表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人魚姫  作者: らら
2/3

人魚姫02

人魚姫02


上原うえはらは実に優秀な生徒ですね。坂下さかした先生は担任ですし、鼻が高いでしょう?」

「そうですね」


何とか取り繕った笑顔は不自然ではなかっただろうか。水貴は内心ひやひやしながらも、上司である教師の意見に愛想良く頷いて職員室を出ると帰路に就いた。上原陸うえはらりくは、水貴が教鞭を執るクラスの生徒である。成績優秀、眉目秀麗、品位方正、スポーツ万能、そんな賛美を並べても足りないくらい陸は何もかも良く出来てた。教師からは信頼され、生徒からの人気は高く、陸はいつだって学園の中心にいて静かに笑っていた。その笑顔を見る度に水貴の心はぎゅうっと締め付けられる。口角は上がっているのに、瞳の中には少しも光が見当たらなくて居たたまれなくなった。水貴以外は気付いていない様だが、何て痛々しい笑い方をするのだろう、と見ているこっちが息苦しくなる。


(俺の所為だ……)


もう何年前の話になるだろう。水貴が教師になるずっと前、十代の頃に陸の兄と付き合っていた。いや違う。自分はただのセフレだった。聖職者にあるまじき過去だが、言い訳するならば若さ故の無防備さが災いしたとでも言うべきだろうか。水貴は陸の兄──みつるを心から愛していた。満には他に好きな人がいると分かっていてもなお諦め切れず、身代わりとして抱かれていたのだ。心が手に入らないなら、せめて身体だけでも繋ぎとめたかった。満の気を少しでも引きたくて必死だったのだ。今振り返れば、当時の自分は相当危うかったと思う。心のバランスが上手く取れなくて、足を手に入れたばかりの人魚姫の様にふらふらとどこか覚束なかった。生まれてきた場所を間違えてしまったのかも知れないと真剣に考えたこともある。自分の生きる場所は地上ではなくて水の中なのかもと。誰かに話したら怪訝に思われてしまいそうだが、当時は息をしているという感覚にさえ違和感があった。これではいけないと思えたのは陸のおかげだ。


“水貴おにーちゃん!”


昔の陸の笑顔を思い出す。陸は五歳だったが、複雑な家庭環境で育った所為かどこか達観している節があって大人びいた子供だった。表情の彩りも驚くほど少なくて、陸と出会った当初は心配になったのを覚えている。満に約束をすっぽかされたり、中々帰ってこなかった日は陸と一緒に時間を過ごした。御飯を食べて、色んな話をして、色んな遊びをした。一人っ子だった水貴は弟がいたらこんな感じだろうか、と陸との時間を純粋に楽しんだ。いつだって聞き分けが良く、他人の顔色を伺っていた陸は無意識に自分の気持ちを抑え込んでいたに違いない。水貴がそっと手を差し伸べてやれば、表情はみるみる豊かになって子供特有のキラキラした瞳を輝かせながら懐いてくれた。陸と触れ合う度に水貴の荒みきった心は癒されていく。水貴と違い、汚れた所など一つとして見当たらない陸はどこまでも真っ直ぐで、水貴が思っていた以上にずっとずっと純粋な子だった。子供らしい我が侭は最後まで聞けなかったが、無垢過ぎる陸を見ているうちに水貴はふと思い悩んで我に返った。自分は何をやっているのだろうかと。報われない恋に悲劇のヒロインを気取るのはいい。しかしいつまでもそれに浸って自分を哀れんだところで何になるのだろう。人魚姫のように泡となって消えたいのだろうか。嫌だ、と直ぐに思えた。そう思えたことが嬉しくて足元を見下ろしてみる。自分には自分の力で歩ける足があることを今更ながら強く実感して、地面を思い切り踏み締めた。目を閉じて、陸のまっさらな笑顔を脳裏に浮かべる。あんな表情が出来るならきっともう大丈夫だと思った。だから手を離した。


