2 慰め
妻子を溺愛する旦那様は、毎年新学期が始まる前に御嫡男を家族でセンティア校まで送り届けたが、若様を隣国まで迎えに行くのは3人の使用人に任せていた。お屋敷侍従、馬車の御者、それから若様付侍従の俺だ。
エルウェズの都のお屋敷を出発し、タズルナの都で若様を回収して、御一家が待つエルウェズのコーウェン領まで、3週間近い旅だった。
その3回目、つまり若様が首席でセンティア校を卒業された年、タズルナの都をコーウェン領に向けて発とうとしていた馬車に飛び乗ってきた人物がいた。タズルナの第三王子メルヴィス殿下だ。
若様が嫌な顔をしながらもメルヴィス殿下を馬車から降さなかったのは、すでにタズルナの国王陛下から「息子をよろしく」という手紙が、王妃殿下からはメルヴィス殿下の旅の荷物が届けられていたためだった。
「僕も連れて行け。エルウェズがどんなところか見たいんだ」
そう仰ったメルヴィス殿下の本当の目的がロッティお嬢様に会うことなのは、誰もが承知していた。
つまり、国王陛下がメルヴィス殿下の無茶な行動を黙認されたのは、殿下のロッティお嬢様への想いを容認されているから、ということになる。
俺がそれを口にすると、若様は当然の顔で頷いた。
「ロッティならメルの妃として何の不足もないだろうからな」
家柄や血筋、容姿はもちろん、聡明さと堂々たる立ち居振る舞い。
そしてタズルナの国王陛下にとっては、王子であるメルヴィス殿下を遠慮なく諫められることが何よりの評価点かもしれない。
そうして、3人の使用人の中でただひとり日常会話程度だがタズルナ語のできる俺が、お供を連れて来なかったメルヴィス殿下のお世話係を若様から投げられた。
隣国の王子といえど若様と大して変わらないだろう。そう思っていた俺は衝撃を受けた。
メルヴィス殿下のお世話は、若様相手よりずっと楽だったのだ。
必要なことははっきり仰るが、決して我儘ではない。
指定された起床時間にお部屋を伺えば、すでに起き出して寝巻を脱ぎはじめている。ただ、その手は覚束なかった。
「着替えくらい自分でやりたいのに『王子が自分で着替えをしてはいけない』と言われて、だからちっとも上手くならないんだ」
メルヴィス殿下は口惜しそうな顔でそう仰った。
王族の生活など俺には想像することしかできないが、王子には王子の、そしておそらく王子の従者にも、それぞれ悩みや苦労があるのだろう。
俺はといえば、毎朝叩き起こすことを許されるほど気心知れた間柄の若様に仕えられて幸運だと思っていたが、そもそも叩き起こす必要のある主なんて他にどれほどいるのかと、初めて疑問を抱いた。
若様以外に仕えるつもりはないのだから諦めるしかないのだが。
コーウェン領に無事到着すると、改めて奥様からメイド頭とともにメルヴィス殿下のお世話を命じられた。
ある朝、剣術の個人稽古をするメルヴィス殿下を見守っていると、後ろから上着の裾を引かれた。振り向けば、アリスお嬢様が立っていた。
アリスお嬢様は御一家の中ではもっとも早起きな方だ。
「おはよう、コリン」
「おはようございます、アリスお嬢様」
「メルは毎朝あんなことをしているの?」
「はい」
「すごいわね。ひとりでここまで来たこともそうだけど、最初に会った時はロッティの隣でニコニコしているだけの大人しい子だったのに」
「そうですね」
「でも、狡いわ。ロッティだけでなく、コリンまで奪るなんて」
アリスお嬢様の言葉に、少し戸惑った。
メルヴィス殿下が俺を奪った? 若様から、か?
