前
カラーンカラーン………。
草刈りをしていたモリーナの耳に、風に乗って、村の教会の鐘の音が聞こえてきた。
サヤサヤという草の擦れあう音と鐘の音。どこかで聞いたことのあるような郷愁の響き。ぐわんぐわんと、頭の中で反響する。ふと、意識が遠退きそうになり、よろけて、持っていた鎌を落とした。途端、モリーナは思い出した。かつて彼女は、聖女であったことを。
聖女。それは、魔物を退ける聖なる力を持つ娘のことである。
教会に選ばれた聖女は、国の為に祈りを捧げ、その祈りの力が、魔物を国に寄せ付けない壁となり、国民を守る。その身は国に保護され、衣食住が保証された。
聖女は必ず5人おり、首都にある5つの祈りの塔のいずれかに配属され、一生、出ることは許されなかった。出られるのは、死ぬときのみ。1人聖女が亡くなれば、教会の選別で聖女が選ばれ、人員が補充された。
モリーナは前世、現世と同じモリーナという名の聖女であった。モリーナが齢、70を越えたというおり、聖女をまとめる監督官である教皇が、祈りの塔を訪ねてきた。朝の祈りを終え、日課である聖書の写本をしようとしていた矢先だった。
教皇は、王宮の紋章のついた羊皮紙を重々しく広げると、モリーナに読んで聞かせた。
「そなたを王の導き手に命じる。」
モリーナは、長いローブの裾をかいぐって跪き、教皇に頭を下げた。
「謹んで拝命いたします。」
次代の国王となる王子は、10歳の時に3ヶ月、聖女と共に生活をするという慣習があった。王の導き手とは、その王子と共に過ごす役目をいう。1000年ほど前に作られた慣習で、その理由はわかっていない。
その王子がやって来たのは、モリーナが任命されてから、わずか4日後のことであった。
王子は、モリーナの姿をみると、あからさまに口をへの字に曲げた。
「なんだ、若い娘ではないか。このような娘に、導き手がつとまるのか?」
あからさまにバカにしたようなその声に、モリーナは苦笑した。
聖女は、その祈りの力が最大に発揮できる年齢になると、身体の時が止まり、死ぬまで老いることはない。
モリーナの時が止まったのは20の時なので、見た目だけはうら若い娘であった。
「王子様、この聖女は、年齢は70を越えております。お教えした通り、聖女は見た目と年齢が違うのです。」
「ふぅん…不思議なものだな。まぁ、よい。よきにはからえ。」
教皇の言葉に、王子は上から下までモリーナの姿を観察すると、尊大に笑ってみせた。
その日から、モリーナと王子の生活がはじまった。
最初こそ、王子は城で過ごしていた通り、遅く起きて遅く寝る怠惰な生活をしたがったが、モリーナと共に過ごすうち、日が昇ると共に起き、日が沈むと共に寝る規則正しい生活をするのが、普通になっていった。
「モリーナ、祈りの塔を出る気はないか?」
王子が祈りの塔で生活しはじめて、1ヶ月がたった頃合いだった。塔で過ごすことが当たり前のモリーナにとって、寝耳に水だった。
「王子様、私はこの塔から出ることは許されません。」
「ここはつまらぬであろう。世界は広い。広い世界を、共に見たくはないか?綺麗なものがたくさんあるぞ。」
「塔の窓から見える朝日や夕日は、何事にも代えがたい宝石のように美しいと思っております。私は、それが見られるだけで十分です。」
「ならば、王宮の宝物庫にある金銀財宝を、そなたに見せてやろう。美しいぞ?」
「王子様、私はこの塔から出ることは許されません。お気持ちだけで十分です。」
「強情だな、お前は。なら、いつならばお前は塔から出られるのだ。」
頬を膨らませる王子に、モリーナは、ただ一言、返すしかなかった。直接的な言葉をかけるべきか迷ったが、嘘はつきたくなかった。
「私が死んだときです。」
困ったように笑みを浮かべるモリーナに、王子は絶句し、それ以降、外に出るよう誘うことは、なくなった。
前・中・後の前編です