淀川渡河戦 後編 【地図あり】
野口冬長。
三好長慶を頂点とする兄弟達の五男で、影の薄い人物で知られる。
その記述は曖昧で、早くに合戦で討ち死にしただの、三好長慶死後の混乱を嫌い帰農しただの多岐にわたる。
とはいえ、俺が条件に出した『一門の大将』ならば間違いなく相応しい人物に間違いは無い。
そんな彼が騎馬大将として指名されたので、下手な侍を出す訳にもいかなくなった。
それは同時に編成する俺にもプレッシャーがかかる事を意味する。
「この隊は一応それがしが大将ではありますが、大友殿の下知に従えと兄者より命を受けております。
それがしが騎馬大将になった上で、騎馬武者達をどのように集め、どのように用いるので?」
野口冬長の口調から見え隠れする『お手並み拝見』の好意的雰囲気。
余所者かつ若輩者である俺の指揮に従えという命令もこなす事に怒りも嫉妬も湧いていないみたいだ。
久米田合戦で三好義賢や安宅冬康を助けた事を知っているのだろう。
「まず、大事なのは騎馬のみゆえ、郎党を連れて加わる場合も馬に乗ってもらう事です」
「それは徹底させよう。
それがしの馬廻も馬に乗せる事にする」
「野口殿の馬廻を中心にしましょう。
何騎ほどになりますか?」
野口冬長は彼の家臣を呼んで確認させる。
出てきた数字は、思ったより少ない数字だった。
「お恥ずかしいが、それがしを入れて十数騎ほど……」
これは野口家が淡路国の水軍衆の家という理由もある。
馬よりも船の場所ゆえに馬に銭をかけるよりも船に銭をかけていたのだ。
その為、騎乗できる侍が少ない上に、その武装も揃っていなかったりする。
元々は水軍衆として四国三好軍を輸送するのが仕事だったのに急遽呼ばれたので兵も装備も整っていなかった。
「そうなると、三好一門の郎党からもう少しお借りする事になりそうですな」
俺のつぶやきに野口冬長は笑顔を見せる。
そのあたりは先に三好軍の中で調整していたのだろう。
「兄上と篠原殿より騎馬武者を二十騎ほどお借りする事を約束してもらいました。
郎党にも馬を与えるので、なんとか数はそろえられるかと」
野口冬長の手勢と合わせて三十数騎。
これに郎党二人も騎馬に乗るので、およそ六十騎がプラスされる。
篠原長房から三十頭馬をもらっているので、更に三好軍の郎党に乗せれば大体百騎の騎馬武者部隊の出来上がりである。
決戦前の実験部隊としてはそこそこの規模だろう。
「なるほど。
急場作りの隊ゆえに色々と使う際の注意が必要ですが、それをお教えしましょう」
三好家一門衆を大将にした実験部隊が負けたら、色々と後がまずくなる。
その為に、しくじらない運営を心がけないといけない。
「戦場で騎馬隊を突っ込ませるのは、決定的な時に限ります。
それまではじっと我慢していただきたい」
「心得た」
これができるかどうかで騎馬隊の成否に関わる。
編成された連中の大半が三好軍の騎馬武者で大将を一門からもってきたのはこの為である。
「次に、敵の側面や背後を突く事を目的とします。
側面や背後から弓を撃つ事が第一と心得てください。
首については捨て置く事。
その代わりに、戦の後に感状を全員に渡して頂きたい」
「なるほど。
それも徹底させよう」
野口冬長が頷いたのを見て、俺は騎馬隊への最初の仕事をお願いする。
おそらく、この戦においては、これが一番の功績になるだろう。
「それでは、騎馬隊の準備が整い次第、仕事をお願いしたい。
淀川を渡るための渡しを確保して頂きたいのです」
馬の移動力を十二分に使った戦略機動という仕事を。
「急げ!
畠山の物見が来る前に渡ってしまうのだ!!」
「船を持って来い!
