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八郎立志編 用語辞典 3/29 追加

読者向けに簡単な用語辞典を作ろう。

そんなに説明することなんてないよ。

菊池家 家紋 並び鷹の羽


 肥後国菊池郡に住んでいた大宰少監藤原則隆から始まり、肥後国北部に根を張ってその勢力を拡大させてゆく。

 源平合戦時には平家側について壇ノ浦では一族の多くが平家と共に海に沈み、承久の乱では後鳥羽上皇方に加担する等時勢を読み誤り、元寇での恩賞に対する不満から反北条に走る。

 菊池家が歴史上の表舞台に本格的に躍り出るようになったのは元弘の乱からで、後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を奉じ阿蘇家等と共に挙兵。

 この時は大友家と少弐家の寝返りによって敗北に追い込まれるが、足利尊氏が後醍醐天皇方に転じて六波羅探題を落し大友家と少弐家が鎌倉幕府の九州拠点である鎮西探題を攻め滅ぼした事で勝者の側に回る。

 建武の中興から南北朝にかけて一貫として南朝側につき、九州における南朝の中核として室町幕府軍側についた大友家および少弐家と激しく争うことになる。

 その有名な戦いは多々良浜の戦いであり、九州まで落ち延びた足利尊氏を討ち取る格好の機会だったがそれは果たせず、南朝没落の一因となる。

 とはいえ、九州における南朝の勢いは強く、針摺原の戦いや筑後川の戦いで幕府軍を撃破し九州の南朝全盛時代を築き上げる。

 観応の擾乱に伴う混乱で九州まで目が届かない幕府は九州探題今川了俊の派遣まで待たねばならなくなるが、彼の出現によって南朝は衰退しその中心を担っていた菊池家も没落に追い込まれてゆく。

 戦国時代に入ると菊池家も配下国人衆の統制に苦しみ、一族や国人衆の内訌に苦しむことになる。

 とはいえ、博多を巡る争いにおいて博多と筑前国・豊前国を押さえる大内家、肥前国・対馬国で大内家に抵抗する少弐家、豊後国・筑後国を押さえ少弐家と組んで大内家と対抗する大友家の背後を突ける場所にあるから、菊池家は他国大名の介入をいやでも受け続けた。

 特に本国豊後国の背後になるために大友家は長く菊池家に介入し、託摩家を使って菊池家宗家を乗っ取ることに成功。

 大友義鑑の弟大友重治を菊池家当主に据えて背後を固めたのである。

 これが菊池義武である。

 だが、菊池義武は当主になってから独立を望んで兄である大友義鑑と対立。

 生まれから菊池一族や肥後国国人衆は彼に呼応せず肥前の有馬家を頼って肥後から逃れ去ったが、大友家で起こった一大政変である大友二階崩れが彼に絶好のチャンスを与える事になった。

 大友家の混乱を知って菊池義武は肥後国に帰国し菊池家をまとめると、大友家当主の座を狙う素振りを見せたのである。

 それを黙ってみているほど、新当主となった大友義鎮は間抜けではなかった。

 大友二階崩れの翌年には戸次鑑連や志賀親守や小原鑑元の軍勢に攻められて肥後国を追われて最後は相良晴広を頼ったが、大友義鎮は相良氏に働きかけて菊池義武を豊後に呼び寄せその途中で殺害し、菊池氏は名実ともに滅亡。

 この菊池義武を最後を看取ったのが戸次鑑連で、菊池義武の忘れ形見の一人が菊池鎮成こと大友親貞である。



大友家 家紋 抱き杏葉


 源頼朝の庶子を祖とする所伝が伝承されてきたが、これは下向した大友家が地場国人衆にかましたハッタリであり、相模国大友郷を所領していたから大友家である。

 源頼朝の寵臣だった大友能直が源平合戦後に豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となり、彼の子孫が豊後で繁栄していく事になる。

 豊後国の地場国人衆で源平合戦にも関与していた緒方惟栄を中心とした大神国人衆や、平家との繋がりが深かった宇佐八幡宮等を監視しながら詫摩家・一万田家・田原家・戸次家・木付家・入田家等の分家が出て根を張ってゆく。

 元弘の乱から南北朝時代にかけて大友家は最初は菊池家を中心とした反幕府蜂起に呼応したが、少弐家と共に離脱し宮方敗北の原因となるが足利尊氏が六波羅探題を滅ぼしたあたりで再度反幕府に転じて鎮西探題を少弐家と島津家と組んで共に滅ぼす。

