4 夜会
アリスお嬢様と俺はふたりきりで顔を合わせるたび、言葉の代わりに口づけを交わすようになった。
脅されて始めた関係であることは俺にとって建前でしかなく、アリスお嬢様に上着の裾を引かれるのを待ちわびた。
唇を重ねた後でアリスお嬢様が浮かべる笑みがあまりに幸せそうで、俺は毎回息が詰まりそうになり、それでもさらに先を求める気持ちには全力で蓋をした。
しかし、必死の努力を嘲笑うように、アリスお嬢様はしばし俺の夢に現れて俺を翻弄した。
アリスお嬢様の将来を思えば俺は消えたほうがいいとわかっているのに、その決断をする勇気はどこにも見つからず、旦那様や奥様に対する罪悪感が積み重なった。
ロッティお嬢様が卒業し、1学年進級したアリスお嬢様はひとりで学園に通うようになった。
そして同じ年、アリスお嬢様は王宮の夜会で社交界にデビューした。
夜会に参加することは気が重そうだったアリスお嬢様も、旦那様が選んだ白に近いピンク色のドレスを纏うと高揚した様子を見せた。
御家族からの称賛を浴び、次には傍に控えていたメイドたちにもひとしきり褒められてから、偶然見つけたという顔で俺と視線を合わせた。
「コリン、どうかしら?」
「よくお似合いです」
この場だけで同じ言葉を何度かけられたかわからないのに、アリスお嬢様はふわりと微笑んだ。
アリスお嬢様は婚約者が隣国にいらっしゃるロッティお嬢様とともに、若様にエスコートされて王宮の大広間に入った。
俺は若様の従者として3人の後についた。
ロッティお嬢様はこの数年でグッとお綺麗になった。隣国の王子殿下に婚約者の座をみすみす奪われたことを嘆いている方も少なくないだろう。
アリスお嬢様と合わせて、若様はまさに両手に花の状況だ。
若様は女性や結婚にまったく関心がないわけではないだろうが、まだ面倒だという気持ちが勝っているらしく、近づいてくる令嬢方に愛想の欠片も見せない。
それ以外の、次期公爵として必要な社交はきちんとこなしているのでとりあえず俺に文句はない。
その夜も、アリスお嬢様とロッティお嬢様のダンスパートナーを務めた後、おふたりと離れて知人方と挨拶を交わす一方、令嬢方の誘いはすべて無視していた。
ロッティお嬢様や御親戚方が傍にいるのだから心配することはないのだがやはり気になって、若様に従って会場内を歩きながら、俺は時々アリスお嬢様を窺った。
広間の反対側にいても、アリスお嬢様の姿はすぐに見つけられた。この広い会場の中で最も輝いている。
案の定、俺が目を向けるたび、アリスお嬢様はどこぞの御子息方に囲まれていた。
誰も彼もアリスお嬢様のドレス姿を言葉を尽くして褒め称え、ダンスに誘っているのだろう。
俺はその群れに加われるだけの身分も持たない。
しばらくして、若様が言った。
「後は適当にやるから、おまえは少し休め」
若様は概ね知人との挨拶を終えると煩わしい目のない場所で一息吐くのが常のことだ。もちろん逢瀬の相手などおらず、ひとりで。
だから俺はどこかへと消える若様を黙って見送った。
その後はいつもなら使用人の待機部屋に行って用意されている軽食を摘むのだが、この日は外に出た。
大広間のバルコニー周辺は明かりが灯され人影も多いので、明かりの届かないあたりまで歩く。
正直なところ大広間にいるアリスお嬢様の様子が気になって仕方ないが、例え近くに行ったとしても広間の反対側にいた時と変わらない。
俺にできるのは、アリスお嬢様が他の男たちに囲まれる姿を見ていることだけ。
そんなことはとっくに理解していたはずなのに、改めて突きつけられて気分が重かった。
ふいに、話し声が聞こえた。男性が女性を口説いているようだ。
こんな暗い場所まで来るのだから、男性のほうは良からぬことを企んでいるに違いない。王宮の庭でなど、まったく不埒なことだ。
自分の主がそういう方でなくて良かったと思いつつ、そっと離れようとした時だった。
「放してください。もう戻ります」
怯えて震えているその声は、俺が聞き間違えるはずのないアリスお嬢様の声だった。
俺は咄嗟に声のしたほうへと向かった。
ほとんど明かりはないが、何とか闇の中で揉み合う2つの人影が見えた。
「アリスお嬢様」
俺ができるだけ冷静に聞こえる声で呼びかけると、すぐに応えが返ってきた。
「コリン」
「こちらにおいででしたか。兄上がお探しですよ」
「すぐ行くわ」
男が舌打ちをして駆け去っていった。
直後に、アリスお嬢様が俺の上着にしがみついた。その手からも震えが伝わってきた。
「ええと、ノアはどこにいるの?」
「さあ、知りません。さっきのはでまかせですから」
「ああ、そうだったのね」
だいぶ目が慣れてきて、俺を見上げたアリスお嬢様が笑うことに失敗したのがわかった。
抱きしめたい衝動を無理矢理抑え込み、口を開いた。
