足利呪縛迷宮 京都 その5 2019/6/21 追加
御前沙汰。
室町幕府において、将軍が主宰・臨席した非公式な評定の事であるが、将軍が管領に対抗するために利用しだした事で、幕府の最高評議機関になってしまったものである。
まず、前提として幕府将軍と管領の権力構造が対立するという点を強調しておきたい。
将軍の力が強ければ、管領は将軍の言うがままになるし、管領の力が強くなると、将軍はお飾りと化してしまう。
これは室町幕府の構造的欠陥であるのだが、近年は将軍も管領もお飾りとなり、三好長慶が畿内の覇者として政権を運営していた。
この命令系統はこうなる。
三好長慶>>管領 細川氏綱>>将軍 足利義輝
下剋上の厄介な所は力によって奪った以上、力によって奪われるというロジックを肯定しなければならない所にある。
つまり、三好長慶の力が無くなれば、その命令は誰も聞かなくなるのだ。
それを避けるための権威であり、その飾りとしての管領細川氏綱であり、将軍足利義輝である。
ここで問題になるのが、実際の命令者である三好長慶の立ち位置である。
この時代の幕府命令は基本書状--奉行人奉書と呼ばれる--で出されるのだが、この命令に権威をつける事と管領細川家家臣でしかなかった三好長慶の整合性が取れないのだ。
たとえば、畿内の村の水争いの調停の奉行人奉書を書くとしよう。
『三好長慶様がおっしゃるには、争っている水の配分は半々に分けるように』
畿内の覇者である三好長慶の命令だから実行力はあるのだが、これだけだと三好長慶が失脚した時に、この調停文書がただの紙になってしまう。
だから、こういう保険をかける。
『幕府より、争っている水の配分は半々に分けるように』
こうする事で三好長慶が失脚しても、幕府の命令だからと言い逃れられる事ができるのだ。
そして、その命令を担保する為に、三好長慶はこの手の書状に自分の名前を『裏書き』する事で己がこの仲裁を支持している事を保証するという訳だ。
で、この裏書きに三好長慶自身にも権威が無いと、権威のある公的書類と言い逃れられないから、彼にも幕府の役職が与えられることになった。
それが相伴衆と呼ばれる役で、本来は将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事である。
彼らは管領家の一族や有力守護大名に限定されていたため、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになるのだが、これに三好長慶を任じた事で彼を御前沙汰に引っ張り出すことが可能になったのである。
こうして実力と権威が融合した三好政権は表向きは円滑に機能した。
そして、この手の仲裁をする場所が、今回の騒動の中心である幕府政所である。
室町幕府の組織図では、幕府政所は管領の管理する所にあるのだが、傀儡である管領細川氏綱にこの決定権は無いし三好長慶の指示なしの決定を行うつもりもない。
という訳で、組織トップの足利義輝は管領の機能不全を名目に御前沙汰を開いて、政所執事である伊勢貞孝を解任しようとしていた。
三好家は今日の夜に行われるだろう御前沙汰について、三好義興を中心に大急ぎで方針を固める。
飯盛山城に居る三好長慶に送った早馬が襲われた現状、彼の命令を受けられずに御前沙汰に突入する可能性は高い。
「三好家としては政所執事である伊勢貞孝の解任は望ましい」
苦々しい顔で松永久秀が吐き捨てる。
なお、松永久秀は幕府御供衆として御前沙汰への参加資格があり、三好家の利益代表者として振る舞っていた。
元々三好家としても六角家と両天秤をかけていた伊勢貞孝を許すつもりは毛頭なかったのだ。
将軍足利義輝の主導という点さえ我慢するならば、この動きは喜びこそすれ、苦々しくなる理由は基本的にない。
「それは、公方様の手柄として皆が思ってしまう事になりますが、それでよろしいので?」
細川藤孝が怜悧な声で確認を取る。
彼もまた御供衆として管領細川家の利益代表者として振る舞う予定である。
この場に三好義興も細川氏綱も居るが、黙って二人の議論を聞いている。
彼らも相伴衆として御前沙汰に参加するが、表立って公方様を非難できないので、松永久秀や細川藤孝にそのあたりを任せる予定なのだ。
「義弟殿はどうお思いか?」
その設定のせいで呼ばれたくもないこの席の端っこにてじっとしていた俺に三好義興が声をかけ、皆の視線が一斉に俺に向けられる。
足利義輝の策によって俺もこの騒動の駒に仕立てられた以上黙っている訳にもいかず、俺は気になった事を口にした。
「伊勢殿の罷免はやむを得ないとしましょう。
で、誰を据えるので?」
俺の発言に一同の顔色に驚愕が走ったのを見逃さなかった。
まさか、考えていなかったとか言うなよな?
