1 お茶会
俺の実家レイナー男爵家は一応貴族ではあるが名ばかりの端くれで、実入りの良い領地があるわけでもなく、家族や親戚は皆王宮や上位貴族のお屋敷で働き、その収入でどうにか家の体面を保っていた。
だから、俺を産んだばかりだった母が、コーウェン次期公爵の第二子の乳母に選ばれたことは幸運と言えた。
しばらくしてコーウェン家に無事に生まれたのは男児で、ノアと名付けられた。
俺は乳兄弟であるノアの遊び相手になり、さらに長じて家庭教師の授業を一緒に受ける学友になった。
俺の実家では雇うべくもない優秀な教師から学べたのだから、これまた幸運だ。
御父上が公爵位を継ぎ、ノアは8歳にして次期公爵と呼ばれる立場になった。
それから3年ほどたった頃、俺はノアの御両親である公爵夫妻に呼び出された。
問われたのは、この先ノアに仕える意志はあるか、ということ。
つまりは、おふたりから御嫡男の傍にいるに値する人間と認められたわけで、俺は迷わずそれを受け、ノアの侍従見習いとしてコーウェン家に雇われることになった。
引き続き家庭教師の授業を受けながら、侍従の仕事を覚える日々がはじまった。
ずっと「ノア」と呼んでいたのは「若様」に改めた。
主従になるのだから当然のこと。むしろ気心知れた間柄だからこそきっちり線引きすべきだろう。
やがて俺は見習いから正式な侍従へと昇格した。それまでは実家からコーウェン家のお屋敷に通っていたのだが、お屋敷に部屋を与えられて住み込みになった。
朝から晩まで仕えるようになって知ったのは、若様が夜遅くまで勉強したり本を読んだりするせいで朝が苦手なこと。
毎朝、強引にベッドから引き摺り出して着替えさせるのは一苦労だった。
若様は14歳になると、隣国タズルナのセンティア校に留学した。
若様が生まれてからしばらくはお屋敷に住み込み、その後も俺の妹や弟を産み育てながら通いで働き続けていた母は、これを機に退職した。
俺は若様の不在中は主にその御兄弟のお世話をすることになった。
若様は5人兄弟。このうち長女メリーお嬢様はすでにマクニール次期侯爵に嫁がれ、次男メイ坊ちゃまはまだ幼いため、俺がつくのは専ら次女ロッティお嬢様と三女アリスお嬢様だった。
コーウェン家は家族仲がとても良く御兄弟が一緒に過ごす時間も多いので、若様に仕える私にとってロッティお嬢様とアリスお嬢様も気安い存在だった。
とはいっても、もちろん俺が若様にやっていたような朝起こして身支度を整えてといったことはもともと仕えている乳母やメイドたちの仕事で、俺の役割は見守り役や外出時の護衛役といったところ。
ある日、10歳前後の貴族子女のお茶会に参加するロッティお嬢様とアリスお嬢様にメイドたちとともに付き添った。
以前、若様が同じような会に参加するのについて行ったこともあったので、俺も勝手はわかっていた。
会場は某お屋敷の庭園。そこに集められた御子息御令嬢方がお菓子や軽食を食べながら交流を図り、俺のような各家の使用人は庭園の隅に控えていた。
コーウェン家のお嬢様方は早々に何人もの御子息方に囲まれていた。正確に言えば御子息方の目的はアリスお嬢様だ。
アリスお嬢様は齢9歳にしてすでに異性を惹きつける美貌の持ち主だった。
ところが、アリスお嬢様は人見知りのため、初対面の御子息方にあれこれ話しかけられ、必要以上に距離を詰められる状況に怯えるばかり。
それをよく理解しているロッティお嬢様が、自ら妹の盾になっていた。
とりあえず、王家とも血縁のあるコーウェン家の御令嬢に無体な真似をするほどの阿呆はいなかったらしく、俺の出る幕はなかった。
御子息方から解放されると、ロッティお嬢様はアリスお嬢様の手を引いて御令嬢方の輪へと入っていった。
