大友二階崩れを語るために勢場ヶ原合戦を語ろう 【系図あり】
状況説明回
大友の姫巫女を書いていた時よりも資料が更新されているので、どんどん話が深くエグくなっていやがる……
応仁の乱と呼ばれた大乱があった。
複雑な原因が絡み、多くの因縁が生まれて戦国時代の幕開けとなったこの戦いは勝者なき戦いと記録される。
だが、あえて勝者をあげるとするならばと言葉を続けると、一つの家が確実に上がる。
大内家。
一時は天下人の座に最も近かったこの家の滅亡を誰が予見できただろうか?
そして、この大内家の滅亡によってどれほどの喜悲劇が西日本にばらまかれただろうか?
大友家は、大内家滅亡という喜悲劇を一身に浴びることになる。
気づいてみれば既に周囲は暗く、いつの間にか部屋には灯りがつけられていた。
食膳には夕食が置かれ、酒も茶碗に注がれているが、長い話はまだ終わる様子もない。
「大友家において、常に気をつけねばならぬ家として田原家の名が知られておるのは御曹司でもご存知でしょう。
田原家は大友宗家の座を狙い、陰謀を巡らせておりました。
我ら佐伯に接触し、大内家や菊池家とも繋がり、大友一族の傍流を担いでの謀反をよく企んだものです。
それが変化したのは、勢場ヶ原の戦いからでございます」
大友二階崩れを語るためには、勢場ヶ原の戦いを知らねばならない。
歴史とは過去の積み重ねなのだ。
ややこしい事この上ないが軽く説明を入れる事にすると、これも大友と大内の対決ではなく大内家を中心にした複数勢力の因縁が暴発した形になっている。
大内家は博多を取ったはいいが、古くからそこを地盤としている少弐家が奪回の為に肥前国から狙っており、大友家はその少弐家と同盟関係にあった。
大内家も負けては居ない。
大友家が乗っ取った肥後国菊池家当主菊池義武が独立を企んでいると知るとこれを支援し、大友義鑑はその防戦に追われていたのである。
「勢場ヶ原の戦いでは吉弘殿の祖父である氏直殿が総大将として討ち死になされたはずだ。
吉弘殿は疑問に思われた事はござらぬか?
どうして、吉弘氏直殿が総大将に抜擢されたのかを」
佐伯惟教は楽しそうに尋ねるが、吉弘鎮理は苦虫を噛み潰したような顔で答えようとはしない。
つまり、二人共それを知っているのだ。
「田原家の弱体化。
それを狙ったからに他なりませぬ。
吉弘家は田原家の有力分家の一つでしたから、それを優遇して本家の力を抑えようと。
なお、今もこれは続いておりますぞ。
田原親賢殿も同じ意図で抜擢されたのでしょうからな」
現在の大友家の寵臣の名前をあげるのならば、この田原親賢の名前は外すことはできない。
元々は大友義鎮の正室である奈多夫人と同じ奈多家の出身で、田原家分家に養子に出されたが寵臣としてその権勢を誇っている。
つまり、吉弘家や田原親賢の例を見れば分かるとおり、田原本家はそれぐらい権勢を誇っていたのだ。
そして、田原本家の領地は国東半島にある。
「読めたぞ。
あの合戦奇妙だとは思っていたが、そういうからくりだったか」
納得した俺がぽんと手を叩くが、佐伯惟教を除く他の者は俺が何を納得したのかまだ分かっていない。
その為に俺は、説明すればするほどに納得いかない合戦の経緯を説明することになる。
「中々面白い合戦でな。
本陣が壊滅し、総大将である吉弘氏直殿が討ち死にしたのにも関わらず、大友軍が勝った合戦なんだ」
女達三人と男の娘が首をひねる。
