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ハニトラ失敗とその顛末

 建部山城に荒木村重を置いて俺達は戦を終わらせて帰路につく。

 丹波経由ではなく、行きと同じく若狭を通って琵琶湖に出るルートなのは道中で水路が使えるのと、丹波戦に下手に関与するのを避ける為だ。

 という訳で、若狭国後瀬山城に寄り若狭武田家と水運絡みの折衝をした後で、水坂峠を経由して帰ることにする。

 そこで、史実では戦闘が発生しなかった第五次川中島合戦の詳報を掴むことができたのである。


「なるほどな。

 武田信玄は小笠原長時の帰国を掴んでいた訳だ。

 で、小笠原家の旧領である深志城へ警戒の兵を入れるべく、兵を割いた」


「で、そこを狙われたと」


 海路で入ってきた情報なので基本上杉家よりのバイアスがかかっている。

 それを割引いても上杉輝虎の化物ぶりが伝わってくる。

 上杉軍はおよそ八千で善光寺に陣を置き、武田軍は一万五千の兵で塩崎城に出張る。

 ここから対陣が始まったのだが、小笠原長時の一件がこの戦に波紋を投げかけた。


「つーか出来過ぎだろう。

 小笠原長時の帰国はたしかに上杉のお膳立てだが、だからって少数で討ちに行くか?

 普通……」


 小笠原長時が姫川をさかのぼって安曇郡に入る事をつかんだ武田信玄は、嫡男武田義信と飯富虎昌に三千の兵を預けてそちらを警戒させる事にしたのだ。

 だが、それを見越していた上杉輝虎は馬廻数百のみで出陣しこれを急襲。

 不意を突かれた形になった武田軍は飯富虎昌が殿となって逃がそうとするが討死。

 逃げきれぬと悟った武田義信も結局は後を追う形になり、敵襲で慌てて塩崎の武田軍が駆けつけた時には上杉軍は影も形も見えなかったという。


「八幡原の戦いでも、何故か武田軍の出陣を掴んでいたんですよね。

 この御方。

 小笠原や村上をはじめ信濃領主を味方にしていたからこそできたのでしょうけど」


 果心が言うといやに説得力が増す。

 武田家も上杉家も諜報については独自の忍び組織を持って力を入れている。

 で、北信濃を領有して十年しか経っていない武田家と、地元の元領主の地縁血縁が使えた上杉家の差が出たという訳だ。

 まあ、あれは後世『上杉輝虎だから』で片付けられるからいいや。

 話がそれた。


「とはいえ、兵数では勝っている武田軍は以降塩崎城から出ず、上杉軍の挑発にも乗らないので兵を退いた訳だ」


「小笠原殿が信濃入りはしたみたいですが、ここまで届いていないという事はうまくいってないかと」


 これがこちらに届いた上杉軍大勝利こと第五次川中島合戦の詳細である。

 上杉軍はたしかに合戦には勝ったが川中島の要衝海津城は抜けず、信濃国境沿いで小笠原長時が入って蜂起を呼びかけている程度で、戦略的に見れば武田軍の守り勝ちに見えなくもない。

 とはいえ、武田家の損失は領地でも兵でもなかった。


「嫡男の討死か。

 荒れるだろうなぁ」


 順調に行けば諏訪勝頼こと武田勝頼が後継者になる形になる。

 だが、はやくも後継者不在の隙を突いて魑魅魍魎が蠢いていたのを俺達は知っていた。


「信虎殿ですね」


 武田信玄の父親でクーデターにて追放された武田信虎は京に屋敷を構えて、武田家の在外公館みたいな形になっていた。

 とはいえ独自色が強く、果心の正体がばれない程度の影響力しか持っていないのは、足利義輝が上杉家と親密な関係を築いていた事が大きい。

 武田・北条・今川の三国同盟が機能している現在、武田家の諜報の大半は北信濃と西上野に注がれており、京まで手が回らないというのもあるだろう。


「果心様」


 外から声が聞こえ果心が障子を開けると、一人の女中が居た。

 どこかで見たような顔だなと首をかしげたら、果心が苦笑しながら彼女の正体をバラす。


「お忘れですか?

 岸和田城で雇ったくノ一の一人ですよ」


 いや。

 あの時の紹介は遊女姿だっただろうが。

 女は化ける。

 そんな事を思っていたら、その女中くノ一が平伏して口を開いた。


「申し訳ございませぬ。

 御役目、しくじってしまいました」


 果心の顔が厳しくなったが、その前に俺が割って入る。


「御役目とは?」


「はっ。

 八郎様に命じられ、木下秀吉の下で間者働きをしていたのですが、木下秀吉に抱かれてお子を孕んでしまいました」


 なんだと!?

