終止符
チェーンソーマン レゼ編。良すぎる。いっぱいちゅき。
《天衣無風》。ナーグが口にした切り札の名。一体、どんな技なのか。
ガラドの危機察知能力が機能していない。これまで何度も、魔将軍以上の実力を持つ者を相手してきたが、こんなことは初めてだ。
おまけに先ほどとは打って変わって、周囲の風が穏やかだ。それも異常なまでに凪いでいる。
五感を総動員しても、ナーグの切り札を危険だとは認識できない。それがなにより不気味でならない。
ガラドが身構えていると、ナーグが一つ、呼吸をした。
「ハァ……スゥ……っ!」
「ガッ!?」
するとその刹那、ナーグが眼前に来て右拳を振り抜いた。あまりに唐突なその攻撃に、ガラドの防御は間に合わず、腹部に強烈な痛みが走る。
見えなかった、どころの話ではない。それなりに距離が開いていたはずなのに、一瞬のうちに両者の間にある空間が無くなってしまったかと思うほど、突然目の前に接近していた。
拳を振り抜く動作も速く、防御も回避もできなかった。
なんということか。五感すべてを用いて警戒していたガラドを相手にして、堂々と真正面から攻撃を直撃させられる戦士など、今まで一人もいなかった。
こと一騎討ちの状況においてなら、相手の一挙手一投足を把握するのは難しいことではない。
動きを見て、匂いを嗅ぎ分け、音を聞き逃さぬようにして、全身の神経を集中させる。それが出来れば捉えられない攻撃はない。
はずだった。少なくともつい先ほどまでは。
だがナーグの攻撃によってその事実を覆されてしまった。さきの突きに対して、ガラドの類稀な身体能力や五感、危機察知能力が一切機能していなかった。驚きべき速度だった。
そしてあれほどの速度を出すのなら、ガラドのように地面を蹴り壊す音があるはずなのに、それすらも無いとはどういうことなのか。
考える間にも、ナーグは攻撃を継続しようとする。
今度はわずかに、左脚を動かそうとする予備動作が見えた。
ガラドはすぐさま軌道を予測し、蹴りを受け止める体勢を取り、瞬間的に虎魄を両腕に纏う。
一瞬だけ虎魄を纏えば魔力消費量も抑えられる。そうしたことで先ほどは遅れを取ったが、予測ができれば効果的だ。
次の瞬間、ガラドの両腕を衝撃が襲う。
「グッ……!」
だが今度はダメージはない。インパクトの瞬間に虎魄を纏ったおかげだ。
両腕で受け止めたナーグの左脚を引っ掴みながら、ガラドは地面に食い込むほど両脚を踏み締めた。
「オオオオオオ!!!」
雄叫びとともに、握り締めたナーグを反対側の地面に叩きつける。
「ぬぐぅ……!」
叩きつけた瞬間に、ナーグの口から苦しそうな声が漏れ出た。
(天衣無風がどういう技かわからねえが、思い切り地面に叩きつけりゃダメージは入るか)
情報を読み取る間に、握りしめたナーグの左脚から魔力の気配を感じ、両手を離す。
おそらく風の刃で、拘束する両手を切り裂くつもりだったのだろう。
先んじて手を離し、地面を蹴り上空に飛び上がる。空中にガラドが唯一使える魔法、障壁魔法を小さく展開し、それを足場にした。
コウモリのように逆さまに止まった一瞬、地面に転がるナーグに照準を合わせる。
そして足場とした障壁を蹴り砕き、地面に向かって蹴りを放つ。流星のごときその軌跡が、狙い過たずナーグの頭蓋を粉砕しようとする。
しかしその刹那、ナーグを中心に凄まじい風が吹き荒れ、ガラドの蹴りを妨害する。結果、魔族四天王を絶命し得る一撃は狙いを外し、掠った右耳を千切るだけにとどまった。
だがもちろんそれで終わりではない。
ナーグの右耳を千切り、地面に大きな亀裂を走らせたガラドの右脚。それを軸に再度飛び上がり、今度は左脚で蹴りを繰り出す。
腹部を狙った踵落とし。地面との挟み撃ちであれば風を使っての後方回避は不可能だろう。
そう考えての行動だったが、今度はそれを読まれたのか、左脚をナーグに受け止められてしまう。
「何……!?」
「お返し……だ!」
