6 発覚
アリスお嬢様と俺は再びお屋敷の中でふたりきりで会うようになった。
以前は、俺の仕事場である若様の書斎や資料室などにひとりでいるところへアリスお嬢様が訪れるという、完全に俺が受け身の形だった。
だがウォルフォード家の夜会から半月後、俺は初めてアリスお嬢様のお部屋に足を踏み入れた。事前に乳母やメイドが不在になる時間をアリスお嬢様から伝えられて、それに合わせて仕事を調整してだ。
お部屋は想像していたより落ち着いた雰囲気だったが、あちこちに置かれた可愛らしい小物や、アリスお嬢様の手による刺繍作品がそこに華やかさを加えていた。
隅に置かれたベッドは視界に入れないようにして、代わりに机の上の読みかけの本や刺繍道具を眺めた。
初めて花柄のソファにアリスお嬢様と並んで座ったのは、さらに半月ほどしてからだった。
そうして、アリスお嬢様のお部屋で会うことが増えていった。
それでも普段、アリスお嬢様は学園に通っているし、夜はさすがに気が引けて、俺たちが会うのは平日の夕方か休日の短時間だけだった。
約束を交わしていても、俺の仕事の予定が変わったり、アリスお嬢様のメイドが予定より早く戻ったりと、様々な事情で会うのを断念することも多かった。
一度だけアリスお嬢様に「コリンのお部屋に行ってもいい?」と訊かれたが、もちろん思いとどまらせた。
会えるたび、俺はアリスお嬢様を抱きしめ、頬や耳朶や髪に触れた。
アリスお嬢様は俺の手を握るようになり、時には甘えるように抱きついてきた。
口づけは一瞬では終わらなくなり、触れ合うのも唇と唇だけけではなくなった。
あの夜に俺がアリスお嬢様に告げたのは求婚ではなく、傍にいるということだけだったが、アリスお嬢様はそれについて俺に何も言わなかった。
俺は、アリスお嬢様の小さな望みさえ叶えてあげられずにいた。
「ねえ、コリン。いつになったら『アリス』って呼んでくれるの?」
「呼びませんよ、アリスお嬢様」
「どうして?」
「他に人のいる前で呼び間違えたら困りますから」
「そのくらい、コリンなら誤魔化せると思うけど」
「念には念を、です」
「ねえ、コリン。あなたの上着に刺繍してあげるわ」
「いえ、結構です」
「私、刺繍は得意なのよ」
「知っています」
「裏側の見えないところにするから」
「駄目です。洗濯に出した時に見られます」
アリスお嬢様に色々我慢させているのだろうとは思っても、ふたりの関係を誰かに知られることが怖かった。
こんな関係がいつまでも続くと信じられるほど俺はお気楽ではなく、少しでも長くと悪足掻きをせずにはいられなかった。
アリスお嬢様と俺の逢瀬を誰にも咎められないまま、1年ほどが過ぎた。
その日は休日で、俺はいつものように仕事を調整して約束した時間にアリスお嬢様のお部屋を訪ねた。
しかし、俺を笑顔で迎えたアリスお嬢様を抱きしめてすぐ、扉がノックされた。
「アリス、ちょっといいかしら?」
聞こえたのはロッティお嬢様の声だった。
「どうぞ」
アリスお嬢様がそう応えた時には、俺はソファの裏に身を潜ませていた。
「この前頼まれた卒業試験の問題用紙、見つかったわ」
「ありがとう。さっそく解いてみるわ。わからないところはまた教えてね」
「ええ、もちろん」
ロッティお嬢様が部屋を出ていき扉が閉まると、アリスお嬢様がクスクス笑いながらソファの裏を覗いた。
「素早いわね」
「まあ、慣れましたから」
この1年でヒヤヒヤしたことは何度もあった。
「こっちに来て」
アリスお嬢様に手を引かれて立ち上がると、彼女が俺の首に両手を回した。俺も改めてアリスお嬢様を腕の中に収め、どちらからともなく口づける。
その時、再び扉が開いた。
「ごめんなさい、もう一つ……」
俺は扉のほうを見て固まった。そこでロッティお嬢様も固まっていた。
辛うじて唇は離したものの、アリスお嬢様と俺はまだ互いの腕の中にいた。
「あなたたち、何をしているの」
ロッティお嬢様の声が、あたりに響き渡った。
アリスお嬢様と俺はロッティお嬢様により連行された。
もちろん縄を掛けられたわけではないが、ロッティお嬢様に冷たい声で「ついて来なさい」と言われて廊下を歩いているうちにそんな気分になった。
さすが、もうすぐ王子妃殿下になる方は迫力がある。
連れて行かれた先の居間には御一家が揃っていて、「何事か」という表情でこちらを見た。
俺は居た堪れず、床を見つめた。
その場を代表するように奥様が尋ねた。
「どうしたの、ロッティ? そんな怖い顔をして」
「お父様、お母様、先ほどアリスが、コリンと、その、部屋で……」
ロッティお嬢様は途中で口を噤んでしまった。ご自分が見せられたものを御両親にどう話すべきか、迷っている様子だった。
代わりに口を開いたのはアリスお嬢様だった。
「部屋でコリンと口づけをしていました」
「口づけ? コリンと?」
旦那様は驚きのあまり、素っ頓狂な声をあげた。
俺は深く深く頭を下げた。