 建武の中興時はその裏切りを咎められて冷遇されるが、その結果足利尊氏側について多々良浜の戦いで勝利し、九州における幕府側として働くことになる。

 南北朝時代は菊池家を中心とする南朝側の力が強かったのだが、九州探題今川了俊の出現あたりから幕府側が押してゆき幕府側の勝利に終わる。

 だが、その過程で博多の帰属や少弐冬資の謀殺等で大内家対少弐家・大友家連合の対立が成立し、応仁の乱から戦国時代にかけてこの三家はとにかく激しく戦を繰り返した。

 その後、少弐家や大内家が滅んだ結果、博多を巡る争いは大友家と大内家を滅ぼした毛利家との争いに集約され、九州の国人衆は『大友』と『反大友』に分かれて争うことになる。

 そんな大友家もお家争いとは無縁とは行かなかった。

 朽網親満の乱や菊池義武との確執、佐伯惟治の粛清等戦国中期ですら大名の権威確立に手間取り、勢場ヶ原の戦いでは宿敵大内家に本国豊後を脅かされるという恐怖を味をっている。

 そんな大友家の決定的お家争いが大友二階崩れで、庶子である塩市丸に後継者にと企んだ大友義鑑が重臣に討たれ、嫡子である大友義鎮が当主についてもその内情は安定しなかった。

 その結果、叔父菊池義武謀殺、大友義鎮擁立の立役者だった一万田鑑相粛清、一万田鑑相粛清を主導した小原鑑元粛清と家中に動揺が相次いでいる中、大内家を滅ぼした毛利家が門司城を奪取し門司合戦が勃発する。



大友家家臣団の色分け



一門


 大友一族で宗家のみが使用。

 当主以外の兄弟は分家するか養子によって大友姓から外れて同紋衆となる。



同紋衆


 大友一族を祖に持つ譜代衆。

 義鎮の代では最高意思決定機関である加判衆は彼らからしか選ばれなかった。



下り衆


 大友家九州下向の際に付き従った一族で、古庄家や斉藤家等が有名。

 大友家の譜代格に当たるが、一門と同紋衆との対比では下り衆も他紋衆の枠に入れられる。



他紋衆


 一門・同紋衆を除いた全ての国人衆の総称。

 それゆえ、内部が一枚にまとまっていない。

 豊後国には佐伯家を頂点とする大神系国人衆がおり、大友家と対立していた。

 また、豊後国には大神系以外の国人衆も勢力を持っていた。

 豊前国では城井宇都宮一族、筑前国では大蔵一族などの地場国人衆が大友家の支配に一族として抵抗していた。



加判衆


 大友家最高意思決定機関で『加判』(サイン)をするから加判衆。

 その人数は時代によって増えたり減ったりするが、大友義鑑時代は六人で同紋衆四人、他紋衆二人で運営されていた。

 大友二階崩れとその後の反乱や粛清によって、大友義鎮時代に、加判衆は全て同紋衆から出る事になった。



大友三大支族



田原家


 国東半島を拠点に勢力を持つ。

 幾度と無く独立を望み、大友宗家より常に警戒される家。

 その分断策に吉弘家など田原分家が優遇された。



志賀家


 豊後南部に勢力を持ち、北志賀家と南志賀家(双方とも志賀と名乗っている)に本家が分裂しているがその地盤は強大。

 南部衆と言えば、この志賀家とその一族を指す事が多い。



託摩家


 肥後を拠点に菊池家の血と混ざり土着化。肥後の名族菊池家をついに乗っ取る。

 だが、菊池義武の大友からの独立とその戦乱で衰退。




大友家以外の国人衆



大神系国人衆 家紋 三つ鱗


 鎌倉時代前から豊後に土着し、緒方惟栄などを輩出して豊後を支配していた一族。

 豊後国南部の祖母山周辺を基盤とし、その山岳信仰を元に発展を遂げるが、背後には宇佐八幡宮の姿が見え隠れしていた。

 古から水軍衆を抱えていた事で有名で、その水運の利を狙っていた大友家と長く対立を続けることになる。

 大神系国人衆の宗家格は佐伯家だが、肥後国で独立を狙う菊池義武に呼応し佐伯惟治が乱を起こし宗家が没落。

 その後大友二階崩れで宗家格が小原鑑元に、小原鑑元が粛清されると雄城治景が宗家格として大神国人衆をまとめて加判衆の座に座って、同紋衆の圧力をかわし続けた。 

 その雄城治景が引退を表明した事で、一族としての統一行動を取る事はほぼなくなっている。



大蔵党一族 家紋 撫子


 筑前国に根を張る国人衆の集合体。

 藤原純友の乱鎮圧に功績のあった大蔵春実を祖に代々大宰府府官を務め、子孫は九州の原田氏・秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏の祖となって繁茂。