ナーグの声を皮切りに、踵落としを受け止めた両手から無数の風の刃が襲いかかってくる。全てを回避することは不可能だと判断して、瞬時に全身に虎魄を纏う。
金属を削り取る音が響き渡った。持続的に喰らえば魔力がすぐに底をつくと察して、ガラドは大きく後方に飛び退る。
(いや違う、魔力を削ぐことが目的か)
相手からしてみれば、絶対防御とすら言える虎魄が最も大きな障害。ガラドにそれを使わせて、虎魄による魔力消費を狙ったのか。
思わず敵に賞賛を送るところだった。なんと冷静な判断力。
ガラドが虎魄の全身展開をやめたことも、瞬間的に腕や脚に使用していたこともわかっていて、尚且つそれを、全身を守るために使わざるを得ない状況に仕向けた。
並の思考力ではない。ただでさえ右耳を千切られ血が滴り落ちているというのに、戦うために生まれたような魔族の中にあり、なおも目を見張る戦闘に対する柔軟性。
おかげでガラドはもう、虎魄の使用は不可能になってしまった。いや、正確には使えなくもないが、その瞬間に《獣王の拳》による全身の獣化が解けてしまう。
仮にそうなれば、天衣無風の速度にはもう反応できない。すなわち敗北が確定してしまうのだ。
つまり全身の獣化を維持するための魔力を確保しなければならない現状では、もう虎魄は使えない。
ここまで追い込まれたのはいつ以来だろうか。
……追い込まれた?
ただ虎魄を使えないだけの状況で?
(いつから俺はこんなに腑抜けちまったんだ……?)
いつも無傷でいた弊害か、あるいは慢心。
虎魄を編み出したのは十歳の頃で、それからというもの傷らしい傷など負ったことがなかった。
魔族四天王討伐の旅は今もなお過酷といって差し支えないが、負傷するほどの強敵などいなかったのもまた事実。
今回もそうだ。クリーンヒットといえば、ナーグが天衣無風を発動した直後の一撃のみ。
(何を甘えてんだ俺は……!)
己の不甲斐なさに怒りがふつふつと湧き上がる。
見えない鎧を着ることに慣れ、生身で戦うことを恐れてしまっているのか。
違うだろ? 見せたはずだ、世界でたった一人の親友に。絶対勝つと言って笑顔を。
ずっとガラドの背を追い続けてくれた親友に、前線にいる魔将軍の討伐を託し、四天王を倒せと託されたはずだ。
たとえどれだけ傷を負っても、たとえどれだけ痛みに苦しんでも、絶対に勝つと、そう誓ったはずだ。
ならばもう見えない鎧も、自身への怒りもいらない。
ただ一つ、親友との誓いを果たすためだけに行動すればそれでいい。
ガラドは決意を胸に、脳みそにまとわりつく雑念を振り払って、ナーグを睨みつける。
すると、少しの間とはいえ固まっていたガラドの様子をうかがっていたのか、相手もまた立ち止まっていた。
「ハァ……フゥ……!」
いや違う。この呼吸は天衣無風の予備動作だ。
それを認識するよりも速く、ガラドは前方の空間に拳を叩き込む。
しかし空振りになるはずのその打撃は、重々しい音を立ててナーグの腕を殴りつけた。
「グッ……!?」
「やっぱりか」
短く、確信するガラド。
天衣無風の速度は他の追随を許さない。おそらくガラドの走りでも追いつけないだろう。
だがその速さと引き換えに、動きの幅は無いに等しい。要するに直線的な動き見せてこなかった。
この際、複雑な動きができないか、あるいは不可能ではないがなんらかの理由があってしないだけかは重要じゃない。
さっきの攻防で理解できたのは、動く瞬間に合わせて攻撃を置けば、回避は不可能ということ。
だから見え見えの右ストレートを避けることもできず、腕で防御するしかなかった。
しかも不完全な防御だ。顔面に直撃しないように腕を犠牲にする体勢。天衣無風の速さがそのまま仇となったか。
天衣無風の全容は未だにわからないが、この情報は値千金だ。
そしてもう一つは呼吸。天衣無風を使った移動や攻撃の最中では、おそらく息ができないのだろう。だからその前に大きく息を吸い込む必要がある。