「長い間お世話になっていながら、恩を仇で返すような真似をして申し訳ございませんでした。どのような処分もお受けします。今すぐお屋敷を追い出されても構いません。責めはすべて私が負いますので、どうかアリスお嬢様には罰をお与えになりませんようお願いいたします」
「そんなの駄目よ。コリンがうちを出て行くなら、私も一緒に行きます」
アリスお嬢様が決然と言い、頭を下げたままの俺の上着を掴んだ。
「えええええと」
旦那様の声はさらに動揺していた。
「コリンはうちを辞めたいの?」
俺はゆっくりと姿勢を正した。
「できることなら生涯若様にお仕えしたいと、今でも思っております」
「ずっとうちにいるんだね? 何だ。じゃあいいよ」
ようやく見ることのできた旦那様の顔には、安堵の笑みが浮かんでいた。
「いい、とは?」
「だから、このままノアに仕えてくれるなら、アリスと結婚していいよ」
旦那様の口から唐突に出てきた言葉に、今度は俺が狼狽えた。
「は? 結婚、ですか?」
たちまち旦那様の眉間に皺が寄った。
「結婚するつもりがあるからアリスと口づけしてたんじゃないの?」
俺は慌てて答えた。
「はい。アリスお嬢様との結婚をお許しいただけたらと……」
「うん、だから、いいよ。コリンと結婚すればアリスはずっとうちにいるってことだもんね」
旦那様の表情がすっかり緩んだ。
「どうもありがとうございます」
俺は戸惑いながらも、再び頭を下げた。
「お父様、ありがとうございます」
アリスお嬢様は涙声になっていた。
「アリス、あなたはコリンと結婚するというのがどういうことか、きちんとわかっているの?」
黙って成り行きを見守っていた奥様が尋ねた。
「公爵令嬢ではなくなって、平民の妻になるということよ。貴族の娘としての生活しか知らない今のあなたには想像できない苦労をすることになるかもしれないわ」
「コリンと一緒にいられるなら、それでも構いません」
アリスお嬢様は奥様を真っ直ぐに見て、きっぱりと言いきった。
「そう。あなたが覚悟をしているならいいわ。コリン、どうかアリスのことをよろしくね」
「はい。こちらこそ、今後もどうぞよろしくお願いいたします」
また頭を下げようとした俺に、今度は若様が「コリン」と呼びかけた。
「おまえは本当にいいのか? アリスがうちのお嬢様だからと何を言われても断れず従っているうちにこうなって、仕方なく結婚するんじゃないか?」
俺はムッとして、深く考える前に反論していた。
「違います。私が断れないのはアリスお嬢様がコーウェン家のお嬢様だからではなく、誰よりも愛しいからで……」
そこまで口走ってしまってから、この場に御家族が揃っている事実を思い出しても遅かった。
こちらに向けられた皆様の視線が生温かくなったように感じられた。ロッティお嬢様を除いて。
若様の顔に浮かんだ表情を見て、若様はわかっていて俺に言わせたのだと気づいたが、心の中で毒づくことしかできない。
俺の上着を掴んでいたアリスお嬢様の手が俺の手を握ったのでそちらを見ると、彼女は目を潤ませながら花のように微笑んでいた。
この愛しい人と結婚できるのだという喜びがジワジワと体中に広がっていく。
「おめでとう、アリス、コリン」
若奥様が祝福してくれ、メイ坊ちゃまも続いた。
「おめでとう。よかったね。で、いつ結婚するの?」
「それは……」
「まだ先です」と言おうとした俺を、アリスお嬢様が遮った。
「すぐにでもしたいわ」
とりあえず結婚を認めてもらえたことで満足していた俺はギョッとした。
性急な若様は若奥様との婚約から結婚まで半年足らずだった。旦那様と奥様はさらに短時間だったらしい。
アリスお嬢様はまだ学生だが、ウォルフォード侯爵夫人が学生結婚だったと聞いた覚えがある。
だからそのあたりはコーウェン家において問題にされないとしても、もっと重要な問題があった。
「今はロッティお嬢様のご結婚を控えて、その準備に追われている状況ですから」
ロッティお嬢様がタズルナのメルヴィス殿下に嫁ぐのはこの秋なのだ。
「だからよ。私の結婚式にロッティがいないなんて、絶対に嫌だもの」
アリスお嬢様に助け舟を出したのは、若様だ。
「別にいいんじゃないか。教会に直近で式を挙げられる日を問い合わせて、うちの親戚とコリンの家族親戚に都合をつけてもらって……」
「そんなの駄目だよ」
旦那様が珍しく強い調子で若様に反対された。それを俺への助け舟だと考えたのは愚かだった。
「ウェディングドレスを作るのに2か月以上かかるんだからね」
「ああ、申し訳ありません。そうでした」
「今はロッティのドレスも頼んでいるから、もっと時間がかかるかもしれないわね」
奥様がいたって冷静に仰り、若様も頷いた。
「では、余裕を持って倍の4か月と考えると長期休暇になりますから、結婚式を挙げるのは領地ですね」
「そうね。アリス、コリン、それでいいかしら?」
「はい」
嬉しそうな笑みを浮かべているアリスお嬢様を前にすれば、俺も「はい」と答えるしかなかった。