つまり、それがどれほどおかしいかを物語っている。
大鶴宗秋すら首を捻り、吉弘鎮理は黙して語らず。
かくして、俺は続きを口にした。
「大内軍は三千騎、大友軍は二千八百騎。
騎の場合、郎党が数人つくから、大体双方とも一万という所だろう。
合戦は地元の国人衆を味方につけた大内軍が間道を通って本陣を急襲。
総大将吉弘氏直殿に副将寒田親将殿まで失って本陣は壊滅。
だが、警戒していた別働隊が敵討ちとばかりに逆襲に転じて大内軍を叩き、大内軍は副将の杉重信が討ち取られ大将の陶興房も負傷して撤退というのがこの戦の簡単な経緯だ。
大鶴宗秋。
お前が別働隊を指揮して俺が本陣で討ち死にした場合、敵へ逆襲をかけるか?」
大鶴宗秋は首を横にふる。
彼とて京生活に筑前の城主という経歴から、豊後大友家の闇を知っている訳ではないのだ。
だから、常識的な策を口にする。
「まさか。
こちらは寡兵。
おまけに本陣を潰されて総大将が討ち死に。
退いてお屋形様の指示を仰ぎたい所」
桶狭間の合戦後の今川軍みたいなものだ。
状況が分からず、指揮系統がめちゃくちゃで、おまけに寡兵と来ている。
これで逆襲して勝った。
それがどれだけ難しいことか。
「にも関わらず大友軍は勝った。
それができるだけの何かがあったという事だ。
別働隊の将の一人が田北鑑生殿だが、彼もまだ若武者だった時期でしかも地元ではない。
地の利があって、兵が動員できる影響力がある将が主導しないとこの逆転劇は成立しないんだよ。
それがあの時、あの場所でできるのはただ一人。
国東半島に絶大な影響力を持つ田原家当主。田原親宏殿さ」
そこではっと気づく。
それが思いつく程度には俺も戦国になれて来たという所だろうか。
「田原親宏主導での大内軍撃退。
ついでに、大内家に恩を売ったな?」
大内軍は海路を使って撤退した。
その乗船時に大友軍は追撃しなかった。
まあ、できなかったというのもあるだろうが、水軍衆はこの戦いにおいて無傷だ。
それが動かなかっただけだが、状況証拠が黒と言っている。
境目の国人衆が持っていないと生き残れない両天秤がそこに隠れていた。
俺のすらすらとした説明に一同唖然とするが、たまらず笑い出したのが佐伯惟教である。
とても面白そうに、目に涙を浮かべて俺にこう言い切った。
「末恐ろしいですな。御曹司。
これも大友家では闇に葬られ、それがしとて田原家と佐伯家の縁から知った事なのに何処でご存知に?」
なお、この縁とは田原家と佐伯家が組んで大友宗家と反抗的な行動を取ったことだったりする。
豊後北部の水軍衆すら影響下に置く田原家と、豊後南部の水軍衆を押さえている大神系国人衆の宗家である佐伯家が組んだ事は大友宗家にとって悪夢に等しく、その鎮圧には時間がかかったのは言うまでもない。
「まあ、俺にも伝は色々あるという事だ。
表には出せないわな」
「ええ。
表向きは水軍警戒の為に姫島に居て戦のないはずの田原殿に、大内家相手の戦功で感状を出さねばならぬほどには表に出せませぬな」
こーいう所での齟齬こそ、名探偵の餌である。
そして、欠けたピースが嵌まれば、全体像が見えてくる。
佐伯惟教は、さらなる暴露を皆に晒す。
それは俺にとって衝撃でしか無かった。
「総大将の討ち死ににも関わらず、戦に勝った吉弘家を大友義鑑様は殊の外大切になさいました。
己の娘を若き当主となった吉弘鑑理殿に嫁がせるぐらいですからな」
「っ!?」
何だと!?