 筑前国人衆に大蔵の血が入っていない所はないと言われるが、大内家や少武家などの守護勢力の下で弱体化。

 彼らの地縁を繋ぎ続けたのは英彦山の山岳信仰であり、山伏たちの往来で彼らの結束は保たれていた。

 筑前国・豊前国を領有していた大内家は宇佐八幡宮や英彦山等の宗教施設に多額の寄進をして彼ら国人衆を懐柔していたので、必然的に反大友家となり大友家の報復を呼びという形で現在も親毛利家というより反大友家である。

 大蔵党は原田・秋月・高橋の三家の格が高いのだが、高橋家は断絶。一万田家より養子をもらう事で家を存続させた。

 それが高橋鑑種で、大内義長に付き従い筑前守護代として辣腕を振るい、小原鑑元の乱で親である一万田鑑相の仇である小原鑑元を討ちその名前を轟かせる。



宇佐衆・宇佐八幡宮 家紋 三つ巴


 宇佐八幡宮の荘園領主を母体とした国人衆の集合体。

 現在の筆頭は佐田隆居で、宇佐衆は勢場ヶ原合戦にて大内家の方につき、現在でも大友家中ではその怨恨を引きずっている所が多い。

 大友家はこの宇佐八幡宮の荘園を簒奪する事で勢力を拡大し、それに手を貸したのが豊後の宇佐八幡宮の分社の一つである奈多八幡宮である。

 反大友傾向及び、今だ多くの荘園を持っていた宇佐八幡宮は、門司合戦における大友軍の反撃の際に焼かれ、宇佐衆は大友家に降ることになる。



城井宇都宮家 家紋 三つ巴


 元は関東の名家で豊前国に根付いた一族。

 とはいえ、大友・大内にはさまれた結果勢力は衰え、分家の多くが大友・大内(毛利)へと独自の判断にてついている。

 宇佐衆筆頭の佐田家は城井宇都宮家の有力分家の一つ。



奈多家 家紋 三つ巴


 宇佐八幡宮分社の一つで豊後国国東半島にある。

 大友家による豊後国の宇佐八幡宮荘園の簒奪はこの奈多八幡宮の存在なくしては成り立たず、利害関係からその勢力を拡大させてゆく。

 大友家寺社奉行を務め、その絶頂期は大友義鎮の継室に奈多夫人を送り込んだことで、彼の兄が寵臣として大友義鎮の側に控えることになった。

 田原家分家の養子に入った田原親賢がそれで、最終的には田原家乗っ取りを考えていたらしく田原宗家と激しい摩擦があったらしい。




毛利家 家紋 一文字三つ星


 安芸の国人衆だった毛利家は当主毛利元就一代で成り上がり中国地方六カ国の主となり、大内家を滅ぼし尼子家と激しく石見で争っていた。

 毛利元就がここまで勢力を拡大したのには大内家の自滅に近い滅亡という事情があるのだが、毛利隆元が大内家の後継という姿勢を打ち出して、大友晴英こと大内義長を擁立した陶晴英を厳島の戦いで滅ぼした事が大きい。

 だが、大内家の後継を謳った以上、大内家の宿痾である博多の領有と尼子家の打倒も引き継ぐ事になり、それは大友家と尼子家と戦うという二正面作戦を強いられる事を意味していた。

 村上水軍をはじめとした瀬戸内水軍と深いつながりが有り、吉川元春や小早川隆景という名将たちも揃っている毛利家にとってすら大友家と尼子家の二正面作戦はきついものがあった。

 ある特は幕府や朝廷の仲介で和議を結び、ある時は敵の国人衆を寝返らせて反乱を誘発したりと、毛利元就はありとあらゆる手で自領を守りその拡大を邁進し続けた。

 そんな毛利家が九州の旧大内領を大友家から奪還する拠点として絶対に奪っておきたいのが門司城だった。

 大友家と毛利家の争いの序盤は、この門司城を巡って激しく戦われる事になる。




少弐家 家紋 寄懸り目結


 元は武藤姓なのだが、大宰少弐になったので少弐家と名乗るようになる。

 大友家と同じく源平合戦後に九州に下向した家で、太宰府を中心に筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬を中心に勢力を拡大。