 よく見ると女中のお腹が少し膨れている。

 若狭後詰の戦は丹後支配等の戦後処理が長引いて、気づいてみたら三ヶ月以上経過している。

 まあ、くノ一で情報を得る場合は色仕掛けが一番手っ取り早いか。

 そんな事を考えつつも頭のなかで渦巻いているのはただ一つ。


(種無しじゃなかったのかよ……秀吉よ……)


 ふとある事に気づいて、俺は果心に尋ねる。


「なぁ。

 もしかして、こいつに色事仕込んだ?」


「もちろんでございます。

 ですから、望むならば有明様とて」


 さすがエロのエキスパートくノ一。

 そして、それを拒否した有明の覚悟もいやでも感じてしまう。

 両手で頬を叩いて、俺は一旦その事を忘れた。


「果心。

 この場合どうなるんだ?」


「別の者と入れ替えですが、孕んだまま間者としては働けませぬ。

 堕ろす事になるでしょうね」


 くノ一であるが故に、そのあたりはものすごくシビアだ。

 だが、狂いつつある歴史であっても、俺はこの質問の誘惑に耐え切れない。




 豊臣秀吉に成長した実子が居た場合、徳川家康が天下を握れたのか?




 歴史好きなら誰でも一度は考えた疑問だ。

 そして、この疑問は、役者が違うが俺達の前に提示されている。




 三好義興が生きている三好長慶から、織田信長は天下を奪えるのか?




 なんという皮肉だ。

 答えの前に、現状をつきつけるから歴史というのは面白い。

 そして、ここが歴史の分水嶺だとなんとなく俺は悟った。


「有明の覚悟を知った上で子供を堕ろすなんて聞いたら、救わねばならんだろうよ」


「お育てになるので?」


 意外そうな果心と女中くノ一。

 彼女も俺が産めと命じるなんて思っていなかったのだろう。

 二人の顔を見ながら、俺は苦笑して紙と筆を持つために文箱をとりに行く。


「それは、木下秀吉が決めるさ」





 木下秀吉は少数の供しか連れずに、俺達の帰路である箱ヶ岳城で待ち受けていた。

 そして、果心とくノ一を連れて近くの寺で対面する。

 あえてくノ一は遊女姿になってもらい、そういう身分の女である事をアピールさせた上で、俺は木下秀吉に頭を下げた。


「木下殿。

 申し訳ございませぬ。

 こちらで手配した遊女が孕んでしまい……」


「そんな事はどうでもいい!」


 場所と立場をわきまえずに木下秀吉は俺に怒鳴る。

 人誑しとかでない素の彼の顔が見える。

 そして、慌てて己の失言に気づいて俺に頭を下げた。


「申し訳ござらぬ。

 つい……」


「構いませぬ。

 そもそも、これはそれがしの失態。

 責められるのは当然かと」


 木下秀吉は俺の台詞も虚ろにしか聞いていない。

 彼の視線にあるのは、彼が孕ませた遊女のお腹。


「本当に……本当に俺の子供なのか……?」


 ぽつりと、木下秀吉が呟く。

 目には涙が浮かんでいる。

 それに気づかずに、木下秀吉は呟く。


「惚れたおなごが居ましてな。

 色々ありながらも押し切って祝言をあげたは良かったが、まだ子に恵まれませんでな。

 大友殿のご助力もあって越前国金ケ崎城を大殿より頂きましたが、その出世を妬む者から色々言われ申した。

 それがどれほど辛かったか」


 織田家は実力社会だ。

 身分など関係なしに抜擢されるかわりに、家中の足の引っ張り合いも凄い。

 そんな彼が要衝金ケ崎城の大名になった。

 現在進行形で色々言われているのだろう。


「大友殿。

 この一件、それがしに任せるというのは本当ですな?」


 俺は無言で頷いた。

 俺自身でこの運命を決めるには大きすぎたし、それを決めるのは当事者の方がいいと思ったからだ。

 だから、全部バラした文を木下秀吉の元に送ったのだ。

 そしてそれは、この現状を作り出していた。


「間者として送り込み子を孕んだ以上、その子供は堕ろさねば仕事ができぬ。

 だからこそ、子が欲しいならばその間者の処分を考えねばならぬ。

 非があるのはこちら。

 木下殿。

 全てをお任せします」


 くノ一を処分するなら、織田家は三好家に対して貸しができる。

 何しろやらかしたのが俺だ。

 そこそこ無理が言える失態である。

 だが、それを捨てて子供を取った場合、俺には木下秀吉に差し出す手がある。

 それを俺は木下秀吉に手渡した。


「……これは?」


「このくノ一の身分はそれがしが証明しましょう。

 うちの爺が京に居た時に遊女と遊んで出来たのが彼女だと。

 えらく叱られましたがな。

 側室で構わぬし、産んだらこちらに戻してもらっても結構。

 詫びもこめて、化粧料として三百貫文用意いたした」


 果心と同じ経歴ロンダリングである。

 騙される本人がそれを嘘と言わない限り、その嘘は本当になるのだ。

 大鶴宗秋がかつて京に居た事を利用して、俺と果心は彼女の経歴をでっちあげたのである。

 こちらの失態を隠してくれる詫びという体裁も整えた。

 その経歴証明と化粧料の証文を手に木下秀吉は固まる。

 彼は、大殿こと織田信長の天下への野心を知っている。

 そして、その野心最大の障害が三好長慶である事も、その下で派手に働いている俺の事も分かっているのだろう。

 上手く立ち回れば三好家で俺が失脚しかねない失態だし、それは三好長慶の大駒である俺が消える事を意味する。

 それが分かっていても、木下秀吉は固まる。

 待ち望んだ子供はそれぐらい彼にとって重たいのだ。


「ん?