という事は、女系ではあるが吉弘鎮理も大友一族という事になる。
まぁ、元々が田原分家という同紋衆の家ではあるが、宗家継承が望める血の濃さになったといった方が良いだろう。
何しろ、現在の大友家は数度の内乱と粛清によって圧倒的に一族が不足しているのだから。
俺はゆっくりと吉弘鎮理を見る。
彼の忠義の源が分かったような気がした。
「田原家に表立って強く言えなくなったが、田原家の弱体化は更なる力を持って行われた訳だ。
となれば、吉弘家と同じく有力分家の取り込みだろうな」
「その通りでございまする。
そこで目をつけられたのが田口鑑親殿。
田原家分家衆のまとめ役として重きをなしており、田原親宏殿の妹君の側室入りを主導した御仁でござった」
大友宗家による田原家解体の圧力に晒されながらも、田原親宏は生き残った。
加判衆解任と大友家からの追放処分が下されるが、粛清ではないのは田口鑑親の田原一族生き残り策が功を奏したからに他ならない。
田原親宏殿の妹の子、つまり塩市丸は田原宗家を継ぐ子として世に出たのだろう。
それは、弱体化を企む大友宗家と、功績を盾に手打ちを計画した田原家の妥協点であった。
「それが狂ったのは、大内家内部の不和か?」
「そのとおりでございまする。
尼子攻めの失敗の後、政務に興味を無くした大内義隆殿を尻目に、武断派と文治派の対立は激化する一方。
大寧寺の変が起こる一年前より、陶殿の謀反は豊後にまで聞こえており申した」
毛利家の本拠である吉田郡山城を巡る戦いで尼子家相手に勝利した大内家は、その余勢をかって尼子家の本拠である月山富田城を攻めた。
だが、その戦いは大内家の大敗に終わり、大内家の後継者と目されていた大内晴持まで失った大内義隆は政治を顧みなくなってしまう。
その為、相良武任をはじめとした文治派と陶隆房をはじめとした武断派の対立を放置してしまい、己の滅亡に繋げてしまう。
「で、大内の混乱は大友の利益か。
それに大友は介入しようとした訳だ」
仲の悪い隣の家が揉めているのならば、そりゃ手を出して今までの恨みというのは分からないではない。
だが、ここからが戦国のややこしくも救いがたい所である。
「大友と大内の争いは長く続き、大内家の優位の内に進んでおり申した。
勢場ヶ原の戦いの前、大友家は領内の安定のために大内家の力を借りる事を選んだのです。
その為、大友義鑑様の正室に大内義興殿の姫が来られました」
ちょっと待て。
それはと言葉を出す前に、佐伯惟教はあっさりとそれを口に出した。
「お屋形様および、弟だった大友晴英様には大内の血が流れていたのでございまする。
それが、二階崩れの遠因でございました。
晴英様が大内家の猶子となったのも理由も名分もあったのでございまする」
段々と二時間ドラマというか名探偵が出てくるような血縁関係のややこしさに頭が痛くなってくる。
なお、これで謎が『全て解けた!』なんて言おうものならば、口封じのために吉弘鎮理が首をはねかねない。
戦国の世には真実なんていらない。
「気になったのだが、たしか大内義隆殿は男色はあれど、子は成したのだろう?
どうしてそれを陶は跡継ぎにしなかったんだ?」
男色と聞いてぴくりと動く男の娘が居たが無視する。
たしか大内義尊という息子が居たはずだ。
そんな俺の質問に佐伯惟教は救いのない事実を告げた。
「ええ。
母親が都から下った小槻伊治殿の娘でしてね」
あかん。
それ、文治派が用意した嫁と言ってやがる。
文治派は都の権威を背景に広大な大内家を統治する事を目指した派閥である。
その為、一門や国人衆からの受けがとても良くなく、一門衆筆頭であった陶晴賢が担ぎだされたという側面も無いわけではない。
「さてと、そろそろ夜も更けてきたので語るとしましょうか。
あの大友二階崩れを」
佐伯惟教は長い長い前振りの後、やっと本題を切り出す。
関係者の大半が不幸になった大友二階崩れ、いや、大内家滅亡という物語の幕がやっと俺の前に開く。