俺のジト目に松永久秀が言い訳をする。
「さすがに、そこまで頭が回らなんだ。
しかも、伊勢殿を罷免する事は決めても後任の事など正直思いつけぬというのが本音だ」
「伊勢殿の後任なれば、蜷川殿がふさわしいのだろうが……伊勢殿がすんなりと受け入れるとは思えぬぞ」
細川藤孝が頭を抱えてぼやく。
この時期の幕府役職は家業として一つの家が専任する傾向があった。
つまり、この幕府政所は伊勢家の『家業』として伊勢家の家臣や郎党が差配していたのだ。
そこから伊勢家を排除した場合、幕府政所が停滞する事が簡単に予想できた。
伊勢家を排除する以上、伊勢家の家臣や郎党を使わずに政所を回すとしたら今回の事件の発端となった告発をした政所代の蜷川親世しかいない訳で、ほぼ間違いなく『蜷川親世は政所執事の地位が欲しくて伊勢貞孝を告発し解任に持っていった』と言われるのが目に見えている。
三好家の論功行賞に絡んでの失脚ならばまだ納得できる言い逃れがあるが、このような蜷川家の私利私欲が見え隠れする理由での解任は恨みどころか合戦にまで行きかねないのだ。
「ならば、誰を公方様は政所執事に据えるのだ?」
細川氏綱の雅なつぶやきに俺を含めた一同がはっとする。
そう。
今回の御前沙汰は伊勢貞孝の解任までと考えていたが、公方様が公方様の都合のいい政所執事を送り込む格好のチャンスでもあるという事に気づいたのだ。
三好家の意向として伊勢貞孝の解任まではこちらで決められるが、後任人事についは三好長慶の指示が絶対に必要になる。
「この御前沙汰で何も決めぬ。それでよろしいか?」
「わかった。
早馬がまた襲われぬように、街道筋の掃除をしておいた方が良さそうだ」
松永久秀の確認に細川藤孝が乗る。
彼の言葉に俺が乗っかった。
「でしたら、それがしの手勢を使いましょう。
今、ここに居ても公方様の手駒になるだけ。
一度離れることで、公方様の手から逃れたい所」
三好義興は黙って頷くことで俺の提案を了解してくれた。
上京の三好邸から手勢が泊まっていた今村城に赴き、三好家の京都拠点である勝龍寺城まで訓練がてら移動する。
そこから山崎まで行って、勝龍寺城で今日は宿泊という予定だった。
「せっかくだから、時間もあるし山崎まで行ったら市でも覗いてみるか?」
「え?
いいの?」
俺の声に有明が嬉しそうに返事をする。
黙っているが明月も嫌そうな顔ではない。
女は基本買い物好きなのである。
「あそこには大きな座があるし、市は立っているだろうからな。
まぁ、珍しいものがあるなら買ってもいいだろう」
「じゃあ、着物が欲しいな」
お前着物ってその姿裸と言うほど俺も愚かではない。
そういうファッションに持っていった俺が言える義理ではない。
「まぁ、いいだろう。
しかし、有明が欲しがる着物か」
ちょっと気になったので話を聞いてみる。
どうも仲良くなった三好邸の女中たちが欲しがっているのを有明も欲しくなったらしい。
「何でも越後から青苧と越後上布が大量に入るようになって、皆作っているとか。
絹より着心地は良くはないだろうけど、こちらの流行りは押さえておきたいしね」
さすが、博多では大陸から来た絹織物をまとって博多の夜に君臨した有明太夫。
今回はまだ見ぬ吉野太夫との対決もあるので、向こうのファッションの研究といった所……待てよ。
「青苧と越後上布?」
呟いて事の重大性に気づく。
これらの品物は日本海の港から若狭湾の港に着いた後、琵琶湖を経由して京に届く。
三好家の覇権が確立した現在、俺が構築した琵琶湖-淀川-大阪湾の河川交通は莫大な富を三好家にもたらそうとしていた。
そんな商品の一つが、この青苧と越後上布である。
「果心」
「はっ」
俺の声に果心がすっと現れる。
声の口調で忍びの仕事と察したあたり、さすが畿内トップクラスの忍者である。
「お前、上杉にも伝あるよな。
探りを入れてくれないか?」
「たしかに、越後上杉家の在京雑掌である神余親綱殿ぐらいならば探れますが、何を探れとお命じになられるので?」
前の教興寺合戦の背後に甲斐国武田家と越後国上杉家の代理戦争の側面があったのを俺も果心も知っている。
ならば、今回の騒動にもこの二家が絡んでいるのではと疑ったのだ。
結論から言えば、案の定絡んでいた。
その夜、閨に戻ってきた果心の報告は、彼女の色気より報告のヤバさに背筋が寒くなったのだから。
「越後上杉家の在京屋敷に上杉家の重臣長尾政景様がいらっしゃっているそうで。
それに合わせて、京の武田信虎の屋敷も騒がしくなっているとか」
翌朝。
入ってきた御前沙汰の結果だが、将軍足利義輝に請われて参加した『相伴衆』武田信虎によって、評定は大混乱。
必死の時間稼ぎを狙った松永久秀や細川藤孝の抵抗虚しく、足利義輝のご裁断という形で伊勢貞孝の解任と後任に摂津晴門を任命するという驚愕人事を決定してしまう。
教興寺合戦で覇権が確立したかに見えた三好政権だが、その基盤ができる前に、彼らが掲げた公方様によって政治的打撃を受ける。
これが畿内なのかと俺はあの魔都でのやり取りにため息が出るしかなかった。
その魔都に俺たちはまた戻ることになる。
魔都京都の歓待はまだ終わっていなかった。
神余 親綱 (かなまり ちかつな)
摂津 晴門 (せっつ はるかど)