柳町の有明の月
Q 最高級太夫の身請け値段はいくらか?
A 千五百両
大雑把な値段だが歴史に残る身請け値段の最高値が千五百両だという。
あまりに高すぎるので、江戸幕府が以後五百両にするようにと行政指導が入ったという逸話を持つ。
さて、時代は江戸ではなく戦国でお金も両ではなく貫だったりするが、高額支払いならば大体の人間は文句を言わなくなる。
とはいえ、こんなのを一介の浪人が持って歩いたら殺されて身ぐるみ剥がされるのが目に見えている。
だからこの手の支払いには人を介してのやり取りが行われる。
まずは、神屋の家人を借りた俺の使者が、
「幼馴染の遊女を身受けしたい」
と遊郭に申し出る。
遊郭は当然拒否する訳だが、その間で仕事キャンセル料や賄賂などの想定外の費用が発生する。
で、買しゅ……げふんげふん。ご祝儀として遊郭全員に適度に銭をばらまくから身請けの代金がどんどん膨らんでゆくのだ。
戻ってきた使者の返答は当初の金額から見事にかけ離れていた。
「千貫文ならお譲りすると」
「いいだろう。
一括で支払うと伝えろ」
「へ?」
「御曹司!」
使者の間抜けな声と、その場に居た神屋紹策の驚きの声が同時に俺の耳に入る。
下手な城が建つ金額の即決払いである。
高橋鑑種に囲われた幼馴染の価値がわかろうというもの。
だからこそ、それを即決する事で他所からの声を完全に遮断できる。
まぁ、蓄えていた銭があらかた消える事になるのだが。
「門司の戦の最中、それだけの銭があれはかなりの兵を率いて参戦もできましょうて。
よろしいので?」
神屋紹策の声にためらいがある。
普通の武士ならばここで貯めた銭で兵を雇い勲功を稼いで領地をもらった上での身請けだろう。
そんなのは俺にとっては関係がない。
むしろ、下手に勲功を稼ぐと粛清フラグが立ちかねないのだ。
「構わんよ。
門司の戦に駆りだされて討ち死になんて落ちはしたくないからな。
神屋殿。
支払いをお願いしたい。
蔵の米については一切お任せしよう」
「……うつけのふりなのか、うつけなのか分かりませぬな」
神屋紹策の嘆きに俺は苦笑して返す。
自分でもそう思ったから、この言葉は自然と口から出ていた。
「うつけでありたいと思う。
本当にそう思うよ」
無理だろうな。
それも分かっていた上で。
その日の夜。
薄田七左衛門を連れて脇差と守り刀を持って柳町に出てゆく。
博多の遊郭街で戦国有数の商都である博多には、この時期その栄華を燦然と夜の闇に映していたのである。
「で、お前を待っている幼馴染の女ってのはどんな女だ?」
薄田七左衛門が博多の遊郭街である柳橋の通りを歩く。
この手の店は町中に建てられることはまずなく、町外れにまとめて遊郭を建てて隔離する。
女が逃げないようにというのが一番の目的だが、この戦国では外敵から身を守る意味合いからこの街全体は堀で囲われ、木戸で出入りを管理していた。
「有明。
有明太夫とここでは呼ばれているよ。
明け方になっても空に残っている月。
つまり、そんな時まで抱きたくなるいい女という訳さ」
中に入れば格子向こうに女が媚を売り、男たちは灯りに群がる蛾のように女達に寄ってゆく。
それを眺めながら俺達は軽い足取りで遊郭一番の大店に向けて足を運んでゆく。
「栄えているなぁ」
「大陸や南蛮の流行りが真っ先にここに来るからな」
格子越しの女たちが今日の相手をと己の色香を醸し出して男たちを誘う。
張見世で並ぶ女たちは俺達の姿を見ると妖艶な笑みを浮かべて、最近流行しだした煙管を俺に差し出す。
格子から並ぶ煙管に目もくれずに通りを歩くと、山伏姿の薄田七左衛門が首を傾げる。
「何だ。あれは?」
「海の向こうから来た煙草ってやつを吸う煙管さ。
遊女が煙管に煙草を詰めて自分で軽く吸う。
