀れみを向けられそうで腹立たしい。
「何も知らないのに説教するな!」
そう叫びつつ、力任せに拳を振り上げる。人に殴りかかるのなんて初めてだった。それでもすぐに違和感に気づく。
全く手応えが感じられない。見ると、拳は確かに彼の胸の辺りに命中しているが、その周辺には渦のようなものが生じている。
思わず悲鳴を上げ、手を引っ込めようとする。しかし、それは彼の、思いの外力強い腕によって止められた。
「俺も同じだ。だからあの時、あの人を止めることができなかったんだ。だけどそう思うのはきっと、悪いことじゃない。人間ならみんなそうだ。ただ、あの人は手段を間違えてしまった。俺も同様に。その結果、こんな化け物みたいな存在になってしまった。だがあんたはまだ間に合う。どうとでもやり直せるんだ。だから」
ここまで一気に話し続けていた彼はそこで間をおき、強い意志のこもった目をして先を続けた。
「戻ろう。そして今の自分と向き合うんだ」
言葉にするのは簡単。けれど実際にはかなりの活力を伴うもの。とても怖い。それが正直な感想だ。
だが、そこで水澄の言葉が頭の中で蘇る。
『まだ間に合う』
高3の夏。もう手遅れだと諦めていた。だが今から自分と本気で向き合えたなら。まだ間に合うかもしれない。少なくとも水澄から見て杏奈はその状況下にいる。きっとあの言葉は、彼にとって羨望の意味も込められていたのかもしれない。
確かに自分は恵まれた環境にいながら、怠惰でその可能性を狭めていたのかもしれないと、今ならそう思えた。
「…ありがとう」
自分でも聞き取りづらいほどに小声になってしまった。その声は、いとも簡単に風に吹き飛ばされてしまう。
それでも、水澄はそれが聞こえていたかのように、杏奈と視線を合わせた後に『行くぞ』と、一言だけ声をかけ、どこかへと歩き出す。
きっと水月の館への道だろう。
杏奈は彼が背を向けた隙に、目に溜まった雫を袖で拭った。そしてすぐに、彼の後を追いかけた。