「なぜ、あんな男とこんな場所にいたのです? ロッティお嬢様はご承知なのですか?」
「ロッティには飲み物をもらいに行くと言って来たの」
「飲み物なら広間の中にあったでしょう」
「それは口実で、コリンはどこに行ったのかと思って探していたら、あの人に絡まれて」
俺は溜息を吐いた。
「せっかくの夜会で使用人のことなど気になさらないでください」
「コリンは使用人ではないわ」
「私はコーウェン家の使用人です」
「だけど、コリンは私の……」
俺はアリスお嬢様の言葉を遮った。
「もうアリスお嬢様もおわかりでしょう。私ではアリスお嬢様に何もしてさしあげられません。夜会でのエスコートも、ダンスも。あのような男を怒鳴りつけることも、殴り飛ばすことも」
「わかっているわ」
「それなら、もしも私と結婚した場合の生活を考えたことはありますか? 私の父は男爵ですが爵位は兄が継ぐので私は平民になります。実家は裕福ではありませんから援助を受けるどころか私が仕送りをしています。夜会ドレスや宝石などは必要なくなりますが、普段着るドレスさえほとんど買えないでしょう。もちろん使用人も雇えませんから、身の回りのことも家事もすべて自分でしなければなりません。その綺麗な手はきっと荒れてしまいます」
「コリンと一緒にいられるなら構わないわ」
「私は構います。アリスお嬢様にそんな生活はさせられません。どうかご自分に相応しいお相手を見つけてください。堂々とアリスお嬢様の隣に並ぶことのできる方を」
自分で自分の胸に刃物を突き立てている気分だった。
アリスお嬢様の目に涙が盛り上がった。
「それがコリンの本心なの? 私に他の人と結婚しろというのが?」
「そうです」
アリスお嬢様の手が俺の服からゆっくりと離れていった。
「もういいわ」
アリスお嬢様はクルリと俺に背を向けて、大広間のほうへと歩き出した。俺はその後を追う。
「ついて来ないで」
「アリスお嬢様が安全な場所まで戻るのを確認するのも私の仕事です」
俺はアリスお嬢様が無事ロッティお嬢様と合流するのを見届けた。
翌日から、俺は仕事中できるだけひとりにならぬよう気をつけた。
アリスお嬢様のほうも、御家族や他の使用人のいる場で顔を合わせても俺に話しかけるようなことはなかった。
王宮の夜会の翌月にはコーウェン家主催の夜会が控えているので、お屋敷は奥様以下その準備に追われた。
普段より忙しい日々は俺にとってありがたかった。
コーウェン家の夜会当日。
俺は夜会を円滑に進めるべく他の使用人たちと連携して働きつつ、いつものように若様の動きも確認していた。
そんな中、どんなに意識しないようにしていても、アリスお嬢様の姿は目についた。
ラベンダー色のドレスに身を包んだアリスお嬢様は、この夜も誰より美しく、御子息方を惹きつけていた。
あの中に将来アリスお嬢様の夫になる方はいるのだろうか。その方のダンスの誘いを受けるのだろうか。俺ではない男にも花のような笑みを向けるのだろうか。悶々と考えてしまう。
「コリン」
突然、名を呼ばれ、俺は内心飛び上がった。
いつの間にか旦那様と奥様が俺の傍にいらっしゃった。
「ノアはどこに行ったのかしら? 紹介しておきたい方がいらっしゃるのだけど」
そう尋ねられて初めて、若様の姿が大広間から消えていることに気がついた。
「申し訳ありません。すぐに探して参ります」
俺は慌てて会場を出た。
何人かの使用人に尋ねると、どうやら若様はお屋敷の奥へ向かったらしい。
まったく、こんな早くから抜け出して何をなさっているのか。
八つ当たりに近い苛立ちを胸の内で若様にぶつけながら、俺は廊下を足早に進んだ。
若様はひとりの御令嬢を見初めていた。スウィニー伯爵家のセアラ様。
若様は御家族に問題のあったセアラ様をその夜のうちにご自分の婚約者とし、さらにそのままお屋敷に住まわせることにした。
俺はセアラ様に見覚えがあった。以前、ロッティお嬢様がお屋敷に招いた御友人のひとりだ。
2、3度いらっしゃっただけの御令嬢のことを俺が記憶していたのは、コーウェン家を訪れたロッティお嬢様の御友人の中で、アリスお嬢様が最も気を張る様子を見せずにお喋りしていた方だったから。
コーウェン家で暮らすことになった若様の婚約者を、長くコーウェン家で働く人たちがさっそく「若奥様」と呼びはじめたので、俺たち若い使用人もそれを真似た。
「おまえもそろそろ結婚を考えたらどうだ?」
若様は惚気た顔で俺に言った。
つい先日まで、社交場で会う人会う人から同じようなことを言われて顔を顰めていたのはどこのどなたですか。
だが、ふと思う。勘の鋭い若様はアリスお嬢様と俺の関係に気づいていたのではないか。
もしそうであれば、若様の真意は何なのだろう。「妹と結婚してやれ」か、それとも「早くおまえに合う相手を見つけろ」か。
若様が気づいているなら、他の御家族はどうなのだろう。