火が付いたことを確かめたら袖口でそっと拭って格子越しに客に差し出す。
女達は道行く人々の中から気に入った男性を見つけると格子の隙間からこの煙管を差し出し、男性がそれを吸えば今夜の客となる訳だ」
今より先のまだ出来ていない都である江戸の花街吉原の風習の一つである『吸付たばこ』である。
なんでそんなのがこの博多で流行しているかというと、流行させたからだ。俺が。
体を売るだけでは飽きられる。
芸を売るにはこの戦国はちと戦が多すぎる。
だが、日本有数の貿易都市であり、豪商や大名等芸を買う連中がいる博多ならば成り立つと踏み、その風習を流行らせたのだ。
俺を待っている幼馴染が使い捨てられないように。
「なかなか良い匂いじゃないか」
薄田七左衛門が漂う煙草の匂いに興味を示せば、俺は店先で売っていた煙管を買って薄田七左衛門に放り投げる。
「ほらよ」
「いいのか?」
「ついてきた礼だ。
俺は吸わんからな。
煙草は自分で買いな」
流行を作りながら、煙草は苦手で酒は下戸だったりする。
女も博打も割り切って、流行の為と割り切っているつもりだが快楽が伴わなかったといえば嘘になる。
ただ、女に不自由しなくても、己が籠の中の鳥であるという事を自覚すると素直に楽しめなかった。
それももう終わったはずだ。
そう思っていた。
「振り向くなよ。
つけてきているやつが居る。二人」
俺の肩を抱いて楽しそうに騒ぐ薄田七左衛門から小声で間者の存在を告げられる。
毛利か?大友か?それとも物取りの類か?
今の俺には分かるはずもない。
「旦那。
今日はどちらでお遊びで?」
背後を気にしないふりをして提灯片手にふらりと通りを歩くと忘八者が寄ってくる。
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳を失った者で遊郭での男性の事を指す。
掲げている提灯を見て、忘八者が大声をあげた。
「あんた神屋の者かい!
じゃあ、あれだ。
今、郭で話題になっている有明太夫の身請けの話かい!?」
その声に媚を売る女も女を眺める男たちも皆俺達の方を向く。
命が銭よりもはるかに軽い戦国の世。
その命より重たい銭を女の為に使った馬鹿者の名前は、神屋の名前に隠れてまだ知られていないらしい。
「ああ。
その件で行くのさ。
何しろ神屋は蔵一つ空にした銭で身請けするらしいぞ」
周囲の喧騒に俺は提灯灯りの向こうで邪な笑みを浮かべる。
さすが神屋とかいつか私もなんて聞こえてくる。
金額までは知らぬだろうが、法外な銭が動く身請け話だ。
財布から豆銀を取り出して忘八者に手渡す。
「案内を頼むわ。
揉め事は起こしたくないのでね」
「承知。
ところであんたは何者だい?」
忘八の案内の後ろについて行く。
ここは戦国の世とはいえ、だからこそ人の世とは少し違う理で動く色欲の場所である。
忘八者だからこそ彼らは廓を、身内を大事にする。
後ろからつけている間者が俺を拉致るのならば、廓全体で報復をするだろう。
そんな事を考えながら、俺は己の名前を告げた。
「ただの一介の浪人。
菊池鎮成さ」
「ようこそいらっしゃいました」
俺が着いた時、博多随一の遊郭こと大吉楼の主人以下遊女から忘八に至るまで俺を出迎える。
これも身請けの代金の一つだ。
すでに神屋名義の証文が渡されているからこそ、彼らはこうして出迎えているのだ。
案内をした忘八が唖然とする中、俺は守り刀を見せる。
「有明の身請け祝いだ。
貸し切らせてもらうぞ。
そこの忘八。
遠慮無く仲間を連れて遊んでいきな。
七左衛門もだ。
この店の二番目を好きにしていいぞ」
「ありがてぇ。
友だちがいがあるってもんだ。
で、お前は誰にするんだ?」
迎えに来たこの店二番目の太夫の肩を抱きながら七左衛門がわかりきった事を聞く。
そんなの決まっているだろうと見栄を張りながら、俺は幼馴染の今の名前を言った。