 九州の旗頭的地位につき、元寇などでは大いにその武勲を知らしめた。

 ただ、鎌倉幕府は元寇後に九州の防衛を強化する名目で鎮西探題を設置し北条一族を派遣。

 元寇後の恩賞に不満を持っていた少弐家は大友家と共にこれで反幕府に回る。

 元弘の乱では、後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を奉じた菊池家の決起に大友家と賛同しながらも寸前で動かずに菊池家の蜂起は鎮西探題に鎮圧される。

 その後足利尊氏が後醍醐天皇方に転じて六波羅探題を落したのを見て、大友家と少弐家と島津家が鎌倉幕府の九州拠点である鎮西探題を攻め滅ぼした事で勝者の側に回る。

 建武の中興から南北朝にかけて一貫として南朝側についた菊池家と激しく戦うが、多々良浜の戦いで足利尊氏が勝った際には少弐家の武功が勝因の一つにあげられる事になった。

 足利尊氏は京を奪還するために九州を後にするが、この際に背後を固めるために鎮西管領(のち九州探題)一色範氏を派遣したがこれが少弐家のプライドを傷つけることになった。

 やがて足利尊氏と弟足利直義の対立から観応の擾乱が起ると、足利直義の養子だった足利直冬が九州に下向、少弐家は彼を支援して鎮西管領と対立。

 観応の擾乱が足利直義の死去によって終結すると孤立化した足利直冬は中国地方に渡り、少弐家は孤立。

 すると南朝の菊地武光と手を組み針摺原の戦い、ついで犬塚原の戦いに勝利し、一色家を九州から追い出すことに成功する。

 で、邪魔な頭が居なくなったので少弐家は再度幕府側に帰参したが、そんな経緯で幕府側の疑心暗鬼は拭えるわけもなく、決戦である筑後川の戦いで大敗。

 かくして、九州における南朝の覇権確立の影のMVPとなってしまった。

 ここで、九州情勢を何とかするために幕府が送り出したのが、九州探題の今川了俊である。

 幕府の重鎮であり文武兼備の将として知られた存在だった今川了俊は幕府側の勢力回復に活躍したが、同時に不審な動きをした少弐家を常に警戒していた。

 その結果、肥後国水島にて少弐家当主少弐冬資を謀殺し、九州三人衆(少弐家・島津家・大友家)と九州探題の関係は完全に決裂。

 地元守護大名の支援を失った今川了俊が頼ったのが、周防・長門守護大名である大内家だった。

 その後、今川了俊は失脚するのだが、九州における対立軸は九州探題(を操る大内家)と少弐家・大友家という地元守護大名同士の対立にシフトする。

 特に商都博多を抱え少弐家の本拠地である太宰府があった筑前国を巡って、少弐家と大内家は何度も激しく戦ったが、戦況は国力差から大内家優位のうちに進む事になる。

 ついには筑前を捨てて対馬国宗家の元に逃れ、応仁の乱においては大内家が西軍の山名宗全に加勢したので東軍側について、一時は九州から大内家を追い出しかかったのだが、あと一歩の所で届かず。

 その後宗家とも仲違いをして肥前国に逃れることになった。

 応仁の乱におけるある意味唯一の勝者だった大内家は、少弐家を滅ぼさんと大軍を肥前国に送り出すが、少弐家は田手畷の戦いでからくも勝利。

 この戦いを主導し武名を轟かせたのが、竜造寺家兼でありその配下武将である鍋島清昌だった。

 だが、讒言により竜造寺家を粛清するという取り返しのつかないミスをやってしまい、少弐家はついに肥前国国人衆からも見限られる事になった。

 竜造寺家兼の後を継いだ竜造寺隆信はこの恨みを忘れてはおらず、少弐家を滅亡に追い込みその仇を討つことになる。

 なお、大内家への対抗と少弐という名を惜しんだ大友家は、血縁政策で少弐家に大友の血を送り込み、肥前国に影響力を広げつつあった。

 そのため、少弐家を滅ぼした竜造寺家は必然的に大内家、大内家滅亡後は毛利家の側につき、その衝突は必然だったと言えよう。




宗像家 家紋 丸に一つ柏


 古くから信仰されてきた宗像大社の大宮司家が武家化した家。

 宗像大社は、辺津宮・中津宮・沖津宮の三宮から成っており、その行き来の為に自前で水軍衆を抱えていた事が勢力拡大のきっかけとなる。

 博多の隣に位置し、関門海峡近くまでの制海権を握っている宗像家は多くの武家だけでなく商家からも寄進が相次ぎ、源平合戦時には平家に、その後は幕府側につけたのもその地理と自前の水軍衆に、宗像大社という宗教的権威を抑えていた事が大きい。

