虚空
目を開けるとそこは、すっかり見慣れた景色となったあちら側だった。そして自分の体へと視線をずらしていく。
覚悟はしていたつもりだったが、自分の体が風に吹かれる水面のようにおぼろになっているのを目の当たりにすると、流石に絶叫しそうになった。
これでもう、自分は人の身ではなくなってしまった。
思い足取りで志郎を探す(足はすっかりぼやけてしまってほとんどその形が見えないが、実感はある)も、彼の姿は一向に見つけられない。
どれほど歩いたのか、いい加減疲弊しきっていた水澄は、そこでひとりの初老の男性に声をかけられた。
あの日、志郎に願いを取り消すように催促した、この世界の長だ。彼は水澄の姿を見ても驚いた様子はなく、ただ哀れみの目を向けるばかりだった。そしてこう告げた。
「あの人はここへは来ていないよ。あの人はここへ来すぎたし、無理な願いを突き通そうとした報いだろうな。ここへは来れない、でも元いた場所にも戻りたくないし、そもそも戻れない。そんな奴が行き着く先はひとつしかない。ここでもあちら側でもない、何もない場所…私たちは虚空と呼んでいるが。彼の半分はそこにいるよ」
そこで言葉だけの説明では限界があると思ったのか、長は懐から地図を取り出して、それを水澄に見せながら言った。
「この地図の中央に大きなギザギザした線があるだろう?これがあちら側とこちら側を、この地図上では大きく2つに分けている。本当はこんな線一本で分けられるようなものではないんだが、なんせ誰もきっちりと理解できていない複雑なことだからな。これで勘弁してくれや」
地図を見てみると確かに、ちょうど中央の辺りにギザギザの線が縦に引かれていて、土地がそこで2つに分かれていた。どうやら右側が水澄のもといた世界、左側が今いるこちら側を表しているようだ。
長はそのどちらでもない、地図の右上の端、ただ真っ黒に塗りつぶされただけの箇所を指差す。
「そんで、ここが今あの男がいる場所だ。ここは何もなく、ただ永遠の時間をひとり彷徨い続けることになる場所、私たちは『虚空』と呼んでいる。彼の半分は今そこにいる」
水澄は長の指差す『虚空』をじっと見る。見ているだけで気が遠くなりそうな黒。実際のその場もそんな場所なのだろうか。そこを永遠にひとり彷徨い続けるなど、想像しただけで身が震えた。
しかし、話はそれで終わらない。長は志郎の半分は虚空にいると言った。なら、残りの半分はどこへ行ってしまったのか。
水澄の疑問は予想していたのだろう。長は、すっかり避けてしまっている水澄の肩に手を置くと、まるで幼い子供に言い聞かせるかのように、ゆっくりと告げた。
「あの人のもう半分は暴走した欲望と恨みの感情が膨れ上がって、どうにもならなかったんだ。そんな状態では虚空にもいられない。おそらく全く別の姿になって、満たされない心を持ちながらどこかへ行ってしまった。そしてこのままでは無関係の人まで巻き込んでしまうことになるだろう」
水澄はただ呆然とする他なかった。自分も人の事を言える状態ではないが、それではもう人間ではなくなってしまっている。ただの化け物だ。
そして理性を無くした彼はこれから化け物として、無関係な人々までをも巻き込んでいってしまうのだろうか。そんなのは嫌だ。
自分がどうにかしなければ。まだ動揺が収まりきらない気持ちの中で、それだけは確かに思った。
長はそんな水澄を案じているようだったが、意思はもう固まっていた。
化け物を止められるのは、化け物だけ。
意を決した水澄は、まだ心配をし続けている長に別れを告げ、次の12時になると、再び水の中へと飛び込んだ。