11話
肩で息をつきながら、ジェットは己の手を握り、開く。完全に自分の意思で、手は動く。
それを確認して、ジェットはようやく、血の海に倒れた。
もう痛み止めは切れている。興奮剤もとうにその効果はなくしており、ただひたすらに、ジェットは疲労に満たされていた。
体の再生はそれほど必要ないだろうが、疲労は如何ともしがたい。今はただ、眠りたかった。
今眠れば、幸福な夢を見られる気がした。
ジェットが血の海に沈んだきり出てこなくなったのを見て、オーガスは舌打ちした。
オーガスにも既に、何が起きていたか察しがついていた。魔虫、とジェットが呼んだものが、兵士達を操っていたのであろう、という程度には。
戦っていた兵士達は、女が死ぬと同時に崩れ落ち、動かなくなった。
女の支配が失われれば正気に戻るのではないだろうか、と淡い期待を抱いていた自分に気づき、また1つ、舌打ちする。
……オーガスにとっては未知の、魔虫という存在。人知を超えた恩恵を得られるという点に魅力を感じもしたが、今やそれも覚めかけている。
「おぞましいな」
ジェットの不死身の体について、呪いによるものか、と尋ねたことがあった。ジェットはそれを肯定したが。
「まさに、呪いだ」
呪いだ。これはまさしく、『人を不幸にする力』だ。
やり切れなさを感じながら、オーガスは血の海に入る。
ジェットは血の海に入るな、と言っていたが、それは決着がついた今、もう無効だろう。結局は魔虫に寄生されないように、という気遣いだったのだろうから。
やがて辿り着いた血の海の中央で、オーガスはジェットを引き上げると、無遠慮に引きずって血の海を出たのだった。
「起きたな」
ジェットは目を覚ますと、血の海の岸辺に居た。
傍らに居るオーガスの様子を見る限り、オーガスによって血の海から引き上げられたのであろうことは察しがついた。
「魘されていたが」
そしてどうやら、またしても悪夢を見ていたらしい。尤も、ジェットにその自覚は無かった。悪夢など、目覚める前に忘れてしまうのが一番良い。
「いつものことだ、気にしなくていい」
答えて体を起こすと、固まった血が割れ砕けて剥がれ落ちる。快いとは言えない感覚に、ジェットは少しばかり、顔を顰める。
血粉を払いながら一度、起き上がってその場に座り直せば、頭も幾分すっきりしてくる。無論、薬の副作用による頭痛と緩い吐き気は消えなかったが、ジェットの体調にしては真面な方である。
ジェットはぼんやりしながら、少しずつ意識をはっきりさせていく。
いつも目覚めた後は、少々ぼんやりすることにしている。目を開きながら何も見ていないような状態でしばらく休んでいれば、薬の副作用も、幾分楽になるのだ。
……だが、そうして休憩していたジェットの意識は、一気に覚醒させられた。
「何の夢を見ていたのかは知らんが。魘されながら、セフィア、と、言っていた。恋人か何かの名前か?」
オーガスの、少々揶揄うような調子の、そんな台詞によって。
ジェットは一気に意識を覚醒させながら、しかし、怒るでもなく、悲しむでもなく、動揺など全くした様子も見せず、ただ凪いだ笑みを浮かべた。
「ああ。愛称だが。……あいつの名前は長くてね、普段呼ぶには不便なんで、そう呼んでた。だから死ぬときも咄嗟に本名は……ああ、すまない。つまらない話をしたな」
「……いや……」
ジェットの表情は、凪いでいた。穏やかな笑みを浮かべさえしていた。
ちら、と言葉の端に出た、『恋人は死んだ』という情報が、何かの聞き間違えだったのではないか、と思えるほどに。
だが、間違えなどではない。それは、オーガスにも分かる。
少しの好奇心をオーガスは後悔した。引きずり出してしまった影は、ぞっとする程に暗かった。
「……不躾なことを聞いた。謝罪する」
気まずさと後味の悪さを感じながらそう言えば、ジェットは意外そうな顔をして、噴き出した。
「気にしなくていい。……あんたも気にするんだな、こういうこと」
「どういう意味だ」
反論めいた言葉を発しながら、しかし、オーガスの語調は弱い。
オーガスにとっては、憎悪も怒りも、なんてことはない。だが、悲しみや虚無感に触れることは、苦手だった。
