9話
「魔虫、だと?何だ、それは」
オーガスの耳には馴染まないその言葉は、しかし、ジェットを縛り付けて離さないものである。
「……人間に憑りついて、その魔力と肉を食い漁って、その代わりに恩恵を与える。魔術であって生物である代物だ」
説明はこれで終いだ、とでも言わんばかりに、ジェットはオーガスをその場に残し、1人、魔虫へと近づいた。
魔虫へと近づくにつれ、腹の中で、自らに憑りついた魔虫が蠢くのを強く感じた。
……仲間の存在に反応しているのだろうか。
ジェットは何度味わっても尚、慣れることのないその感覚に耐えながら、ついに魔虫へ届く距離まで近づいた。
そこに蠢く魔虫は、ジェットに憑りつくものとは異なる。
当然、異なる。異なっていなければならないのだ。ジェットに憑りつく魔虫は、他に例の無いものでなければならない。そうでなければ……救われない。あまりにも。
「おい、どうした」
オーガスの声に思考を浮上させて、ジェットは再び、魔虫を観察する。
ジェットは今まで、それほど多くの魔虫を見た訳ではない。
自分に憑りついたものを半ば幻覚のように見たのを除けば、ほんの1度か2度だ。
だが、それでも目の前の魔虫の異様さは分かった。
どうも、玻璃の柱の中に居る魔虫複数匹は、それぞれが同じ姿をしており、それでいて、普通の魔虫よりも体躯が遥かに小さいのだ。
……普通の魔虫と比べて、親と子ほどに大きさが違う。
そう思った瞬間、魔虫が、動いた。
「っ!」
咄嗟に、ジェットは剣を振るう。
飛びかかってきた魔虫はジェットの剣に触れ、すぱり、と斬られ、床に落ちて消えた。
魔虫はそれ単体では酷く弱い。だからこそ、人間に寄生するのだから。
ジェットは立て続けに剣を振るって、その場に居た全ての魔虫を殺した。
それほど時間はかからず、それほど動いたわけでもない。だが、全て終わった時、ジェットは肩で息をついていた。
「……おい、どうしたんだ」
近づかない方がいいと判断したらしく、遠巻きかつ尊大にジェットを眺めていたオーガスは、不審げに声を掛ける。
「いや……大丈夫だ。なんでも、ない」
実際、何も問題はない。ただ、ジェットの腹の中で、危機を感じた魔虫がより一層強く、蠢くだけだ。
「とりあえず、この部屋に居た魔虫は全部殺した。心配は要らない」
オーガスのもとまで戻ったジェットは、そう報告すると座り込んだ。少し休んでいれば、魔虫もじきに大人しくなる。
「……腹でも痛むのか」
休むジェットの様子を見たオーガスは、訝し気に問う。
ジェットは無意識に、腹に手をやっていた。魔虫は必ずしも腹に居る訳ではないし、そもそも、実体があるのかないのかもよく分からないような代物だ。腹をさすったところでどうなるものでもないのだが、ジェットの無意識はとりあえずそのようにして体を労わることにしたらしい。
「いや……」
何と答えるべきか迷って、結局曖昧に誤魔化す。
ジェットの反応に何か感じ取ったのか、オーガスはそれ以上、追及しなかった。
通路を抜けてから休憩を挟んでいなかったので、ここで小休憩をとることにした。
携帯食を齧りつつ体を休めていれば、自然と、先ほど見たものについての話になる。
「……それにしても、魔虫、か。聞いたことが無かったが」
「大っぴらにされるようなものじゃないからな」
ジェットの言う通り、魔虫というものは一般に知られる存在ではない。
禁じられた魔術を使って生み出される代物なのだ。光の照らす場所ではその名前さえ、出てこない。
「そうか。……まあ、おぞましい見目ではあったが、人間に恩恵を与えるのだろう?何も殺さずとも良かったのではないか?」
「寄生されるつもりか?馬鹿な真似はやめておけ」
オーガスはジェットの言い様に少々気分を損ねたが、何か皮肉の1つでも言ってやろう、という気持ちはジェットを見て萎んだ。
「魔虫に寄生されていいのは不幸になりたい奴だけだ」
ジェットの表情に温度は無かった。
まるで、自分自身が『不幸になりたい奴』であるとでも言うかのように。
それきり特に会話も無く休憩を終えて、部屋の奥へと進む。
あくまでも、慎重に。この先で何らかの巨大な魔術を見ることになる予感は大きかったので。
魔虫が居た事もそうであるし、そもそも、この古城全体が巨大な魔術に覆われていることがその根拠だ。ただ何も無しに形だけ巨大な魔術があると楽観視するほど、2人とも馬鹿ではなかった。
「……臭うな。血、か?」