「決まっているだろう。
博多一番とうたわれた有明太夫よ」
声がでない忘八者の肩を叩いて俺は遣手婆の案内の元有明の所に赴く。
この日を長く待った。
これも今日で終わりである。
奥の一番豪勢な部屋で待っていた有明は、妖艶な身体に昔のままの笑顔を浮かべつつ、目に涙を滲ませて俺を出迎えてくれた。
廓言葉を使うこと無く、だけど廓の作法のまま俺に頭を下げたのである。
「……待ったんだからね。
八郎」
「起きて。
朝よ」
ゆらす女の声が俺を現実に戻す。
ああ。そうだった。
あいつを助けるために俺はこの夢の様な地獄を生き抜いている。
ゆっくりと目を開けると、襦袢で肌を隠した女が微笑みかけてきた。
「おはよう」
「おはよう。八郎」
身体を重ねる関係だが、それ以上に深くなれないのは知っているからだ。
そう遠くない先に俺は死ぬことを。
それ以上に、その先の未来にすら到達しないぐらいここは修羅の国だという事を。
今日は有明の身請けの日。
俺も、有明もこのまま自由に何処にでも行ける。
そう思いたかったのだ。
「お待ちしておりました。
御曹司」
朝方、柳町の遊郭の入り口である鳥居を出た先で、侍数人が俺たちを待ち構えていた。
ある程度想像した事だ。
有明を背中に隠して、薄田七左衛門が腰の小太刀に手をかけようとするのを俺は手で制す。
その上で俺は侍たちに言葉を投げつけた。
「その名を呼ぶという事は、何処の家の者か?」
「柑子岳城督臼杵鑑続様の使いにて」
早い。
大友家の筑前国支配は、土着化した一門衆にあたる同紋衆の立花家、地場国人衆ながら同紋衆の縁者を養子に送って乗っ取った高橋家、糸島半島を中心に大友家直轄領を管理していた臼杵家の三者によって統治されている。
こちらからはまだ具体的な動きをしていない。
「一介の浪人風情に大大名大友家が何の用だ?」
「お屋形様が門司にてお待ちでございます。
お連れするようにと」
「縁者を引っ張りだすほど、門司はやばいか」
「……」
「~♪」
薄田七左衛門が口笛を吹いて笑う。
俺が良い所のボンボンであるのは知っていただろうが、今ので完全に身バレしただろう。
それぐらい、今の大友家の御曹司というものには価値がある。
だが、俺は知っている。
この戦いは毛利家の勝利に終わることを。
何も答えない侍の無言がそれを雄弁に語っている。
脇差の柄に手をかける。
薄田七左衛門が前に出て有明が俺の間合いから離れる。
今こそ最高級遊女として名を馳せている有明だが、上り詰める前は御陣女郎として戦地で春を売っていたから自分の身ぐらいは守れる。
こっちの臨戦態勢に相手の侍達も柄に手をかけようとした時、一番聞きたくない声が間に割って入った。
「思ひ知る 人に見せばや 柳町 春の夜ふかき 有明の月」
(風情を解する人に見せたいものだ。柳町の春の夜深い、この有明の月を)
こんな風流で殺気を止める野郎を俺は一人しか知らない。
大友家同紋衆が一人、滅んだ大大名大内家筑前国守護代、大友家博多奉行が一人、高橋鑑種。
俺と有明の仇であり、有明を囲っていた男でもあり、俺の烏帽子親でもあり、俺を監視しながら好きに泳がせていた男。
大友義鎮の信頼が厚く博多の差配を任されながら、後に毛利に寝返りながらも生き残った男。
有明をここに落としながら、彼女を囲った事で俺が救い出す時間を作った男。
そんな男がこんな場所に出るという事は、既に周囲に彼の配下を置いているのだろう。
「更級日記か。
渋い所をついてやがる」
「こんな場所ですから、天神様の加護をと」
更級日記の作者はこの地に流された天神様こと菅原道真の縁者だという。
そのあたりからこうして知識を晒して仲裁するこいつの才能は認めざるを得ないが、どうも鼻につく。
「いかがであろうか?
