将軍とは征夷大将軍とは武家の棟梁である
将軍とは、征夷大将軍とは、武家の棟梁である。
古くは平安時代末期。
京の公家に虐げられた彼らは藤原摂関家の栄華に陰りが出て院政が敷かれる等の政治の混乱が武士を政治の表舞台に上げた。
そして、二人の偉人によって武家はついに公家から政治を簒奪する。
最初の反逆者、平清盛。
次の反逆者にして成功者、源頼朝。
源平合戦という武家同士の壮絶な共食いはその後も続きながらも、ついに鎌倉幕府成立によって完成する。
だからこそ、源頼朝というブランドを降ろすことができずに執権として幕府を主導した北条氏は、最後までそのブランドを手放すことができなかった。
鎌倉幕府を滅亡に追い込んだのは、後醍醐天皇という武家では無い天皇の執念だったというのは歴史の必然なのだろう。
かくして鎌倉幕府は滅び、政治は朝廷に返された。
だが、京しか見ない公家から政治を奪ってからおよそ百五十年。
朝廷は政治を忘れ、悪党や婆娑羅は蔓延り、末法の世と坊主は唱え、民は極楽を夢見て地獄を生きる中、唯一政治と武力を握っていた武士が新たな頼朝に縋ったのも歴史の喜劇でしかない。
こうして、第三の反逆者が歴史の舞台に上がる。
源氏の血を引き、鎌倉幕府の要人として政治を知り、何よりも戦が強かった第三の反逆者の名前を足利尊氏という。
彼の反逆は南北朝時代という混迷を生み出すが、室町幕府という形で朝廷から政治を再奪還した所に意味がある。
だからこそ、武家は源頼朝という偶像を、足利尊氏という過去を忘れる事ができない。
その過去は足利将軍家に呪いとなって災いをもたらし続けた。
南北朝を終わらせた足利義満は、あと一歩という所まで来ながらその呪いを解くことが出来なかった。
籤引き将軍こと足利義教は、その正当性の為に苛烈にその呪いを追い求め、『万人恐怖』や『悪公方』と呼ばれた果てに赤松満祐に討たれ、その首は洛中に晒される事になった。
足利義政はその呪いの果てに応仁の乱の引き金を引き、足利義材は明応の政変によってその呪いすら追い求めることができなくなっていた。
将軍とは、征夷大将軍とは、武家の棟梁である。
その幻想が戦を生み、その偶像である事を耐えられない足利将軍が次の呪いの犠牲者となる。
その呪いを今受け継いだ者の名前は足利義輝という。
彼は征夷大将軍とは何かを考え、武家の棟梁であるという事を意識した。
武家である以上、武は鍛えねばならない。
誰にも負けぬように。
誰からも侮られぬように。
彼の剣は修行もあるが、塚原卜伝という良き師に会えたのも大きい。
その結果、剣豪として名を馳せた。
そして、彼はそこで挫折する。
「何故だ?
俺の剣は天下に轟いているはず。
なのに、どうして誰も三好長慶を頼り、俺を頼らぬのだ?」
彼は知らなかった。
その武はたしかに侍ならば必要だろう。
だが、将ともなると、武よりも器というものが大事になってくるという事を。
だからこそ彼は三好長慶を憎んだ。
母に我儘を言う子供のように。
三好長慶との戦いは三好長慶の傀儡になる事で決着したが、同時に足利義輝の下に三好長慶が入ったという形になり、足利義輝自身の武威は上がった。
だが、足利義輝は呪いに蝕まれる。
将軍とは、征夷大将軍とは、武家の棟梁である。
決して、管領の操り人形ではなく、その管領を操る三好長慶の下に立つ者ではないと。
足利義輝は三好長慶を恨んでいる訳ではない。
合戦や暗殺までしかけて未遂に終わったが、三好長慶自身についてはある意味好んですらいた。
ただ、三好長慶という彼が持つ権勢に嫉妬していたに過ぎない。
三好・細川・畠山・六角と畿内諸侯を巧みに操って、己の権勢を確立する。
その為には、権勢の絶頂に居る三好家は叩かねばならい。
ただそれだけの事。
そして彼は二度目の挫折を味わう。
誰も彼の言葉を聞きはしたが、従う事はしなかったからである。
教興寺合戦の大敗によって畠山家は紀伊国に追われ、観音寺騒動によって六角家は瓦解した。
細川家は三好長慶の言いなりとなり、彼の味方は三好長慶一人しか居ない。
そして、三好長慶は傀儡である限り、足利義輝を立てたのである。
教興寺合戦の帰還後に将軍名義で徳政令を出し、若狭武田家をめぐる朝倉家との確執も手助けしてくれた。
管領細川氏綱を立てて己は陰に回り、観音寺騒動に介入して六角家を救い、紀伊に逃げた畠山家を追い打ちする事もなかった。
それがどれ程呪いを育んだか三好長慶は知ることもなく。
将軍とは、征夷大将軍とは、武家の棟梁である。
将軍である為に、征夷大将軍である為に、武家の棟梁である為に何をすればいいか?