移動先を予測できれば攻撃を避けられない。天衣無風の発動時、事前に大きく呼吸する。
この二点を注意すれば、完璧とまではいかないが対処は可能だろう。
そして直線的な動きが対処されれば、今度は複雑な動きを織り交ぜてくるだろうことは容易に想像できる。
「ハァ、スゥ……」
呼吸を一つ聞いた瞬間、背後から打撃を喰らう。瞬きを挟む間もないほどの反射速度で背後に拳を振り抜くが、なんの感触もなく空振りに終わる。
やはり動きがわかりづらくなれば、反撃は難しいか。だが直線的な動きの時よりも打撃が軽い。攻撃に天衣無風の速度がうまく乗っていないのか。
ならば耐えられる。天衣無風の発動中は速度こそ敵わないが、呼吸を必要とする以上、必ずどこかで綻びが出る。
そこを見逃さないようにすれば……
「フンッ!!」
「グハッ……!」
捉えるのは容易い。
天衣無風の合間に存在する呼吸のタイミングで、ガラドはナーグの胸を抉るように殴りつけた。
「もうそいつは通用しねえぞ」
続けて繰り出されたのは目にも止まらぬ連撃。突きや蹴りが雨の如く、ナーグの体に降り注ぐ。
だがさすが四天王というべきか、ナーグはそれらのほとんどを防ぎ、反撃を繰り出してくる。
ガラドも負けじと攻撃をやり過ごす。
弾いて突き、かわして蹴る。
そしてふと気付く。ナーグの攻撃の中には気配を捉えられないものがあることを。
絶え間ない攻防の中で、わずかな時間だけ天衣無風を纏わせた攻撃が存在する。
それらは完璧には防ぎきれず、ガラドの肉体にもダメージが蓄積されていく。
だがそれは相手も同じ条件だ。天衣無風の連続使用が祟ってか、呼吸に乱れが出始めている。
戦士にとっての常識だ。呼吸の乱れは精神の乱れを生むというのは。現にガラドの攻撃に対処しきれず、ナーグも痛みを堪えるように顔を顰めた。
両者がともに感じていたのは一つの確信。
この攻防で全てが決まる。
ガラドは魔力量の限界、ナーグは体力の限界。互いに理由こそ違えどそれを感覚で理解して、ここが分水嶺と感じ取っていた。
凄まじい攻防の最中、最初にクリーンヒットをさせたのは、ガラドの左拳だった。
ナーグの体を貫くかと思うほどの突きが炸裂し、体がくの字に折れ曲がる。
ガラドの勝利は目前にある。ナーグの腹部を貫いた左手で首を鷲掴み、とどめの一撃を顔面に叩き込む。
……はずだった。その一瞬。
ゴキャッ! という耳障りな音と同時に、首を掴んでいたガラドの左前腕部が中ほどのところで折れ曲がる。
折れた骨が皮膚を突き破り、獣化した左腕を血で染めてゆく。
痛みが脳に届くよりも速く、ガラドは理解した。疾風空突、見えない風の拳だ。
こちらの意識をインファイトにのみ集中させ、その間にこれを完成させたのか。だがガラドは痛みを堪えながら、右の拳を力強く握りしめる。
折れた左手もまだナーグの首を離していない。ならばあとは、この拳を振り抜くのみ。
「ガアアァァァァ!!!」
「オオオォォォォ!!!」
獣のような叫び声がガラドの鼓膜を叩いた。
どちらがガラドのもので、どちらがナーグのものかは判然としなかった。
だが刹那の後にわかったのは、ガラドの渾身の一撃がナーグの顔面を打ち抜いたこと。
そして……ガラドの右肩から左脇腹にかけて大きく切り裂かれていたこと。
ナーグは急死に一生を得るために守るのではなく、相打ち覚悟で最大規模の風の刃を放っていたのだ。
生きるための執念ではなく、殺すための執念。いったいどんな精神であればそんな選択肢を取れるのか、ガラドには理解できなかった。
そしてガラドの一撃を受けて、ナーグの体は大きく後方に殴り飛ばされる。三度地面に叩きつけられようやく止まったその体からは魔力が消失し、両手を覆っていた籠手も無くなっていた。
決着だ。
ふぅ、と息を吐きつつ全身の獣化を解除する。
手強い相手だった。ガラドが見てきた中で最も強い男と言っても過言ではない。
自身の状態を確認した後、ガラドは地面に横たわる。