「一時的にメルヴィス殿下のお世話をさせていただいていますが、あくまで私の主は若様ですよ」
「……そんなこと、わかっているわ」
アリスお嬢様は何か言いたそうな顔をしていたが、そのまま館のほうへ戻っていった。
メルヴィス殿下が帰国すると、俺は再び若様の侍従に戻った。
とはいえ、長期休暇が終わると若様は宮廷で外交官として働きはじめたので昼間はお屋敷に不在で、その間の俺の仕事は以前とあまり変わらなかった。
同じ頃から、お屋敷で仕事をしているとアリスお嬢様が寄ってくるようになった。決まって、俺がひとりの時に背後からそっと近づいてきて上着の裾を引く。
一緒に過ごす時間の多かったロッティお嬢様が学園に通うようになり、手持ち無沙汰なのだろう。
刺繍や読書がお好きらしく、俺に出来上がった刺繍作品を見せたり、読み終えた本の感想を話したりした。12歳ながらアリスお嬢様の刺繍の腕前はなかなかのものだった。
仕事の邪魔になるほどでもないので、俺は毎回アリスお嬢様のお相手をした。
アリスお嬢様が外出する時には、引き続き駆り出された。
ロッティお嬢様のいないお茶会に向かう馬車の中で、アリスお嬢様は憂鬱そうな顔をしていた。
会場に着くと決死の表情で馬車を降り、数少ない御友人の姿を見つけて安堵した様子になり、だがあまり親しくない御子息御令嬢方に囲まれて固まり、どうにか踏ん張って立っていたものの、結局いつもより早くに俺の上着の裾を引いた。
だが、そこから動かなかった。
「アリスお嬢様?」
「ごめんなさい。今日はお菓子をもらって来られなかったの」
俯き、消え入りそうな声でそう言われて、ようやく気がついた。今まではロッティお嬢様がアリスお嬢様にお菓子を持たせてくれていたのだ。
「私のことならお気になさらないでください。アリスお嬢様は召し上がられたのですか?」
アリスお嬢様は力なく首を振った。
「もうお帰りになりますか? きっと旦那様が昨日買ってきてくださったマドレーヌが残っていますよ」
今度は少し迷ってから、コクリと頷いた。
傍にいたメイドが主催者にアリスお嬢様が帰宅する旨を告げに行き、俺はアリスお嬢様と先に馬車に向かった。
「私は駄目ね。ロッティがいなくても大丈夫にならないといけないのに」
アリスお嬢様が肩を落として歩く姿は悲劇の一場面のようで、俺は咄嗟に慰めの言葉を口にした。
「焦る必要はありません。まだ時間はあるのですから、ゆっくりで良いんです」
俺を見上げた顔には悲嘆が残っていたが、それでもアリスお嬢様は笑って頷いてみせた。
その後もアリスお嬢様はお茶会に参加し続けたが、その成長ぶりは亀の歩み程度で、俺は水筒に加えてお菓子も持参するようになった。
一方、ロッティお嬢様は時おり学園から御友人方を連れ帰ってお屋敷の庭でお茶会を催し、そこにアリスお嬢様も招いた。
そちらのほうが、アリスお嬢様も固くならずにいられる様子だった。
翌年、ロッティお嬢様はメルヴィス殿下との婚約を決意した。
同じ頃、俺は初恋を失った。相手は奥様付メイドのケイト。
ケイトは父親が執事、母親がやはり奥様付メイドとどちらもコーウェン家で働いているので、若様や俺とは幼馴染だった。
自分がいつからケイトを異性として意識していたのかはよくわからないが、ケイトにとって俺はずっと弟のような存在でしかなかったらしい。
気づけばケイトはやはりコーウェン家で料理人として働くフレッドと恋仲になっていて、俺は結婚すると報告されて初めてそれを知った。
誰よりもケイトに近いのは自分だと思い込み、気持ちを伝えなかったことを後悔してももう遅い。
仕事に励んで辛さを紛らわせたが、ケイトもフレッドも同じお屋敷にいる以上、完全に逃げることは不可能だった。
相変わらず賄いが旨いのに腹が立ち、ケイトを見かけては恨みがましい気分になった。
そんなある日、2階の窓からたまたま外で話しているケイトとフレッドの姿を見つけた。幸せそうに笑い合うふたりの様子に、俺の胸が潰れたように痛んだ。
その時、突然、背中に温かさを感じた。
腹の上で重ねられた小さな両手を見れば、振り返らなくても正体はわかった。
「アリスお嬢様、どうなさいました?」
「……大丈夫よ」
きっと、ロッティお嬢様の婚約が決まって寂しいのだろう。
誰かに見咎められれば面倒なことになりかねない状況だがその手を振り解く気にはなれなくて、しばらくしてアリスお嬢様がそっと離れていくまでそのままにしておいた。
アリスお嬢様が去ってからふと思い出して外を見ると、すでにケイトとフレッドの姿はなかった。