押すな!!」
「ここは馬で上がれるぞ!」
四万五千の大軍の渡河なんて時間がかかるもので、それが畠山軍にばれない訳がない。
明け方からの渡河作業から一刻後。
朝日が本格的にのぼり青空が広がると、そこには渡河を邪魔しに来た畠山軍が居た。
「敵の先方は安見宗房!
数はおよそ一万!!」
「渡河した三好政康隊が畠山勢先鋒と合戦を始めました!」
「摂津衆が渡河を始めています!」
「泳いだ者は体を温めてから戦に参加せよ!」
渡河戦というのは軍事上において悪手である。
船で移動すると時間がかかるし、泳いだりして渡るならば体力を消耗するからだ。
だが、その悪手を選んでも三好軍は勝てるだけの兵力があった。
問題は畠山軍の鉄砲隊だが、これも渡河と相性が悪い。
雨が降れば鉄砲は使えないが、同時に川が増水して渡れなくなる事を意味する。
六角軍による勝竜寺城包囲という横槍に押された形で三好軍は全部隊を畠山軍に向ける。
これに驚いたのは畠山軍である。
六角軍の勝竜寺城包囲は畠山軍にも伝わっていたから、三好軍が全軍でこっちへ来るとは想定外だったに違いない。
渡河阻止にやってきた畠山軍一万というのは、警戒していた即応部隊の全力に等しい。
畠山軍襲来時に渡河に成功したのはおよそ一万。
こうして双方青空のもとで死闘が繰り広げられる事になった。
「三好勢!
押されています!」
「後詰を送れ!!」
「船が足りません!」
三好軍の劣勢は明らかだ。
畠山軍の鉄砲に渡河による兵の不足、渡河による体力の消耗等不利な材料が重なっているのだ。
だから、畠山軍に横槍を入れる部隊が必要になる。
太陽は中天にさしかかり、畠山軍は更に雑賀衆を中心にした後詰一万が到着。
一方三好軍は摂津勢一万が渡河したがそこから先が続かない。
後続を受け入れる場所が無いのだ。
「準備はできたか?」
俺の言葉に諸将が頷く。
今回の俺の編成は以下のとおりだった。
大友鎮成・有明・お色・果心
馬廻 五十
野口冬長
騎馬隊 百
一万田鑑実
豊後衆 百五十
明智十兵衛
鉄砲組 百
多胡辰敬
尼子勢 三百五十
大鶴宗秋
浪人衆 三百五十
小笠原長時
浪人衆 千
篠原長房
三好勢 二千
合計 四千百
俺が率いている馬廻は俺とその周囲の護衛に専念してもらい、指揮は一万田鑑実に任せる形を取る。
明智十兵衛率いる鉄砲組はその兵器特性から前に張り付かせ続けると消耗が激しいので馬廻近くに置かざるを得なかった。
頼みの綱の騎馬隊は既にこの迂回渡河の為の偵察という一仕事終えており、後ろに控えさせている。
大鶴宗秋が率いる浪人衆は久米田合戦で雇った連中に新たに雇ったのを足して編成し、福屋隆兼が居なくなった為に戦線で指揮する足軽大将として前に出す事に。
それでも指揮と練度に不安があるから、戦線を支えるのは多胡辰敬に頼らざるを得ないというこの綱渡りぶり。
おまけに、今回つけられた小笠原長時の浪人衆と篠原長房の手勢がこちらの言うことを素直に聞くかどうか。
こんな数だけは立派だが実質的な寄せ集めでしかないこの部隊で、畠山軍に横槍をかけなければならない。
だからこそ、皆の勝手に任せることにした。
俺が陣を敷いたのは四條畷。
この地にて壊滅した南朝の武将楠木正行の墓があったりするが、足利将軍を擁して河内国人衆を率いる畠山家と戦うからとゲン担ぎを兼ねている。
『片鷹羽方杏葉』の旗が揺れ、その旗につけられた橙の実も揺れていた。
本陣馬廻中央にあって俺の場所を位置する旗持は、最も武勇と忠誠の高い人間から選ばれる。
この旗が倒れる時というのは本陣の総崩れを意味するからだ。
俺は皮肉の笑みを浮かべるのを我慢する。
ある意味仕方の無い事とはいえ、武勇はともかく忠誠が高いとは言えないのを知っているからだ。
だが、それでも急遽志願した連中より腹の中が分かっているから、旗持を任せざるを得なかった。
「どうしたの?八郎。
妙な顔をして」
「この間といい、なんで畿内にまで来て戦をしているんだろうなと思っただけさ」
有明に見られていたらしく尋ねられるが、俺はそれを別の理由でごまかす。
口にして思ったが、本当になんでこんな事になったのだろうと思いつつ、俺は出陣を命じた。
「よし。
畠山勢に横槍を入れるぞ!