息を吐くように皮肉を吐き、他者を蔑ろにするように振る舞うのに、こうして仄暗い他者の内部に踏み込むことは苦手であったのだ。
「……貴様に聞きたいことがある」
だが、オーガスはそう切り出した。毒を食らわば皿まで、という思いだった。
少し意外に思いつつもジェットが続きを促すと、オーガスはジェットから視線を外したまま、尋ねた。
「貴様は何時、何処で、どのようにして魔虫とやらに寄生された」
「気づいていたのか」
ジェットが特に悪意もなくそう言うと、オーガスは如何にも心外だ、とでも言うかのように鼻を鳴らした。
「貴様の言動を見ていれば、嫌でも察しはつく。その不死身の体は魔虫の恩恵……いや、呪いによるものなのだろう」
わざわざ言い直すあたりに、オーガスの魔虫への嫌悪が見てとれた。ジェットはそれを、少しばかり嬉しく思う。
「ああ。俺は魔虫に寄生されてる」
「レターリルを知っているか」
レターリル。その名はオーガスも知っている。
「魔物の『軍』によって滅びた、最初の国だな」
エリオドール王国の隣国であった、小さな国。そして、数年前に滅びた国の名である。
「俺はレターリルの兵士だった。国を守るんだって、毎日毎日、飽きもせずに剣の訓練ばっかりしてた。自分に才能がないことは分かってたが、訓練を重ねれば、努力すれば、その分必ず強くなれると信じてた」
懐かしそうに笑いながら、ジェットは目を伏せる。
「レターリルが滅びる日までは」
いつでも、思い出せる。
ジェットにとってレターリル崩落の日は、つい昨日の事のように感じられる。
それは、悪夢によって幾度となくレターリル崩落を追体験しているからかもしれないし、ジェット自身があの日以来、ずっとあの日に囚われて生きているからなのかもしれない。
それでもごく軽い調子でレターリルの名を口に出せるのは、諦めているから。
二度と戻らない日を、自分自身を、諦めているからだ。
「一緒に訓練してた仲間は全員死んだ。全員、毎日毎日、ずっと訓練してた奴らだ。それでも死んだ。俺も、死にかけた」
だが、そこで初めて、ジェットは表情に諦め以外の何かを表す。
「仲間が死んでいく中、……恋人、が。やっぱり、魔物に襲われてな。守ろうとしたが、力不足だった」
あの日。
恋人に迫る魔物の前に割り込んで、剣を振るった。
だが、魔物の分厚い皮膚を貫くには至らなかった。仕留め損ねた魔物は、ジェットの胴を無造作に薙いだ。
腹を裂かれて、倒れ、流れていく血を感じながらそれでも立ち上がろうとして……結局、何もできなかった。
「俺は死ぬのを待つだけになって、恋人は……禁呪を使う羽目になった」
忘れ得ぬ声。
今もジェットを縛り続けている言葉。
『ジェット、お願い、どうか、生きて』と。
彼女は、倒れたジェットと、自らに迫る魔物との前で、ジェットには理解し得ぬ術を組み上げ。
「魔物を殺す魔術を使えばよかったのに、俺を助けるために魔術を使った」
「その結果がこれだよ」
自嘲の笑みを浮かべると、ジェットは膝の上に指を組み、額を乗せた。
「……貴様の、その、恋人、が、使った禁呪によって、魔虫が召喚された、と?」
オーガスの、おずおずとした問いに、ジェットは細い声で答えた。
「ああ。俺が見た時にはもう、あいつの姿は無かった。……魔虫を生み出すために、自分自身を、代償にしたらしい」
オーガスは何も言えなかった。
つまらない経緯であれば軽口の一つ、皮肉か嫌味の一つでも言ってやろう、などと思っていたのに、最早、掛ける言葉すら見つからない。
鍛錬は水の泡と消え、仲間は死に。恋人を守ることはできず、更に……その、守ろうとした恋人の生み出した魔虫に、現在も助けられ……きっとそれ以上に、苦しめられている。
「呪いだよ」
ジェットは顔を伏せたまま、低く呟く。
「痛みも苦しみもそのままで、でも体はいくらでも再生する。……きっとあいつは俺を恨んでた。もう、確かめることも、謝ることもできない」
はじめは期待したのだ。
何か、残された魔虫というものが、恋人の片鱗を残しているのではないか、と。
勿論そんなことはなかった。