足利義輝は、平清盛に学び、源頼朝に学び、足利尊氏に学んだ。
そして、必然的に間違える。
「武家の棟梁として相応しい軍勢を率い、覇を唱えれば良い」
と。
そんな折、美濃国を制圧した織田信長が接触してきたのも、足利義輝にとっては天啓に見えたのだろう。
織田信長を核に三好長慶に対抗できる勢力を作り、三好長慶を牽制して将軍親政を実現する。
若狭武田家をめぐる朝倉家との確執を理由に朝倉家に対して討伐令を出し、将軍自ら出陣。
朝倉家を討伐後、その軍勢を率いて京に帰還し三好長慶より幕府の実権を奪還する。
この計画を考えていた時に、細川氏綱が病没したのも彼の計画にとって良い知らせとなった。
表立って足利義輝を止める者が居なくなった事を意味するのだから。
将軍とは、征夷大将軍とは、武家の棟梁である。
足利義輝は、その征夷大将軍であろうとした。
だからこそ、出兵当日でも彼は居城たる室町第にていつものように剣を振る。
「公方様。
出陣の用意ができましてございます」
幕臣でもあり、細川管領家や三好家との取次役であった細川藤孝が淡々とした声でその事を告げる。
彼はこの出兵に最後まで反対していたので声にもそれが乗っている。
「細川兵部大輔はまだこの出陣に異を唱えたいらしいな」
「これ以上は申しませぬ。
ですが、三好修理大夫殿へのご配慮はお忘れないように」
足利義輝が細川藤孝を信頼していたのには、彼の剣の腕がある。
当代随一の教養人でありながら、武芸百般をも極めた彼の剣は塚原卜伝に学んでおり、足利義輝にとって兄弟子にあたる。
細川藤孝は兄弟子として、師の教えを引き合いにして足利義輝を諌めた。
「かつて、師の弟子の一人が馬に蹴られそうになったのを跳ねてかわし、見ていた民は『さすが卜伝の弟子よ!』と褒め称えました。
ですが、師はその弟子を叱ったのです。
『馬が暴れる事もあるというのを忘れて近くに居た弟子は愚かである』と」
塚原卜伝の剣の本質は『戦わずに勝つ』事にある。
だが、足利義輝のこのやりようは、余計な敵を生むだけなのを細川藤孝は理解していた。
それでも、足利義輝は止まらなかった。
「分かっておる。
儂とて三好を滅ぼしたい訳ではない。
公方として飾りでいるのが嫌なだけなのだ」
細川藤孝は歴史に名を残す当代きっての偉人の一人だ。
足利義輝が抱える呪いも知って、諌めながらも彼を見捨てない。
それは、彼が囚われた呪いに少なくとも真摯に向き合っていたからだろう。
人は結果ではなく、打ち込む過程に惹かれる事がある。
少なくとも征夷大将軍たらんとして努力し、努力し、努力し続けた足利義輝の周りの幕臣達は、細川藤孝だけでなく三好長慶をも含めて心配こそすれども決して嫌ってはいなかった。
「大友主計助は西か。
惜しいな。
畿内に居たならば、ぜひ我が陣へと誘ったものを」
足利義輝の明るい声に細川藤孝は黙る事で異を唱えるが、足利義輝はそれに気づけない。
剣はともかく少なくとも『戦わずに勝つ』事については、足利義輝より大友鎮成の方がはるかに勝っている。
観音寺騒動で彼はあっさりと観音寺城を返し、その過程で得た宇佐山城すら細川藤孝に譲っている。
主計助の官位を得て京の者達が注目しだしたと思ったら、城代である岸和田から四国に移りこの騒動に加担できない場所にいる。
彼は離れる事で、この危険から脱したのだ。
「かの御仁は三好の準一門。
首を縦には振るとは思えませぬが」
「そして大友の一門でもある。
天下を治める時、西の要として大友の動向は押さえておきたいのだ」
彼は将軍としては馬鹿ではなかった。
だからこそ、不幸にも今の事態に陥っているのだが。
遠距離の地方において、大大名との関係を構築して統治を委任させ、彼らの武力を持って畿内を制圧するという絵図面も無いわけではないからだ。
少なくとも、西の大友家に九州探題を与えた背景にはそういうものがあり、東の上杉家の関東管領にもそういうのを期待していた節があった。
彼は良き征夷大将軍であろうとした。
だからこそ、多くの大名や武将が惹かれたのだ。
眼の前に居る細川藤孝のように。
足利義輝は剣を置き短冊を取り出し、筆を走らせる。
すらすらと書かれたそれを細川藤孝に見せて笑った。
『五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで』
「良い歌だろう?」
「ええ」
それは征夷大将軍足利義輝としての決意。
細川藤孝もその歌に感嘆せずにはいられない。
「儂が征夷大将軍として日ノ本を治めてみせる。
戦国を終わらせて見せよう!
細川兵部大輔。
これからも頼むぞ!」
「はっ」
将軍とは、征夷大将軍とは、武家の棟梁である。
彼の不幸は、征夷大将軍であろうとした事。
それを知らずに彼は戦い続ける。
塚原卜伝 つかはら ぼくでん