ここは天下の往来にて有明の月も沈む頃合。
臼杵殿にはそれがしが声をかけておこう」
上位者よりこう言われると、臼杵家の侍たちも手を出す事はできない。
しばらく高橋鑑種を睨みつけた後立ち去ってゆく。
「まだまだ青いですな。
来るのが分かっているのだから、手を考えなされ」
俺の監視者なだけに言葉に遠慮がない。
だが、こいつの下で俺も有明も生かされていた事は否定出来ないし、武も学も教えてくれたのはこいつだ。
「礼は言う。
それを分かって、わざわざここに来てこうして嫌味を言うのだからいい趣味してやがる」
「それは失礼を。
菊池鎮成様」
俺の名前は菊池鎮成。
父は大友家に謀反を起こして粛清された大友家一門衆で、肥後菊池家に養子に行った菊池義武の庶子。
母親は田島重賢の娘で、重臣として抜擢された彼は菊池義武の滅亡に最後まで尽くしたが、菊池義武を最期に裏切って俺を生き残らせた後病にかかりこの世を去った。
そして、俺は長く人質として小原鑑元の所へ預けられ、彼の滅亡の後は高橋鑑種の人質として生活をしていた。
だが、元服し一人前となった俺は菊池の名を名乗って、浪人として生きる事を選んだつもりだったのだ。
有明を身受けして、高橋鑑種の謀反を密告する事までしか考えていなかったのは理由があるから。
俺の寿命が、あと10年もないのを知っていたからだ。
「で、この後どうするので?」
「銭はある。
しばらくは博多に隠れるさ。
臼杵の手勢も手出しはできないだろうからな」
「お好きな様に。
いずれ、その血の呪いが御身に降りかかるその時まで、自由に空を飛び回りなされ」
「散々鳥かごの中で飼っていた本人が何を言うか?」
「おや、感謝してくれると思ったのですが?
菊池残党を始めとしたもろもろの声を聞こえなくしたのはそれがしですよ」
そんな減らず口を交わしながら、高橋鑑種とは博多の街の前で別れた。
あいつは、俺が何者か知っているからこそ、俺が自由に動けないと確信してこうして俺をおちょくっているのだろう。
「あれ斬れんわ。
手の者が複数潜んでそっちのおなごを狙っておった。
一番相手にしたくない輩よ」
薄田七左衛門の苦笑に俺も同意せざるを得ない。
あれを相手に俺達は逃げようと試みるのだ。
それができるのだろうか?
「八郎!
行きましょう!!」
有明が俺の手を取って、楽しそうに笑う。
せめて彼女だけは俺が死ぬ後でも幸せになってほしい。
そう心から思った。
田島重賢の娘が母親なのはオリ設定。
世間狭しと言えども、小原鑑元の乱あたりで話を作っているのが私ぐらいしかいないのがつらい。
遊郭周りの描写は江戸時代のものを参考に。
遊郭の名前は博多にあったものからつけさせてもらいました。
菊池義武 きくち よしたけ
立花鑑載 たちばな あきとし
臼杵鑑続 うすき あきつぐ
菅原道真 すがわら の みちざね
菊池鎮成 きくち しげなり
田島重賢 たじま しげかた
大友親貞 おおとも ちかさだ
鍋島直茂 なべしま なおしげ
7/28 大規模加筆修正
3/25 少し加筆
3/25 冒頭部を『旅立ちは静かに思いは心の奥に』へ移設
3/26 一部を『剣客崩れと遊び人』へ移設
3/28 大規模加筆