ただ、遺志だけが残されて、ジェットを生かし続けている。それのなんと、虚しいことか。
「ああ、それから俺を見て分かったと思うが、俺は決して強くない。魔虫は体の再生はしてくれるが、強化はしてくれない。だから俺は、負けることはなくても、必ず勝てるわけじゃない」
顔を上げて、ジェットは努めて明るく、かつ仄暗く、そしてごく軽く、言う。
「レターリルのときもそうだった。初めて再生する体に戸惑いながら、戦って……痛みで動けなくなるわ、手足が斬り落とされれば動けなくなるわ、結局、死なないだけで役には立たなかったさ。……しかもそこに、『勇者』が来た」
「勇者、か」
オーガスも、その存在は知っていた。
神の加護を受けて現れ、レターリルを滅ぼした魔物を圧倒的な力で捻じ伏せた、『勇者』。
たった一人で千を超える魔物を屠ったとも言われるその『勇者』は、一度滅びたレターリルを復活させることこそできなかったが、魔物の『軍』のそれ以上の侵攻を食い止めた。
……下手をすれば、レターリルの次はエリオドールだったのだ。
レターリルは犠牲になったが、エリオドールは守られた。そういった意味で、『勇者』の名はエリオドール国内において名高い。
だが、ジェットにとって『勇者』は、形を持つ悪夢である。
「ああ。勇者、だ。神の加護があって、とにかく強い。俺は勇者が戦う様子を見てたよ。ああいうのを、天才って言うんだろうな。自分が苦戦していた魔物が、ゴミのように消し飛んでいった。人を殺しに殺した魔物が、たった1人の勇者によって消し飛んだ」
一呼吸おいて、一瞬、言い淀み、だが、ジェットは呪いのような言葉を口にした。
「全てが馬鹿らしくなったね」
あの時。
信じ合い、共に努力してきた仲間達は皆、死に。
恋人は魔虫を残して死に。
ジェット自身は何もできず。
そして、レターリルの兵士達が築き上げてきた物を踏み躙った魔物達が、1人の勇者によって消され。
……ジェットは、魔物を殺していく勇者の姿を見て、助かった、という思いよりも先に、虚しさを感じた。
自分達が何年もかけて築き上げたものは、たった一人のたった一瞬に劣るのだと、見せつけられた。
凡人の努力をあっさりと超える天才の姿を、見せつけられた。
魔虫に寄生されても尚、結局はただ、死なないだけの凡人だった。今まで築き上げてきたものも、新たに手に入れてしまった不死の能力も、役に立たなかった。
神の加護と才能の前には、努力も不死身の体も、まるで無価値だった。
「……まあ、俺は不死身になった。だから大して強くもなくとも、魔物を殺せる。この能力は、魔物を殺す為の能力だ。ある意味、望んだとおりの能力だな。きっとセフィアもそう望んでたんだろう」
そう締めくくって、ジェットは立ち上がった。
未だ、頭痛と吐き気はあるものの、落ち着いてはきている。少なくとも、動くのに支障は無さそうだった。
「これからあんたはどうするんだ」
話を切り替えようという意図なのか、特に考えず聞いているのか。とにかく突然ジェットから発された問いに、オーガスは面食らう。
「どうする、とは」
「この後だ。フォレッタに戻るのか?」
言われて、オーガスは考える。
ジェットのことばかり考えていたが、今、問題があるのはどちらかと言うと自分の方だろう。
兄に謀られ、兵は死に。このまますごすご帰るわけにはいくまい。
元々、オーガスがこの古城へ来た理由は至極単純。戦果を上げ、武勲を打ち立て、兄達を出し抜き、自らの立場を得ることだ。
ならば。
「貴様の目的は魔物の殲滅。変わりはないか?」
「ない。俺は魔物を殺す為に生きている。それから、魔虫について分かることがあれば、それも知りたい」
ジェットの答えに、オーガスは満足げに頷いた。
「そうか。魔虫は心底どうでもいいが、魔物の殲滅は私にとっても利がある。魔物は殺せば殺すほど名声につながるからな。つまり、概ね目的は同じということだ」
そこまで言って、オーガスは切り出した。
「ジェット・ガーランド。改めて、私と手を組まないか」
使い方次第で一千の兵士にも能うこの稀有な人材を、利用しない訳にはいかない。