 外が騒がしいな?」


「見てまいります」  


 外の騒ぎが聞こえ、果心が様子を見ようと席を外そうとする。

 だが、立ち上がった果心が止まるほどの大声が寺の門前から響いた。


「うるさい!

 わたしは木下秀吉の妻だって言っているでしょうが!!

 ここを通しなさい!!!」


「……」

「……」


 固まった俺と果心が首をスライドさせて木下秀吉を見る。

 同じく固まった木下秀吉はそのまましどろもどろで言い訳をする。


「い、いや。

 長屋暮らしが長くて、まぁその……」


 どうするんだろう。これ。と思ったらすごい勢いで駆けて来た女性がバンと障子を開ける。

 まだ若いのにその顔には色気と元気が漲っている。

 なるほど。

 これが天下人の妻たるねねか。

 なお、俺と同じくおっぱい星人である事が発覚。


「何やってんだい!

 あなた!!」


 づかづかと入ってくるねねさんはバンと木下秀吉の背中をぶっ叩く。

 それに秀吉が愚痴を言うのを無視して、彼女は遊女の前に座った。

 にっこり。

 笑顔とは本来攻撃的なものだといやでも分かる笑顔でねねさんは遊女に尋ねる。


「あなた。

 名前は?」


「に、西と呼ばれています。

 我が主の命で、色仕掛けを木下様に仕掛けさせて頂きました」


 にっこり。

 その笑顔が俺に向く。

 怖い。

 戦場の恐怖とは違う本能的な恐怖に体が震える。

 女を怒らせたらいけない。

 はっきりと俺は心にそれを刻みつけた。


「菊池様。失礼」


 笑顔のままねねさんが俺に近寄ったと思ったら、派手な音がして俺は頬を叩かれた事を知る。

 その一幕に呆然としていた西と果心が動こうとしたのを俺は手で制した。

 そして、俺の頬を叩いた瞬間見てしまったのだ。

 ねねさんの悔し涙を。

 身分とかどうとか関係なく、非はこちらにある。

 この時代の人は特にプライドが高い。

 何も信じられない戦国末法の世だからこそ、舐められるのを特に嫌う。

 で、身分とプライドが絡みに絡むのが男女関係と色恋で合戦の原因にもなる。


「これで水に流します」


 その涙が落ちる時ですらねねさんは笑顔のままだった。

 そして、俺の前で平伏してそれを告げたのである。


「お願いします。

 どうか、子供を私たちに下さい。

 木下秀吉の妻としてお願いします」



  

「よっ。

 色男」


「つつくな。

 まだ腫れているんだから」


 結局、くノ一の西は、側室として木下秀吉の元に迎え入れられる事になった。

 なお、何でねねさんがこの場に来たかというと、俺が送った文は一度木下家中の評定で議題にのぼったらしく、参加していた浅野長吉からねねさんの耳に入ったらしい。

 で、知った彼女は気の毒な苦労人じゃなかった木下秀長を護衛に木下秀吉の後を追って、今回の騒動である。

 わざとらしく紅葉が残る頬をつつきながら、有明が笑う。


「あの人とはすぐ仲良くなっちゃってね。

 あの寺の門前で通したのに手を貸しちゃった」


 だろうと思った。

 あまりにあっさりとねねさんが入ってきたので警護は何をしていたのかと果心が確認した結果が有明の関与である。

 ぶっ叩かれる前の「菊池様」の逃げ道の見事さに女の怖さと強かさを感じずにはいられない。

 あれでただの浪人『菊池鎮成』が修羅場で殴られた事になったのだから。

 これ以上騒ぎを大きくしたくない俺と木下秀吉は、この助け舟に飛び乗った。

 表向きは、陣中の遊女の取り合いで奥さんが乗り込んでというカバーストーリーになっているはずだ。

 果心も有明を怒るに怒れず、俺の後ろで苦笑するしか無い。


「なんかね。

 羨ましいと思った」


 有明が去ってゆく木下勢に手を振る。

 馬上から手を振り返すねねさんは凛々しいものがあった。

 有明も同じことをするのだろう。

 だからこそ、ねねさんとすぐ打ち解けたのだ。


「だから約束して」


 有明が背中から抱きしめる。

 頬に水滴が当たり、それが有明の涙だと分かる。


「絶対に私を置いて行かないで」




 後日談。

 いつの間にか有明とねねさんは手紙友達になっていたらしい。

 それは明月や果心にも広がって、互いの家の暴露合戦になって俺と木下秀吉が頭を抱えるのだがまたそれは別の話。

4/9 修羅場シーンの描写を少し加筆。

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