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3 脅迫

 翌日からのアリスお嬢様に特に変わった様子は見られず、今までと同じように仕事中の俺に寄って来て話しかけたり、お茶会で俺を四阿に誘ったりした。


 そうして1年ほど経ったある日、俺のところにやって来て上着の裾を引いたアリスお嬢様は、やはり腕に1冊の本を抱えていた。


「あのね、私、今度はこの本を読んだの」


 チラリと見えた題名からして、恋愛小説だろうと判断した。

 お屋敷の図書室には様々な本が並ぶが、小説の類は大奥様の趣味が大いに反映されていて、剣や魔法や妖精が出てくるようなファンタジー物と恋愛物が多い。


 ちなみに、お屋敷と同じ敷地に建つ別邸に大旦那様と住んでいらっしゃる大奥様は、2代前の国王陛下の姫君だ。


「それで、コリンにお願いがあるの」


 珍しいな、と思った。

 時には我儘を口にすることも両親に対する娘の役割だと考えているらしいロッティお嬢様と違い、アリスお嬢様の口から「お願い」という言葉が出てくることは滅多になかった。

 もっとも、例えばロッティお嬢様が新しいリボンを強請ればロッティお嬢様だけでなくアリスお嬢様にも与えるのがコーウェン家の旦那様だ。


「何でしょう?」


「私に口づけを教えて」


「……は? 今、何と?」


「だから、口づけをしてほしいの。口づけって、唇と唇が触れるだけよね? それなのにどうして『この上なく幸せな気持ち』になれるのか知りたいの」


 これは、「コーウェン家の御令嬢がそんなことを口にしてはいけない」と叱るべきか?

 しかし、アリスお嬢様の期待の込もった視線を前に、そんな気持ちはたちまち萎んでしまった。

 おそらくアリスお嬢様はまだ何も知らないのだ。


「よろしいですか、アリスお嬢様。口づけというものは夫婦、百歩譲って婚約者同士がするものです」


「この本の中では、それぞれ親の決めた婚約者のいる男女が好きだと告白し合った後でしていたわ」


 大奥様、そんな本まで図書室に並べないでください。


「そのようなことが許されるのは本の中だけです」

 

「それなら、コリンは大好きな人ではなく、好きでもない婚約者とすべきだと言うの?」


「例え好きな相手でも、他に婚約者のいる状況で口づけをするなど無責任です」


 正論を述べているはずなのに、アリスお嬢様に眉を顰められると自分が間違ったことを口にしている気分になった。


「私には婚約者なんていないのだから、良いじゃない」


「アリスお嬢様に婚約者がいらっしゃらないのは、心から望んだお相手と添い遂げられるようにという旦那様と奥様の深い愛情と信頼です。軽い好奇心でそれを裏切れば、いつかアリスお嬢様がそんな方と巡り会えた時にきっと後悔なさいます」


 アリスお嬢様は傷ついたような顔で俺を見つめていた。




 14歳になったアリスお嬢様は学園に入学した。

 2学年違えばロッティお嬢様と校内で一緒になる機会はほとんどないだろうが、毎朝、アリスお嬢様は嫌がることもなく姉と同じ馬車で出かけて行った。


 アリスお嬢様のお守り役から解放された俺は、将来、若様が公爵位を継いだ時のための仕事を奥様や執事について学びはじめた。

 以前より忙しくなった日々の中、ふとひとりになって気を抜いていると、たびたび後ろから上着の裾を引かれた。


 あの日、傷ついた表情のまま去っていったアリスお嬢様は数日間は俺を避けていたものの、結局またこうして寄って来るようになった。

 口を開くことはせず、ただ恨めしそうな顔で俺を見上げるだけで離れていく。俺も敢えて何も言わずにいた。


 毎日、学園に通って同じ顔と接していればそのうち親しい方も増え、俺になど構わなくなるのではないか。

 俺はそう楽観的に考えていたが、むしろアリスお嬢様に裾を引かれる頻度は徐々に増していくようだった。


「アリスお嬢様、学園で嫌なことでもありましたか?」


 気になってとうとう俺から尋ねると、アリスお嬢様は俺から視線を逸らして首を振った。


「何もないわ。同じクラスにお友達もいるし」


 そう答えながらも眉は下がり気味。やはり大勢の中で過ごすことはアリスお嬢様にとっては苦痛なのだろう。


 もしもアリスお嬢様が学園に行きたくないと言えば、きっと旦那様はそれを許し、娘に相応しい家庭教師をつけてくださる。

 しかし、学園は貴族子女が社交を学ぶ場でもある。お茶会に参加し続けたアリスお嬢様が、そこから逃げることを良しとするはずがなかった。

 ロッティお嬢様と同じようには振る舞えなくても、アリスお嬢様にはアリスお嬢様なりにコーウェン家の御令嬢としての矜持があるのだ。

 アリスお嬢様の気質は旦那様譲りで、御家族はアリスお嬢様が人付き合いが苦手なことも大らかに受け止めている。だからこそ、アリスお嬢様は御家族に弱音を吐けないのかもしれない。