更に、2人の嫌な予感を裏付けるかのように、部屋の奥に見える下り階段からは微かに血生臭さが漂っている。
2人はそれぞれ武器を構え、一歩ずつ、階段を下りていく。
地の底へ近づくにつれて空気が冷え、血の匂いは次第に濃くなり、微かに何かの声のようなものが聞こえてくる。
やがて階段を下りきった先、嬌声と液体の跳ねる音、そして何より濃く血の匂いが漏れる扉を、意を決して開く。
絶句した。
そこに在ったのは、部屋一面の血の海。
そしてその血の海に揺蕩う無数の魔物と……部屋の中央で血の海に浸かりながら血を啜り、笑い声を上げる女の姿であった。
「血が集められている、のか」
部屋の中の夥しい量の血には心当たりがある。魔物の群れと戦った部屋にあった、血を吸う白い床。
あれがこの部屋へ、血を集める装置だったとすれば、この部屋の有様にも納得がいく。
血の海に浸かった魔物は、生きているのか死んでいるのか。ピクリとも動かず、ただそこに居るだけ。
まるで、あまりにもよく訓練された家畜か、人形のようだ。
魔物の姿に、既視感を覚える。きちりと整列した、部屋一面の魔物の姿。
異様なあの光景と今目にしている光景は同種のものだった。
「……ということは、あの女が元凶か」
オーガスが剣を構えると、部屋の中央で笑っていた女は、ゆっくりと、振り向いた。
その血に塗れた顔に、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべて。
「……きゃは!」
一つ、高く笑い声を上げると、女は血に浸かっていた片腕を持ち上げ、ジェット達を指さす。
「っ、来るぞ!」
瞬間、魔物達は唐突に動き始めたのだった。
戦術に違いは無い。ジェットが結界を張り、倒し、倒され、その隙にオーガスが魔法剣で魔物を屠りゆく。
前回と異なる点があるとすれば、それは戦場にある。
この戦場にあるものは、床ではなく、血の海。
想定していたより深かった血溜まりは、下手に入ると足をとられかねない。大量の魔物を相手に戦う場としては、不適切極まりない。
更に、一撃で仕留められないと、魔物は血の海に沈んで隠れてしまう。二撃目を当てるまでにどこへ行くか分からない。殺すまでに時間がかかる。よって、戦いにくい。
……無論、それはオーガスにとって、だ。
ジェットにとって、血の海は悪くない戦場だった。
斬られ、裂かれて血の海に沈み、そして、血の海の中へ姿を消したところで再生し、剣を振るう。血の海に紛れてしまえば、ジェットの出方は分かりにくい。攻撃を当てやすかった。
なんなら、魔物を引きずり込んで血の海に一緒に沈んで、一緒に窒息したっていいのだ。この戦場では攻撃の手段に困ることが無い。
元々、真っ向から戦って鍔迫り合いするよりも、不意打ちから泥仕合にもつれ込む方が余程向いている。このような、普通ではない環境で戦う方が、ジェットには向いているらしかった。
魔物の群れは全て、血の海に永遠に沈んだ。
前回よりも魔物の数が少なかったこともあり、そう長くは掛からなかった。
また、消耗も互いに少ない。ジェットは魔虫が血の海を気に入った故であり、オーガスは魔法剣の扱いがここ十数時間で上達したためである。
かくして2人は時間をかけず、消耗も少なく、実に理想的な状態で魔物の群れに勝利を収めたのだ。
だが。
女は血の池の中央で1人、笑いさんざめく。それも、酷く楽し気に。
魔物の死体が浮かぶ池の血を掬い上げ、唇を寄せ、啜る。喉を鳴らして血を飲み干す。唇に収まりきらなかった血が、白い喉を深紅の線となって伝い落ちる。
それら一挙手一投足が仄暗く官能的な美を演出し、女がきゃらきゃらと笑いさんざめく様子を艶やかに縁どった。
かくして女は血の海の中、人間とは思えない美しさ……即ち、狂気と呼ばれるであろうものを存分に見せつけて、そして。
片手を、掲げた。
「……嘘だろう」
オーガスが、どうしようもなく顔を歪める。衝撃と、嫌悪と……それらとは異なる、もっと柔らかく脆い何かによって。
血の海から這い出してきたのは、数多の兵士だ。
兵士達は一種の芸術めいて統率のとれた動きで中央の女を守る陣形をとり、それぞれの武器を構えた。
兵士の1人が掲げる槍に括りつけられた旗印。それは、血に塗れても尚鮮やかな、エメルド家の紋章である。
エメルド家第三騎士団の面々が、オーガスに武器を向けて佇んでいた。
笑いさんざめく女の如き、明らかに正気とは思えぬ笑みを浮かべて。