ここが勲功の稼ぎどころぞ!!
好きなだけ暴れるがいい!!!」
俺の下知に篠原長房指揮の三好勢と小笠原長時指揮の浪人衆が畠山軍の横槍を突いて崩してゆく。
とはいえ、三千程度の横槍ゆえ後詰から対処する部隊に巻き込まれて乱戦となる。
俺達がこれだけの部隊を渡河できたのは夜間行軍のおかげである。
鳥飼から更に北に上がった山崎まで出て、そこから渡って南下したのだ。
その夜間行軍に成功した最大要因が山崎まで騎馬隊を先行させて渡しを占領した事。
そして「山崎に三好軍現る!」の報告に驚いた六角軍は勝竜寺城の包囲を解いて撤退するというおまけまでついていたり。
こうして、俺を先鋒に安宅冬康指揮の別働隊一万四千は淀川渡河に成功したのである。
だが、数が数なので、全部隊が戦場に到達していない。
安宅殿の主力が戦場に着くのが先か、渡河した三好軍が敗北する方が先かの勝負になってきた。
「安宅殿へ伝令!
我らは畠山軍と交戦せりと伝えよ!
急げ!!」
伝令を走らせて交戦を伝えようとしたその時、ここまで轟く轟音が聞こえる。
雑賀衆の主力である鉄砲隊が火を吹いたのだ。
こうなると渡河で消耗している分こちらの方が不利になる。
「果心。
仕事だ」
「はい。
何なりと」
戦前に抱くと体力を消耗するので、抱かなかったおかげで欲求不満気味の果心が艶っぽい声を出す。
横にいる有明とお色の機嫌がみるみる急降下しているのだが、そっちを気にしている余裕はない。
「飯盛山城に上がって、後詰を頼んでこい」
このままでは渡河した三好軍が撃破された後に、俺を含めた安宅軍も撃破される最悪の事態になる。
それを回避する為には、どうしても足りない一手をどこからか持ってくる必要があった。
「渡河した三好勢が崩れています!」
「篠原殿と小笠原殿手勢が戻ってきます!」
「こちらにも畠山軍の軍勢が!!」
状況は更に悪化する。
だからと言って下がるわけにも行かない以上、俺は皆を信じて腹をくくる事にする。
「尼子衆!
前に出よ!!
御曹司の前に敵を見せるでないぞ!」
「鉄砲隊放て!」
多胡辰敬率いる尼子勢が前に出て、畠山軍を押し返す。
その尼子勢を支援する為に明智十兵衛が指揮する鉄砲隊が畠山兵を討ち取ってゆく。
「御曹司。
浪人衆で後詰に出ますぞ。
御免!」
大鶴宗秋が残った浪人衆を率いて、篠原勢と小笠原勢を助けるために後詰に出る。
彼らが帰陣できたら再編してもう一合戦行えるからだ。
敵は俺達だけでなく他の三好軍にも攻めかかる。
「松山重治殿の陣にも敵が!」
「三好康長隊!
畠山勢と交戦を始めております!!」
「御曹司が見ておられるぞ!