 内から急激に込み上げてくるものがあって、胸のあたりがギュッと締めつけられ、どうしようもなくアリスお嬢様を甘やかしたい欲求に駆られた。


 俺はアリスお嬢様の唇に自分のそれをそっと重ねた。




 その夜、部屋でひとりになってから激しく後悔した。


 一度は説教めいたことを言っておいて、何をしているんだ。しかも、6つも歳下の主の妹相手に。

 あれが暴露たら、俺はすべてを失うことになるだろう。仕事も、信用も、住む場所も。

 下手をすると家族まで職を失うかもしれない。コーウェン家を敵に回したい家などないのだから。そうなれば実家は男爵位を手放すことにもなりかねない。


 とにかく、今後はアリスお嬢様と関わらないようにしよう。

 そう決心した途端、アリスお嬢様の顔が頭に浮かんだ。

 口づけの直後に見たアリスお嬢様は状況が理解できなかったのかキョトンとしていて、だがそこから可愛らしい花が咲くように笑みが広がった。


 アリスお嬢様は、俺のことが好きなのだろうか。

 コーウェン家の御嫡男に仕えていることくらいしか取り柄のないような男なのに。

 いや、おそらくは恋愛小説の影響で恋に恋するといったところだろう。

 アリスお嬢様にとって、俺が兄弟の次くらいに身近な存在であることは想像に難くない。つまり俺は、アリスお嬢様が本物に出会うまでの繋ぎだ。

 そこに思い至ると、胸のあたりが妙に重くなった。




 俺の葛藤など知る由もなく、アリスお嬢様は翌日も学園から帰宅すると、俺がひとりになったところを見計らってやって来た。

 上着の裾を引かれても振り返らずにいると、アリスお嬢様の手は俺の袖に移った。


「コリン、怒ってるの?」


 確かに俺は腹を立てていたが、アリスお嬢様にではなく俺自身に対してだった。

 だから、悲哀を含んだアリスお嬢様の声を無視できず振り向いてしまった。


「いえ、怒ってなどおりません」


「良かった」


 アリスお嬢様は安堵の表情で俺をジッと見つめた。何かを強請るように。

 俺の勘違いではない。アリスお嬢様の立ち位置がこれまでより近かった。


「アリスお嬢様」


「なあに?」


「昨日は申し訳ありませんでした」


 俺は頭を下げた。


「どうして謝るの?」


「私がアリスお嬢様にしたことは決して許されることではありません。昨日のうちにお屋敷を追い出されていてもおかしくないほどのことです」


「先にお願いしたのは私のほうよ」


「それでもです」


「嬉しかったのに、酷いわ」


 アリスお嬢様の声が震えた。


「申し訳ありません」


 俺はさらに深く頭を下げた。束の間、沈黙が続いてから、アリスお嬢様が静かに言った。


「コリン、顔を上げて」


 俺はゆっくりと頭を戻しかけ、その途中、予想外に近い距離でアリスお嬢様と目が合った。

 次の瞬間、俺の唇にアリスお嬢様の唇が触れた。

 慌てて離れた俺を、アリスお嬢様が真っ直ぐ見据えた。


「これでも許されないの?」


「はい」


「コリンが罰を受ける?」


「そうです」


「わかったわ」


 アリスお嬢様は小さく嘆息してからまた口を開いた。


「コリン、口づけして」


「……は?」


「してくれないなら、今すぐ昨日のことをお母様にお話しするわ」


 俺は思わず顔を顰めた。


「恋愛小説は脅迫の仕方まで教えてくれるんですか?」


「そうよ」


 アリスお嬢様はそれまで見たことのないほど毅然とした顔をしていて、とても美しかった。


「誰にも言わないと約束してください」


 脅された末の行為だというのに、3度目の口づけはおそろしく甘かった。

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