おそらく今度は「妹もよろしく」などと挨拶しているに違いない。
そうして、ロッティお嬢様が御令嬢方と和やかな様子でお喋りする様子に安心していると、いつの間にかロッティお嬢様の隣からアリスお嬢様の姿が消えていた。
慌てて会場を見回した。あのアリスお嬢様がご自分の意志でロッティお嬢様から離れるとは考えにくい。
まさか、どこかの阿呆に無理矢理……。
ふいに、ロッティお嬢様がこちらを見て微笑んだ。その直後、上着の裾を後ろからクイクイと引かれて振り向けば、アリスお嬢様がそこにいた。
冷静に考えてみれば、アリスお嬢様が本当にいなくなったとしたら、ロッティお嬢様が気づかないはずがなかった。
ホッと胸を撫で下ろしながら尋ねた。
「どうなさいました? お疲れですか?」
アリスお嬢様はフルフルと首を振った。
「私がずっと横にいたら、ロッティは私のことばかり気にして楽しめないでしょう」
「……そんなことはないと思いますが」
「ううん、そうなの。だから、静かなところに行くって言って来たの」
アリスお嬢様の小さな右手が今度は俺の袖を引いた。
「こっちよ」
傍にいたメイドを伺えば「行け」と言うように頷いた。
アリスお嬢様に導かれるまま会場を離れて歩いていくと、見えてきたのは四阿だった。
アリスお嬢様がその中のベンチに腰掛けようとしたので、俺は急いで胸ポケットからハンカチを出して敷いた。
「コリンも座って」
少し迷ってから従うと、アリスお嬢様は左手に持っていた紙包をふたりの間で広げた。
中に入っていたのは様々な形のクッキーだった。おそらく会場に用意されていたものだ。
「どうぞ召し上がれ。お茶は持って来れなくてごめんなさい」
そう言って、アリスお嬢様は花の形をしたクッキーを摘んだ。
「美味しいわよ。お父様が買ってきてくださるお菓子ほどではないけど」
「もしかして、いつもこんなことをなさっているのですか?」
「私だって、お菓子は楽しくお喋りしながら食べたいの」
咎めたつもりはなかったが、アリスお嬢様はやや俯いた。
他人に囲まれた場ではお喋りを楽しむどころか、お菓子に手を伸ばすこともできない自分を恥じているように。
俺もアリスお嬢様と同じクッキーを口に運んだ。
「美味しいですね。旦那様からいただくものには敵いませんが」
俺がそう言うとアリスお嬢様は顔を上げ、ふわりと綻ばせた。俺だけに向けられるのは勿体ないほどの表情。
いや、こんな笑顔が誰かれ構わず振り撒かれたら御子息方が勘違いして要らぬ争いが起きかねないか。
思えば、それまではアリスお嬢様と俺の間には若様やロッティお嬢様、乳母やメイドがいるのが常で、ふたりきりになるのはこの四阿が初めてだった。
翌月にもまた同じようなことがあり、3度目には、俺はお屋敷から紅茶入りの水筒を持参した。
紅茶はアリスお嬢様の前に出した時には冷めきっていたが、とても喜んでもらえた。
コーウェン家御用達の紅茶はさすが高級品、冷めれば多少味は落ちるが四阿で飲むには十分だった。
お茶会の回数を重ねるうち、ロッティお嬢様の尽力もあって、アリスお嬢様がお喋りできる御令嬢がひとりふたりと増えていった。強張った表情ながら、御子息方に挨拶くらいはできるようになった。
それでも毎回、アリスお嬢様は途中で会場を抜け出し、俺を四阿でのお茶会に誘ってきた。
お屋敷でも、時おりアリスお嬢様から話しかけられた。
「あのお菓子食べた?」
「いただきました」
「今日の髪型どうかしら?」
「お似合いです」
その程度のことだったが、翌年、長期休暇に一時帰国した若様は首を傾げた。
「おまえ、アリスとずいぶん仲良くなってないか?」
「兄上がいない代わりにされているのでしょう」
実際、俺はそう思っていた。