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『黒木渚論』

『黒木渚論・・・芸術の天才の分岐点』

『黒木渚論・・・芸術の天才の分岐点』



黒木渚※の活動が、活発になって来た。7月には、ライブの開催も決定している。ベストアルバムが出るということは、恐らく、ライブも、音楽家としての、一つの集大成となるだろうことは、予想できるが、それにしても、この素晴らしい芸術家にとっては、大きな分岐点になるだろう。



何かが始まることは、何かが終わることで、何かが終わることは、何かが始まることである、こんな風に考えると、今回のツアーとベストアルバムは、黒木渚の偉大なる位置、を感じさせる。自分には、この芸術家が、音楽家であり、小説家であるという、二つの場所に、意味があると思っている。



例えば、『死に損ないのパレード』にある、「静寂にも飽きたころだろう?」という台詞には、時代の先を見通した、芸術家としての位置が見出せる。世界が静寂であることの、場所の発見は、奇妙にも、世界を前進させる意思の力が読み取れる。



静寂は良いことだ、しかし、静寂の位置だけには、留まっていられまい、という言葉の響きが、音楽と相まって、天才の明証となる訳である。また、本質的には、本物の芸術家は、芸術にどれだけ金と労力が掛かっても、芸術に手を抜くことはしないのだ。



だから、我々は、黒木渚の芸術に、期待するし、期待させられるのである。そして、ライブという空間の体現という、もう一つの武器によって、芸術は開花する。今回のライブにおいて、黒木渚は、大きな分岐点を迎えるだろう。停滞からの、必然的前進、ということである。世界が前進する様に、黒木渚も前進する。



日本の芸術史において、突如現れた、黒木渚は、黒木渚以前、黒木渚以後、として、位置を確保したのではないだろうか。類稀なる、芸術のセンス、言葉のセンス、そして、黒木渚の人間的魅力、芸術界に、突如として現れた逸脱的新しさが、今度は、黒木渚以前の芸術が、逸脱していたかのように映る世界が、日本の芸術界の先を行くだろうことは、自明の理だと、思われるのである。


まさに、天才の分岐点となるだろう。


※黒木渚という本名で活動されているので、黒木渚と表記していますが、決して渚さんを呼び捨てにしている訳ではないことを、ご了承願います。

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