一万田の家の名を高めるはここと思え!!」
馬廻の周囲にも流れ矢や流れ弾が飛んでくる。
それだけ合戦場が近くなっている証拠である。
それでも俺の本陣に翻る『片羽根片杏葉』の旗は動かない。
この旗が揺らげば、全軍が揺らぎかねないからだ。
一万田鑑実が兵を鼓舞して合戦に備えた。
持ちこたえれば。
この攻勢を支えきれば勝てるはずなのだ。
だが、目の前に広がる修羅場に体が震える。
自分の命を張った博打に冷や汗が止まらない。
「八郎……」
「八郎様……」
不機嫌だった有明とお色も覚悟を決めて俺の側から離れない。
今なら全てを捨てて逃げられるかもしれないという誘惑を振り払う。
自分だけでなく多くの命すら博打にかけている重さと死への恐怖が重くのしかかる。
これを戦国武将たちは皆感じていたのか。
「っ!
何事だ!!」
山が震えた。
その鬨の声に誰もが振り向く。
その声は飯盛山城から聞こえてきた。
「見ろ!
お味方が!
お味方が城から打って出ているぞ!!」
飯盛山城に篭っていた一万の兵と三好義賢がその足りない一手だった。
周囲を囲んでいる畠山兵をすり抜けて状況を報告すれば、的確に後詰を出してくれるだけのチート能力を彼は有していたのだから。
相手が勝ったと思った瞬間こそもっとも危険な時、畠山軍は勝利が見えていたが為に、かえって勝利を掴み損ねる羽目になった。
彼らが烏合の衆である事を見きって、最低限の兵を残しただけの七千の三好軍が山を駆け下りて畠山軍に突っ込んてゆく。
その格好のチャンスを安宅冬康が見逃すわけもなく、本陣すら突っ込ませた全戦力で畠山軍を押し返してゆく。
「今だ!
鏑矢を放て!!
騎馬隊を突っ込ませろ!!!」
俺の陣から甲高い音を立てて赤い紐がついた鏑矢が天に放たれる。
決戦戦力として温存していたおよそ百騎の騎馬隊の突撃が、動揺激しい畠山軍目掛けて突っ込んでゆく。
ただし、突っ込んだのは側面でも背後でも無い正面。
ぎりぎり崩れない集団での突撃は明らかに首狙いなので、急造部隊の統制に失敗したという事なのだろう。
この後で何らかの対処が必要だろうが、この突撃が決定打となり、ついに畠山軍が崩れる。
「追撃するな!
まだ敵には二万もの後詰が残っているのだぞ!!」
「合戦はこれからが本番!
畠山軍が飯盛山城を攻める前に戻るぞ!!」
ここで追撃して不覚をとるような武将ではないからこそ、三好義賢と安宅冬康も名将と呼ばれるのだ。
現在有利のように見えても、渡河した為に三好軍は消耗しきっていたからだ。
統制が崩れかかっていた騎馬隊も野口冬長が統制を取り戻したみたいで、深い追撃はせずに陣に戻ってきている。
なんとか生き残る事ができて俺は床几に腰を落とし深く息を吐いた。
「勝った……のか?」
ぽつりと呟いた俺に有明が抱きつく。
俺の側から離れず、ずっと俺の戦を見ていた有明だからこそ、俺だけに耳元で囁いた。
「ええ。
初陣おめでとう。八郎」
俺がほんとうの意味で戦を知ったのは、この合戦だろう。
死の恐怖、己以外の命を預かる重さ、そして眼下に広がる死体の山がそれを教えてくれる。
「畠山軍!
後退してゆきます!!」
「三好軍!
渡河終わりました!!」
歓声があがる。
勝ったと。
生き残ったと感じるけど体が動かない。
いつの間にか空は赤くなり、戻ってきた果心に指摘されるまで俺は有明に抱きしめられたままだった。
淀川渡河戦
三好軍 三万一千
畠山軍 二万
損害
三好軍 五千
畠山軍 三千
討死
なし
今村慶満 いまむら よしみつ
篠原長房 しのはら ながふさ
三好政康 みよし まさやす
松山重治 まつやま しげはる
三好康長 みよし やすなが
11/30 少し加筆
7/11 兵数周りを修正
7/12 誤字修正と文体を調整
8/4 加筆修正に伴い前後編に分離し前部分を前編に