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だからどうか、

作者: 貝中ひとの
掲載日:2018/03/16

 ごぼ、ごぼごぼ、ごぼ、ごぼ、ご、ぼ、ぼ。

 深い深い海に潜っていく、いや私には綺麗な尾ひれなんて付いていないから、ただただ沈んでいく。どこまでも沈んでいく。沈みながら歪み(ひずみ)ながら私は考える。幼い頃から人魚姫という童話が好きでなかったその理由を。どうしてだろう。ごぼごぼごぼ、どうしてだろう。ごぼごぼごぼごぼごぼごぼ。どう、し、てだ、ろう。ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ。

 嗚呼、そうか、私には綺麗な尾ひれもなければ海の中に居続ける事も出来ない。何より、何より私には自分の全てと引き換えにしてもいいと思える王子様なんて居なかった。だからイトイに出会って陸に引き上げてもらった時、

「海の底に星はあった?」

この人が居なければ生きていけないと思った。



 冷房の効きすぎた部屋、寒さで目を覚ます。少し痛い喉に微かな苛立ちを覚えながら寝返りを打って隣にある温もりを探すと、それは思ったよりも近くにあった。端正で彫刻のように彫りの深い横顔が枕の向こう側に落ちている。起こさないようにずりずりと静かに近づく。長い睫毛が呼吸音に合わせて上下していてそれはカーテンの隙間から入ってくる月明かりに照らされ、男性にしては白い肌に薄い影を落としていた。そっと前髪に触れるとくすぐったいのか僅かに首を逸らされた。

 それから暫くの間イトイの顔を眺めていたがいい加減に寒くなってそろりとベッドを抜け出ると冷房を切った。

 イトイは暑がりのくせに冷房をつけようとしない。それはここが私の部屋で私が寒がりなのを知っているからだろう。或いはイトイの奥さんが寒がりだから、か。


 ベッドの側にあったロングカーディガンを下着の上に直接羽織ると私はキッチンでホットコーヒーを入れる。ゆらりと立ち昇る湯気の向こう側に幸せそうなイトイが見えた気がして私は自分自身が今更罪悪感を感じている事に気が付く。口元が嘲るように形どって私が私を馬鹿にする。イトイとの関係を、この行為の馬鹿馬鹿しさを、虚しさを寂しさを弱さを現実を惰性を他人を苦しみをイトイへの好意さえ、私が私を馬鹿に馬鹿に馬鹿に馬鹿に馬鹿に馬鹿に馬鹿に馬鹿にする。

 私はまだ湯気の立ち続けるコーヒーを思いきり飲み下した。熱い。いや熱いさえも超えて刺激だけが乾燥した喉を勢いよく通っていく。入り切らなかった液体が口の端から漏れて顔を汚す。気道にも容赦なく入り込んで、体は異物を外へ出そうと咽る。シンクへぶちまけたコーヒーは唾液と混じり合ってだらりと汚らしく糸を引いた。口の中が食道がびりびりと震え、涙と鼻水が反射的に出てきてどんどん惨めな姿になる。それでも私は、私を馬鹿にした自分を貶める事が出来て満足していた。

 私はイトイが居なければ生きていけないというのに、それを社会的だとか倫理的だとかイトイの奥さんがだとかそんなもので別れを選択させようとする私は私の敵で、それは緩やかで遠回しな自殺に他ならない。自分自身すら信用ならない真っ暗な海の底でイトイを求め続ける私。本当はイトイの気持ちなんて1ミリも考えていない私。それでもイトイを愛している私。奥さんを愛しながら私を抱くイトイを愛している私。涙と唾液とコーヒーでべとべとになったまま、私は沈んでいく。沈みながら歪み(ひずみ)ながら破裂しそうな自己矛盾を大切に大切に抱えて深い海へと消えていく。ごぼごぼごぼ、ごぼごぼごぼ、ごぼご、ぼ。

「海の底に星なんてなかったよ」

答えた声もあぶくとなって、童話の人魚姫のように消えていく。


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