第3話 ……いいですよ、キスしても
「何か私にして欲しい事とか、あります?」
学校からの帰り道、私は隣を歩く彼に向けてそんな質問を投げかけました。
それは特に深い考えがあっての事ではありませんでした。下校中のちょっとした話題の種でしかなかったのです。
食欲旺盛な彼の事です。お弁当に入れて欲しいおかずの候補をつらつらとあげるかもしれません。
ご近所のスーパーで購入可能な冷凍食品たちのみでは、彼の要望に応えきれなくなりつつある今日この頃。そろそろ私も真面目に料理に取り組まなければならない時期が迫っているのかもしれません。
正直、面倒くさいです。栄養や彩りに気を使ったり、前日の夜に仕込みをしたり、今よりも早起きしたりするのは。
そもそも女子の手料理をありがたがるという事自体、前時代的ですし?
まぁ、ありがたがられたり喜ばれたりして、悪い気はしませんけれども。
彼は人懐っこいワンコのように、実に素直に嬉しさを露わにしてくれるので、こちらも張り切り甲斐がなくはないといいますか? それにこちらには『嘘の告白をして騙している』との負い目もありますし? 調理の腕が上がって損はありませんし? お弁当の製作費は、遊びに出かけた時におごって頂いているので、チャラとして構いませんし?
だからまぁ、そんなわけで……彼が望むのならば、真心込めたお弁当を作ってあげても構いませんけれども。
―――などと胸の内で考える私に向け、彼はこう言いました。
「して欲しいっつーか、一緒にしたい事があるんだけど」
「何ですか? テスト勉強ですか?」
「真面目か! 何でまず勉強が出てくんだよ」
「危機感を抱いたのかな、と。あまり成績はよくないようですし。で、実際大丈夫なのですか? 私とテスト対策します? 早ければ早いほど効果的ですよ?」
「うぐっ、それは……うん。お願いします」
「かしこまりました」
「あんがとな。気の利く彼女さんで俺は嬉しいよ……って、そうじゃなくて! いや、テスト対策もすげぇありがたいけど! 俺がしたいのは、もっとロマンチックで恋人っぽい事だよ! キスとか!」
――――――は?
…………きす。
……キス?
口付け。
接吻。
ちゅー。
愛情表現の一種。
互いの唇を触れ合わせて愛撫する行為。
誰が?
私が?
誰と?
彼と?
「………………え?」
「おーい? まだ何もしてねーのに固まられても困るんだけど? あっ、今ここでしていいって事? もうキス待ち体勢?」
「ひぁっ!? よっ、よ、よくないですよ!? 待ってください! 何を言い出すんですか!」
「だって、俺ら彼氏と彼女だぞ? なら、チューしてもいいだろ? してみたいだろ?」
「それは……ぅぅ、ですが……」
好きな人とキスがしたい。それはきっと自然な欲求なのだと思います。
まことに遺憾ながら、私は誰かを本気で好きになった事も、キスしたいと強く恋い焦がれた事もまだありませんから、あくまでフィクションを参考にした推測に過ぎませんけれども。
私にとってのキスとは『いつかは誰かとするのでしょうか? その時は是非とも素敵な感じでしてみたいですね』などと、どこか他人事のように考える程度のイベントでしかなくて。
もっともそんな事を言い出したら、告白するだとか、お弁当を作るだとか、遊びに出かけるだとか、ここ最近体験した多くがキスと同様に『私には縁遠いはずの恋愛イベント』であったわけですけれども。
「俺とキスすんの、嫌か?」
「……嫌と言うわけでは」
私は目の前の男子を見つめ直します。
お調子者で、ちょっとお馬鹿で、でも素直で、犬っぽくて、時々視線がえっちぃくなる事がある人。
悪い人ではありません。
嫌ってもいません。
むしろ最近は好感を覚えてすらいます。
こうして並んで下校する事にも抵抗感を覚えなくなってきました。
だからまぁ……いいかな? と。
人生は何事も経験ですし?