──いって、らっしゃい……。




「こんばんは、水貴先生」

「上原、ここは生徒立ち入り禁止だと何度言ったら分かるんだ」


今回で何度目になるだろうか。制服姿の陸が当然の様な顔をして水貴の部屋の前に立っていた。水貴の学園は全寮制で、教師にも専用の宿舎が用意されている。原則生徒の立ち入りは禁止なのだと再三注意しているのだが。


「大丈夫。オレは優秀な生徒だからいくらでも誤魔化せるよ。水貴先生の不利になることには絶対にならない」

「そういう問題じゃないだろ!」


水貴がキッと睨み上げれば「冷たいな」と陸は肩を竦めながら笑う。高校生とは思えない、薄暗さを孕んだ双眸に水貴の胸はまた痛くなった。


「まあ長期戦は覚悟してるから大丈夫。ようやく会えた訳だし」

「偶然って凄いな。世間は意外と狭いんだな」


満と決別する為、遠く離れた地での生活を選んだのだが、まさか陸と再会しあまつ自分の生徒になる日が来ようとは夢にも思わなかった。そう本音を漏らした水貴に陸がふっと口角を吊り上げる。何とも嫌な笑い方だった。


「偶然? まさか全部オレが頑張った成果だよ」

「頑張った……成果?」

「兄貴は辿り着けなかったみたいだけどね。馬鹿な男だ。でもオレは小さい頃から人脈をこつこつ作ってたし、昔さ色々教えてくれたでしょう? 教師になりたい話とか、住んでみたい地域とか、水貴先生の色んな未来図をね。ずっと良い子ちゃんで過ごしてきたから実家から離れたこの学園への入学もすんなり出来たよ」

「……」


呆然と陸を見る。陸の目はやはり暗かったが、眼差しは恐いくらいに真っ直ぐだった。時が止まった気がした。全身に纒わり付く執着心を感じてぞわっと粟立つ。そこにあるのはどこまでも直向きな純粋さで、陸の中にあるキャンバスは何の疑問もなく水貴だけを描いていた。何てことだろうか。水貴は上手く息が出来ない気がしてくらくらした。


「ねえ水貴先生、オレアンタのことが好きだよ」

「上原……」

「今は答えてくれなくて良いんだ。水貴先生の立場はちゃんと分かっているつもりだから良い子でいるよ」


果たして何を間違えてしまったのだろう。何が悪かったのだろう。今、確実に分かり切っていることは一つ。こうなってしまったのはやはり自分の所為なのだ、と水貴は目頭を熱くさせる。陸は幸せになるべき子だ。誰よりも純粋で、誰よりも繊細で、誰よりも孤独だった陸。逆転されてしまった視線の位置に戸惑いながらも少年から青年へと成長を遂げた陸を見上げてみる。水貴への執着を饒舌に語ったくせに最後の最後で水貴に委ね、水貴の顔色を伺ってくる陸と五歳だった頃の陸の面影とがぴたりと重なり合った。図体ばかり大きくなった陸だが中身はきっと何も変わっていない。ただ水貴が手を離してしまった所為で、大きく傷付けてしまった。光を奪ってしまった。


「泡にならなくて、消えなくて良かった」


薄暗かった陸の瞳からはらはらと涙が溢れ出す。あまりに静かに泣く陸は、深海でたった一人人魚姫の帰りを待っていたのかも知れない。水貴には陸こそが人魚に見えた。


「りく……」


御免なさい、と謝るのは違う気がして陸の名前を紡ぐだけで精一杯だった。泡にならなかった人魚姫は足を手に入れ、地上の生活にすっかり慣れてしまったのだ。罪悪感の様なものが水貴の胸を押しつぶす。


「やっと名前で呼んでくれた」


無邪気に微笑んだ陸はどこまでも痛々しくて。上手く呼吸が出来ているのか心配になって、陸の頬へと右手を伸ばした。陸の手が重なる。


「おかえりなさい、水貴お兄ちゃん」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