虎は月を求めて、
「い、いきなりなんだ君は!? 私をリナトー皇国、第一皇子エルドフォ」
「ああ、いいから。こいつは貰ってくぞ?」
エルドフォルスの首根っこを引っ掴んでオレと引き離してくれたガラドは、オレをひょいっと抱き上げてしまった。
(も、貰っていく……って、なんか物みたいに)
なんて少しだけ不満を胸中で漏らしながらも、エルドフォルスへの恐怖で強張っていた体は、ガラドの体温に溶かされていく。
思考が正常化されていき、どんどんと安心してしまう。
そう言えばレテンの勇者パーティ分断作戦の直後、北方大陸に降り立ったオレは今みたいにガラドに抱き上げられていたなと思い出す。
あの時も心の底から安心して、ついつい眠ってたっけ。なんて益体もないことを考えていると、体が……いや、ガラドが動き出した。
「私の言葉を中断す……」
エルドフォルスの声が後方へと伸びてゆき、聞こえなくなったと思ったら、ドアの開けて閉める音がすぐに聞こえてきた。
「ふー……ここまでくれば流石に入ってこれねえだろ。人の部屋に無断で入るようなやつ、そうそういねえしな」
ガラドがそこまで言ってから、オレは彼の部屋に連れられたことを悟った。
悟ったというのは、比喩じゃない。見ればわかるはずの……聞けばわかるはずの入室さえ、オレの意識の外側だ。
それを理解するために、少しの時間を要してしまった。
だって今のオレの視界に映るのは、この脳内を占領しているのは……この世界で一番格好良くて、一番頼りになって……一番好きな人の顔だけなんだから。
「おい雪月、なにがあったんだ? ずいぶん身なりの良い男だった……が!?」
オレを抱えたまま、ガラドがオレの方を見てくる。
なにに驚いているんだろうか? オレの顔に何かついてたりするか?
さっき茶を飲んだ時の菓子のクズでも付いてしまったのだろうか。まあどうでもいいかそんなこと。
今はまだ……もうちょっとだけ、この温もりに身を任せていたいから。
「おま、雪月……その顔……! あー、まじでお前どんだけ……!」
オレから目を逸らしながら、ガラドがイラついたように言い放つ。そして抱えているオレを下ろそうと膝立ちの態勢になり、手を離す。
もうちょっとだけ、なんて思いつつも案外早く訪れた温もりとの別れに、ほんの少しの寂しさを感じながら、オレはガラドから離れて立ち上がる。
「ちょっと待ってろ……フゥー……フゥー……ッ!」
そして目線を少し上げるとガラドの顔が再度視界に入る。何かに耐えるように、歯を噛み締めながら、右手で自分の顔を覆い隠している。
その何かに……オレは心当たりがある。
というかガラドがなにを耐えているのかなんて……考えなくてもわかるんだ。
だって……
「ぉ……ォレも、同じ気持ち……だから……!」
空いているガラドの大きな左手を、両手でしっかりと握りしめ、オレはようやく自分の気持ちを口にすることができた。
「へ、返事……ちゃんとしなきゃって思って……ガラドのとこに向かう途中で」
勢いだ。全部勢いで言い切ってしまえ。
オレの脳からの指令に、発声器官は従順になる。
「リナトーの皇族がオレに絡んできて……なんかわかんないけど怖くなって、あんまり抵抗でき、なくて……」
「雪月……?」
「だから……た、助けてくれて、ありがとう……本当、ガラドっていつもそうだよなぁ……」
ところどころ、言葉が詰まってしまうけど、しっかりと声にはなってくれる。
いやちょっと違うか。今まで言えなかった分が、喉のところで渋滞を起こしてしまって、流暢に話せなくなっている感覚。
「オレのこと、ずっと見てるし……オレが辛い時は必ずそばにいてくれる。オレが悲しい時、本当に欲しい言葉をくれるのもいつも……ありがとう」
ダメだ、なんか声にいつもと違う色が混ざってしまう。
変な風に思われてしまわないだろうか?
(あ、ガラドがオレの目を真っ直ぐに見つめてる……)
その瞬間から、オレの瞳もまた縫い付けられたように、ガラドしか見えなくなってしまう。
「ガキの頃からずっと、ガラド兄ちゃんって言いながら、後ろをくっついて回って……たぶん最初っから、オレの目の前でガラドが巨兎を仕留めた、あの時から……」
想いを伝えてくれなかった今までと違い、オレの口は思った通りに動いてくれる。どんどん、言いたいことが伝えたかったことが、言葉になってガラドへ届けられる。
「ずっとずっと……オレは気付いてなかっただけなんだ。でも雪の里で、ガラドがいつもオレのことを考えてくれてたってことがわかって……オレのことを異性として意識してるって言ってくれて……」
ガラドの表情は少しずつ変わってゆく。
真剣な表情から、少しだけ……獲物を見つめる肉食獣のような眼光に。
「ほんとに嬉しかった……。だからちゃんと、しっかり……この想いを伝えたいんだ。だからガラドにもしっかり聞いて欲しい……」
がんばれオレ。たった一つの単語だ。最後までちゃんと動いてくれオレの口。
目は動かない。動かせない。まるで捕食者に睨まれた被捕食者のよう。でもそこに恐怖もなければ憂いもない。
あるのはただ一つ。喜びだけ。
この世で最も大切な人が、ただ一点だけを、自分だけを見つめてくれていることに対しての喜び。ガラドの視界をオレが占領しているという事実がもたらす……おそらくこの世で最も甘美な、優越感。
「好き」
ブチィッ!!
(ん? なんだ今の音?)
疑問に思うのは一瞬だけだった。今までずっと言えなかった言葉を、ガラドに伝えられたことが途轍もなく嬉しくて、そんなことすぐに吹き飛んでしまったから。
「ずっとずっと……返事できなくてごめん。じゃあオレ、自分の部屋戻るから……っ!?」
語尾が驚きの声になったのは、
「悪い雪月……ちょっと我儘言っていいか……?」
虎の手がオレを捕まえてしまったから。
虎の目が、オレを貫いてしまったから。
虎の声が、オレを溶かし尽くしてしまったから。
「は、はい……」
オレはガラドの声に……ひどく従順に頷いてしまった。
蛇に睨まれた蛙ならぬ、虎に睨まれた兎。
でも自然界ではあり得ないことに、兎は虎に食べられてしまうことを……心の底から望んでしまっていた。
いえーい、エルドフォルスくん見てるー?
君が落とそうとした女、ガラドが貰っちゃいまーす。