ここは夕暮れ時の通学路。しかも住宅街のど真ん中ではなく、木々の生い茂る公園脇の少々手狭な歩道。人気は見当たりませんし、ちゅっと唇を重ね合わせるくらい、すぐに済んでしまう事ではないですか。
しちゃっても……いいのではないでしょうか?
「1つだけ聞いてもいいですか? あなたはキスがしてみたいんですか? それとも私とキスがしたいんですか?」
「んん? 何が違うんだ?」
「例えば、今ここにすっごく妖艶な美女が現れて『キスしましょう?』って誘ってきても、私とキスしたいですか?」
「うん」
「…………即答ですか?」
「いや、いくら美人でも見ず知らずの人とキスとか無理だろ。こえーわ、そんなん。逆にそっちはどうなんよ? アイドルが『俺とキスしようぜ』って誘って来たら、ホイホイすんの?」
「少なくとも私はしませんね」
「……ふっ、そうだろうな。君が唇を捧げたい相手は俺だもの、な?」
何故か彼は軽く腰を捻り、顔の半分を自らの手で覆い隠します。それは端的に言って、格好悪いポーズでした。
「たった今、捧げたいポイントが暴落しました」
「あれぇ!? キメ顔で言ったのに? こーゆー俺様チックなセリフで女子はときめくんじゃねーんか?」
「あっ、急騰しました」
「上下するタイミングが不可解過ぎるぞ!? どこにそそられてんの!?」
「あなたは変に格好つけない方がいいと思いますので。まぁ、時にはムードを重視してもらいたいですけど」
私の言葉に一喜一憂する彼が、とても可愛らしく思えました。彼にとって『可愛い』は褒め言葉には当たらないそうなので、もちろん口には出しませんけれど。
「……いいですよ、キスしても」
「マジか!」
「あなたが私の事を好きだと言ってくれるのでしたら、ですけれど」
「…………えっ、ぃ、言わなきゃダメか?」
「あなたは好きでもない女の子にキスしたいのですか?」
いけしゃあしゃあと彼に問う私は、きっと途轍もない卑怯者なのでしょう。自分は純真な好意を手渡していないくせに、相手には求めてしまっているのですから。
えぇ、私は今、ドキドキしてながら望んでいます。
目の前の男の子が、真っ向から自分に好意を向けてくれる瞬間を。
「ぅ、む…………す、好きだよ。俺も。君の事が、好きだ」
彷徨わせていた視線をどうにか私に固定し、彼は怒っているような、それでいて泣き出しそうな、何とも複雑な表情で想いを紡いでくれました。
「正直、告白してもらえた事は嬉しかったけど、本人が好きかって言うと別にそうでもなくて。あっ、最初な? 今は違うぞ? しゃーねーじゃん? あの日の告白まで、同じクラスってだけで特に絡みなかったしさ。でも、話してみるといいヤツだなって思えて。弁当もマジで作って来てくれるし。女子と付き合うのって、もっと疲れっかなーって思ってたけど、そうでもねぇし。むしろ楽しいし。あと……可愛いし。だ、だからまぁ、とにかく今は好きで。だからキスとかしてみたいし……だから、だ、抱きしめて、いいか?」
だからだからと、訥々と。けれども、その拙さが純粋さの証に思えました。
私がこくりと頷くと、彼はごくりと一度喉を鳴らしました。それからゆっくりと足を一歩前に踏み出して、彼は私の背中に腕を回していきます。
「ぁ、あの……」
「うん? 何だ?」
「わ、私も……好き、です。あなたの事が」
今、私の心に広がるこの感情は、何なのでしょうか?
罪悪感? 後悔? 羞恥心?