 だが、元寇の後はその地理と自前の水軍衆に、宗像大社という宗教的権威を幕府が抑える必要があり鎮西探題は宗像家の北条家被官化を推し進め、彼らを反北条に走らせる結果となった。

 元弘の乱から南北朝にかけては一貫として幕府側につき、足利尊氏帰還時には水軍衆を提供している。

 その後起こった大内家対少弐家・大友家の争いにおいて宗像家は両家からの介入を強く受けるようになる。

 大内家の本拠は周防国・長門国であり、九州で戦うためには船が必要だったからだ。

 少弐家は対馬国宗家や肥前国松浦家と繋がっており、彼らの水軍衆は宗像家にとって朝鮮半島交易においてライバルだった事もあり、大内家と宗像家は急速に結びつく。

 その結果が、宗像氏郷の妻に大内政弘の娘が送られた事だろう。

 準一門に等しい待遇を宗像家は受け、それが大内家滅亡の際に悲劇を生むことになる。

 大寧寺の変で大内家が滅び、大内義隆の近習だった黒川隆像こと宗像氏男が討ち死にすると、宗像家でお家争いが勃発。

 陶家の血を引く鍋寿丸こと宗像氏貞派と、宗像氏男の千代松派で、先の大宮司宗像氏続と宗像氏男の正室だった正室菊姫も千代松派につき、宗像氏貞派は孤立していた。

 九州の大内領を掌握するには宗像家の水軍を頼まねばならない陶晴賢はここで強硬手段に出る。

 武力にものをいわせて強引に内訌に介入し宗像氏貞を入国させると、菊姫母娘および宗像氏続と千代松が宗像氏貞派の手によって殺害。

 宗像氏貞が大宮司職と宗像氏の家督を継承する事とたなった。

 だが、この事件が宗像領内に祟りを引き起こす。

 山田事件と呼ばれるこの一件で、菊姫母娘に女中四人が惨殺された怨念が宗像氏貞の妹お色に降りたのだ。

 お色の発狂に宗像氏貞の母は病み、宗像領内で祟りの犠牲者は三百人にのぼったという。

 陶晴賢もこの祟りから逃れられなかった。

 厳島合戦時、宗像水軍が動員されていたが、毛利家に内通。

 毛利水軍が陶軍の警戒に引っかかった時、「我らは宗像家の水軍衆なり」と言って難を逃れたという。

 ついでに言うと、宗像大社の三女神を安芸国厳島にも祀ったのが厳島神社で、厳島合戦で陶晴賢が滅んだ地でもある。



博多


 この時代日本有数の商都であり、その領有を巡って大内家と少弐家が、大内家と大友家が、大友家と毛利家が激しく争った。

 堺と同じく堀と城壁に囲まれた町で、その運営は町衆と呼ばれる豪商たちが執り行っている。

 そんな中大友家が博多支配のために作った家が立花山城を拠点とする立花家で、この家は『西大友』と呼ばれるほど繁栄。

 また、博多湾西側の糸島半島に臼杵家が進出し、大蔵一族の名家高橋家に高橋鑑種が養子として入ったことで大友家の博多支配は完成したかに見えた。



神屋


 博多の豪商で、石見銀山の銀を博多に持ってゆき、そこから大陸に流すことで巨万の富を築き上げた豪商。

 その為、古くは大内家、今は毛利家と深い縁があり、毛利家の御用商人的立場になっている。



英彦山


 九州における山岳信仰のメッカであり、最盛期には当時は僧坊三千八百、四十九窟の行場を有していたと言われ、多くの信仰と僧兵を抱える中立宗教勢力だった。

 山地を修業の場にして山野を歩き回る修験者は戦国時代に間者として用いられ、その宗教的権威と修験者を手に入れたいと言う事で武家の介入を招く。

 手厚く庇護していた大内家が滅ぶと英彦山は反大友家に舵を切り、毛利家や大蔵一族である秋月家との結びつきを強めてゆく。

 英彦山と宇佐八幡宮は豊前国支配を企む大友家にとって目の上の瘤であり、宇佐八幡宮の焼き討ちは英彦山に対する脅しも兼ねていた。

 なお、戦国時代では『彦山』が正しく『英彦山』は江戸時代に入ってからである。


おぅ……もぉ……(目を覆う)

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― 新着の感想 ―
大友義鎮がキリシタン大名なのは、神社勢仏教勢ついでに山岳信仰もまとめて敵だったからなのかしら。 敵の敵に積極的に近づいた結果かもと思わせる程度には、とにかく敵が多い…
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