決して負の感情だけではなく、安らぎに似た何かも混じっているように思えます。
そう。彼に好きだと言わせた事を申し訳なく感じつつも、私は喜んでいます。そして自身が今一度きちんと『好き』と口に出来た事に安堵しているのです。
今の言葉は、嘘ではありません。無理もしていません。
言わされたものではありません。言いたくなったから、言ったのです。
「正直に言って、私はあなたが苦手です。声は大きいですし、動作も大きいですし。騒々しいです。あと、どれだけ言っても無駄に早食いですし。お馬鹿ですし」
「……あ、あのぉ? 評価ボロっクソだけど、俺のどこに惚れてくれたんスか?」
「端的に言えば、元気なところです。ガツガツお弁当を食べる姿も、健康に悪いとは思いつつも嫌いではありません。クラスのムードをさらっと高めてみせる姿には、いつも感心しています。ついつい騒ぎ過ぎて先生から注意を受けてしまうのは、ちょっといかがなものかと思わなくもありませんけれど」
「そんなもんッスか?」
「長所と短所は表裏一体。あばたもえくぼという事ですね」
「……なるほど」
あばたって何だっけ? まぁ、いいや。どうでも。今聞く事じゃないよな、うん。
きっと彼はそんな思いを飲み込んで『なるほど』と呟いたのでしょう。
そんなお間抜けなところも、私は愛らしく思います。
……何故でしょうか? 彼の比重が自分の中で急に増大していっているのですが。
好きだと言ってもらえたから? ただ、それだけ?
いえ、もしかして私は自身で考えていた以上に、前々から彼に絆されていたのでしょうか?
あるいは恋する乙女を演じているうちに、本気になってしまった? 着けた仮面が顔と心に張り付いてしまった?
いえいえ、昨今はそれほど気を払って演技していた覚えがありませんし……。
あれ? つまり私は素の自分で彼との時間を面白おかしく過ごしていたという事で?
『付き合うのって、もっと疲れっかなーって思ってたけど、そうでもねぇし。むしろ楽しいし。あと……可愛いし。だ、だからまぁ、とにかく今は好き』
先の彼の言葉を心の奥でリピートし、私は小さく笑いました。えぇ。ごもっともですね、と。
「目ぇ、閉じてくれ」
「……はい」
これから何をされるのか。分かっていながら、私は素直に目蓋を下ろします。
軽く背伸びし、顎を上向かせ、彼を待ちます。緊張はしますが、不安はありません。
「…………んっ」
その小さな声は、私のものなにか、彼のものなのか。
唇が繋がっているせいで、はっきりとはしませんでした。
目の前が真っ暗なせいか、唇に意識を集中してしまいます。
柔らかな感触。熱くも、冷たくもなく……あぁ、頬は異様に熱いです。
風邪を引いた時よりも、今の私の顔は真っ赤に染まっているはずです。
ふと、思います。
もしや私は穿った見方が出来ていなかったのではないかと。
私が1人ひねくれていただけで、周囲はあくまで善意から告白するよう促してくれたのではないでしょうか? 本気で私と彼を『お似合いだ』と見込んでくれたのではないでしょうか?
だって、こんなにも……私と彼は上手くいっているじゃないですか。
終わりよければ、全てよし。
あの日の告白は出任せでしたが、今はもう違います。
私は彼が、好きです。
なら、それでよいのだと思います。
「んっ……じゃ、じゃあ、帰るか」
「はい。あの……もしよければ、家まで送って行ってもらっていいですか?」
「珍しいな? そんなん頼んでくるなんて」
「……もう少し、一緒に歩きたい気分なのです。ダメですか?」
「ぅんにゃ、全然!」
私たちはいつも以上に身を寄せ合ったまま、前へと進み始めました。
しっかりと地面を踏んでいるはずなのに、まるで雲の上を歩いているようなふわふわとした感覚。
その日、私はとても幸せでした。
「あっははぁ♪ 嘘に決まってんでしょ?」
「…………は?」
「あの子がアンタをマジで好きになって? 勇気を出して告白する? ないない、あり得ない。全部ウソよ、ウーソ」
翌日、うきうきとした心地で登校した私を待っていたのは、楽しげに笑う友達たちと、呆然とする彼の後姿でした。